「真実」の版間の差分
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
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+ | 真実と申すは如来の御ちかひの真実なるを至心と申すなり。煩悩具足の衆生は、もとより真実の心なし、清浄の心なし、濁悪邪見のゆゑなり。([[尊号真像銘文#P--643|尊号 P.643]]) | ||
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+ | それは真実の意味を『論註』の真実功徳釈に拠(よ)られたからであった。 | ||
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「真実功徳相」とは、二種の功徳あり。 | 「真実功徳相」とは、二種の功徳あり。 | ||
− | :一には[[有漏]]の心より生じて[[法性]]に順ぜず。いはゆる[[凡夫]][[人天]]の諸善、人天の果報<ref> | + | :一には[[有漏]]の心より生じて[[法性]]に順ぜず。いはゆる[[凡夫]][[人天]]の諸善、人天の果報<ref>仏ではなく、人や天人に生まれる果報であること。これは[[生死]]を超える真実の功徳ではない。</ref>、もしは因もしは果、みなこれ[[顛倒]]、みなこれ虚偽なり。このゆゑに不実の功徳と名づく。 |
:二には菩薩の智慧清浄の業より起りて[[仏事]]を[[荘厳]]す。[[法性]]によりて清浄の相に入る。この法[[顛倒]]せず、虚偽ならず。名づけて[[真実功徳相|真実功徳]]となす。いかんが[[顛倒]]せざる。[[法性]]によりて[[二諦]]に順ずるがゆゑなり。いかんが虚偽ならざる。衆生を摂して[[畢竟]] 浄に入らしむるがゆゑなり。 ([[浄土論註 (七祖)#no7|論註 P.55]]) | :二には菩薩の智慧清浄の業より起りて[[仏事]]を[[荘厳]]す。[[法性]]によりて清浄の相に入る。この法[[顛倒]]せず、虚偽ならず。名づけて[[真実功徳相|真実功徳]]となす。いかんが[[顛倒]]せざる。[[法性]]によりて[[二諦]]に順ずるがゆゑなり。いかんが虚偽ならざる。衆生を摂して[[畢竟]] 浄に入らしむるがゆゑなり。 ([[浄土論註 (七祖)#no7|論註 P.55]]) | ||
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2024年11月3日 (日) 23:02時点における最新版
しんじつ
- Ⅱ.
虚妄 である自己と社会の現実に対して如来の願心を真実という。
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
- 真実
まことの意。
- Ⅰ 真如法性そのものをいう。また、真如法性にかなった如来の願心やはたらきをいう。『一多文意』には、
- 「至心」は真実といふことばなり、真実は阿弥陀如来の御こころなり。 (一多 P.678)
- とある。 →真実功徳相。
- Ⅱ
邪偽 (外教)・権仮 (聖道、第十九・二十願の法門)に対して第十八願の法門を真実という。『浄土和讃』には、
とある。(浄土真宗辞典)
御開山は、自らに真実が無いということを真実とされた。
真実と申すは如来の御ちかひの真実なるを至心と申すなり。煩悩具足の衆生は、もとより真実の心なし、清浄の心なし、濁悪邪見のゆゑなり。(尊号 P.643)
それは真実の意味を『論註』の真実功徳釈に拠(よ)られたからであった。
「真実功徳相」とは、二種の功徳あり。