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「三心」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

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と、[[至誠心]]、[[深心]]、[[回向発願心]]の三心が説かれ「三心を具するものは、かならずかの国に生ず (<kana>具三心者(ぐ-さんじんしゃ)</kana> <kana>必生彼国(ひっしょう-ひこく)</kana>)」([[観経#P--108|観経 P.108]]) と《必》の字がある。この「かならずかの国に生ず」の《必》の語に古くから浄土願生者が深い関心を持って来たところである。三心を具すれば、かならず、きっと、まちがいなく浄土へ往生するという仏の証明が「<kana>具三心者(ぐ-さんじんしゃ)</kana> <kana>必生彼国(ひっしょう-ひこく)</kana>」である。<br />
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と、述懐されておられた。そして、この法然聖人の四十三歳の時の[[回心]]の経験を二十三年後に『選択本願念仏集』として著されたのである。この聖道から浄土への教説が比叡山で生死出ずる道に苦悩していた御開山を揺り動かし、聖道仏教から浄土仏教へ、
 
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2018年12月10日 (月) 20:28時点における版

無量寿経と観無量寿経の三心

『観経』の「上品上生」には、

 仏、阿難および韋提希に告げたまはく、「上品上生といふは、もし衆生ありてかの国に生ぜんと願ずるものは、三種の心を発して即便往生す。なんらをか三つとする。一つには至誠心、二つには深心、三つには回向発願心なり。三心を具するものは、かならずかの国に生ず。(観経 P.108)

と、至誠心深心回向発願心の三心が説かれ「三心を具するものは、かならずかの国に生ず (具三心者(ぐ-さんじんしゃ) 必生彼国(ひっしょう-ひこく))」(観経 P.108) と《必》の字がある。この「かならずかの国に生ず」の《必》の語に古くから浄土願生者が深い関心を持って来たところである。三心を具すれば、かならず、きっと、まちがいなく浄土へ往生するという仏の証明が「具三心者(ぐ-さんじんしゃ) 必生彼国(ひっしょう-ひこく)」である。
この三心は、上品上生にあるのだが善導大師は十一門に分類し「いまこの十一門の義は、九品の文に約対するに、一々の品のなかにつきてみなこの十一あり。 すなはち一百番の義となす」(散善義 P.454) と九品のそれぞれに三心があるとされた。
そして、三心釈の結語で「またこの三心はまた通じて定善の義を摂す、知るべし」(散善義 P.470) と、この三心は定善にも通ずるとされた。法然聖人が三心の解釈において(定散自力)と(弘願他力)をみられる所以である。これは「玄義分」に「「定」はすなはち慮りを息(や)めてもつて心を凝らす。「散」はすなはち悪を廃してもつて善を修す。この二行を回して往生を求願す」(玄義分 P.300) という要門と、「弘願といふは『大経』に説きたまふがごとし。一切善悪の凡夫生ずることを得るものは、みな阿弥陀仏の大願業力に乗じて増上縁となさざるはなし」(玄義分 P.300) という弘願の法義が説かれていると示されていたからである。

さて、『大経』の第十八願には「至心信楽して、わが国に生ぜんと欲へ (至心信楽欲生我国)」(大経 P.18) とある。この文の当面では、至心は修飾語であって三心(信)にはみえない。この至心信楽欲生を『観経』の三心から逆観して、至心信楽欲生の三心(信)であるとみられ、『大経』の「至心信楽欲生」を開いて具体的に三心として説かれているのが『観経』の三心であるとされたのは法然聖人であった。(観経釈)
このように両経の三心を会合されたのは法然聖人が最初であった。 至心は至誠心、信楽は深心、欲生我国は廻向発願心の三心(信)であると措定されたのである。法然聖人は善導大師の『観経疏』の、

一心専念弥陀名号(いっしんせんねん-みだみょうごう) 行住坐臥(ぎょうじゅう-ざが) 不問時節久近(ふもん-じせつくごん) 念念不捨者(ねんねん-ふしゃしゃ) 是名正定之業(ぜみょう-しょうじょうしごう) 順彼仏願故(じゅんぴ-ぶつがんこ)(一心にもつぱら弥陀の名号を念じて、行住坐臥時節の久近を問はず念々に捨てざるもの、これを正定の業と名づく。かの仏の願に順ずるがゆゑに)」(散善義 P.463)

の一文に拠って回心されたのは有名である。→法然聖人における回心の構造
それは広範な仏道修行の体系の中で「我はなにをなすべきか/なしうるか」と仏道修行に懊悩していた法然聖人に、如来の定めおかれた「称名はかならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑに (称名必得生(しょうみょう-ひっとくしょう) 依仏本願故(えぶつ-ほんがんこ))」の仏の本願に順ずる「順彼仏願故」の本願に順ずる仏道の開示であった。我が何をなすべきかではなく、我に先行して阿弥陀仏が我の成仏道を定めてあったことの驚嘆であった。その意を、

