「正定聚」の版間の差分
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
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+ | :即是其行といふは、すなはち選択本願これなり。'''必得往生'''といふは、'''不退の位'''に至ることを獲ることを彰すなり。 | ||
:『経』(大経)には「[[即得]]」といへり、釈(易行品 十五)には「[[必定]]」といへり。「即」の言は願力を聞くによりて報土の真因決定する時剋の極促を光闡するなり。「必」の言は[審なり、然なり、分極なり、]金剛心成就の貌なり。[[行巻#P--170|(*)]] | :『経』(大経)には「[[即得]]」といへり、釈(易行品 十五)には「[[必定]]」といへり。「即」の言は願力を聞くによりて報土の真因決定する時剋の極促を光闡するなり。「必」の言は[審なり、然なり、分極なり、]金剛心成就の貌なり。[[行巻#P--170|(*)]] | ||
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− | + | と、この文の前に引文された『礼讃』の「衆生称念 '''必得往生'''(衆生称念すればかならず往生を得)」や、善導大師の六字釈「以斯義故 '''必得往生'''(この義をもつてのゆゑにかならず往生を得)」の必得往生の語は、「不退の位に至ることを獲ることを彰すなり」とされておられる。 そして、『大経』の本願成就文の「[[即得往生]]」の即得の語の意味は、必ず浄土に往生することの「必定」を示す語だとみられた。願うべき浄土を欣うことさえ知らない我々に、阿弥陀如来が「至心回向」しての「願生彼国」であるとされ「即得往生」は「住不退転」の正定聚に入る利益を顕す語であるとみられたのであろう。これを信益同時といい、現生十種の益の結論である「正定聚に入る益なり」[[信巻末#P--251|(*)]]の現生の利益というのである。<br /> | |
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:しかれば如来の真説、宗師の釈義、あきらかに知んぬ、安養浄刹は真の報土なることを顕す。惑染の衆生、'''ここにして性を見ることあたはず'''、煩悩に覆はるるがゆゑに。[[顕浄土真仏土文類#no37|(*)]] | :しかれば如来の真説、宗師の釈義、あきらかに知んぬ、安養浄刹は真の報土なることを顕す。惑染の衆生、'''ここにして性を見ることあたはず'''、煩悩に覆はるるがゆゑに。[[顕浄土真仏土文類#no37|(*)]] | ||
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− | と、真の仏性の開覚は、浄土へ往生してといわれるのだが、大谷派の近代教学の学徒や本願寺派の往くべき浄土を持たない輩は、「即得往生」の即得の語に幻惑され、また覚如上人の出所が怪しい『口伝鈔』の「体失・不体失の往生の事」[[口伝鈔#no14|(*)]] | + | と、真の仏性の開覚は、浄土へ往生してといわれるのだが、大谷派の近代教学の学徒や本願寺派の往くべき浄土を持たない輩は、「即得往生」の即得の語に幻惑され、また覚如上人の出所が怪しい『口伝鈔』の「体失・不体失の往生の事」[[口伝鈔#no14|(*)]]の「不体失の往生」の語に拘泥して、現世往生説を唱えた。その影響で『岩波仏教辞典』の執筆者の一人である大谷派の学者は「親鸞」と「教行信証」の項目に親鸞が「現世での往生を説き、この世で往生成仏と説いた」と記して世情を騒がせたのだが門徒としては大迷惑であった。近代の「[[智愚の毒]]」におかされた、往生浄土を持たない学者の輩は困ったものである。<br /> |
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と、阿弥陀仏という名義(名号の実義、名前の意味)は、念仏の衆生を摂取して捨てないから阿弥陀仏というのだとされておられる。そして「摂取」の左訓に「摂(おさ)めとる。ひとたびとりて永く捨てぬなり。摂はものの逃ぐるを追はへ取るなり。摂はをさめとる、取は迎へとる」とされておられる。<br /> | と、阿弥陀仏という名義(名号の実義、名前の意味)は、念仏の衆生を摂取して捨てないから阿弥陀仏というのだとされておられる。そして「摂取」の左訓に「摂(おさ)めとる。ひとたびとりて永く捨てぬなり。摂はものの逃ぐるを追はへ取るなり。摂はをさめとる、取は迎へとる」とされておられる。<br /> | ||
− | 『観経』真身観の「[[念仏衆生摂取不捨]] | + | 『観経』真身観の「[[念仏