われらがさかしくいまはじめてはからふべきことにあらず、みな(如来が)さだめおけること。(西方指南抄)

と、述懐されておられた。そして、この法然聖人の四十三歳の時の回心の経験を二十三年後に『選択本願念仏集』として著されたのである。この聖道から浄土への教説が比叡山で生死出ずる道に苦悩していた御開山を揺り動かし、聖道仏教から浄土仏教へ、

「しかるに愚禿釈の鸞、建仁辛酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す」(化巻 P.472)

と、漫然雑多の雑行(聖道門)を捨て選択本願の本願(浄土門)の仏道へ転入されたのであった。
善導大師の『観経疏』は『観経』の注釈書であるが、この観経理解の根底は「願」を説く『大経』にあると推察された法然聖人は『観経』の「具三心者 必生彼国」の三心は、阿弥陀仏の本願を説く『大経』第十八願の「至心・信楽・欲生」であるとみられたのである。ともあれ法然聖人は『観経』の三心と『大経』十八願の「至心信楽欲生」の文を三信とされた文証の『観経釈』(真宗聖教全書p.352)である当該部分を引いておく。

爾者経云。一者至誠心、二者深心、三者廻向発願心。具三心者、必生彼国。凡三心通万行故、善導和尚釈此三心、以正行雑行二行。
今此経三心、即開本願三心。 爾故至心者至誠心也、信楽者深心、欲生我国者廻向発願心也。
以之案之、必生彼国之言可有深意歟。必者対不必言也。修正行者、必生彼国、修雑行者、不必生彼国。 通人天等故。
しかれば経に云く。一つには至誠心、二つには深心、三つには回向発願心なり。三心を具する者は、かならずかの国に生ず。 おおよそ三心は万行に通ずるが故に、善導和尚この三心を釈して以って正行・雑行の二行とす。
いまこの経の三心は即ち本願の三心を開くなり。しかる故は、至心とは至誠心なり、信楽とは深心、欲生我国とは廻向発願心なり。 これを以ってこれを案ずるに必生彼国の言は深き意(こころ)のあるべきか。必は不必に対する言なり。正行を修す者は、必ず彼の国に生ず。雑行を修する者は必ずしも彼の国に生ぜず、人・天等に通ずるが故に。(*)

このように、第十八願の至心・信楽・欲生を、『観経』の至誠心・深心・回向発願心と対応づけされたのであった。『大経』には至心信楽欲生の様相は説かれていないのだが、『観経』の三心と対応することにより、そして善導大師の著された『観経疏』の釈によって『大経』の三心(信)の相を洞察されたのである。
本来ちがう経典をこのようにみることが出来るのは天才の法然聖人のなせる技である。なお法然聖人は、『西方指南抄』中本「十七条御法語」によれば、

又云く、導和尚、深心を釈せむがために、余の二心を釈したまふ也。経の文の三心をみるに、一切行なし、深心の釈にいたりて、はじめて念仏行をあかすところ也。(*)

と、至誠心・深心・回向発願心の中で、深心には〔なんまんだぶ〕の行が説かれているので深心が中心であるとみられていた。『大経』では至心、信楽、欲生の三心(信)の中の信楽である。
御開山は、この『観経」の三心を深心一心に総摂し、その深心を展開されたのが『大経』の三信(心)であるとみられたのであろう。 そして『大経』の信楽を中心として至心と欲生を洞察し「如来よりたまはりたる信心」として展開されるのが「信巻」の三心釈である。そしてこの三心(信)を信楽一心に総摂し『浄土論』の「世尊、われ一心に尽十方無礙光如来に帰命したてまつりて (世尊我一心 帰命尽十方無礙光如来)」の「一心の華文」であるといわれるのであった。

このようにみてくると、単純に平面的に『観経』の三心を自力とし、『大経」の三心(信)を他力とするのは如何かと思ふ。『観経』も『小経』も、そこに阿弥陀如来の本願があらわされているときは真実なのである。御開山が「信巻」で、第十八願の三心の解釈をされる前段に、善導大師の『観経疏』の 至誠心釈、 深心釈、回向発願心釈を引文されておられるのもその意であろう。もちろん、このような見方は聖人といわれる方だけができることであって、我々は御開山の指南にしたがってお聖教を楽しむだけではある。

なお、古くから「三経一致門」の立場から、『大経』は本願を説く経であるから《薬》にたとえられ、『観経』は救われがたい機の真実をあらわす経であるから《病気》にたとえ、『阿弥陀経』は機法合説といわれ、六方恒沙の諸仏の証誠は《医者》にたとえた法話がなされてきたものである。 ともあれ、浄土三部経には、「三経差別門」と「三経一致門」の両方の見方があるが、要するに、本願を信じさせ、なんまんだぶを称えさせ、必ず往生させ仏たらしめようという阿弥陀如来の本願力回向のご法義であった。

誓願一仏乗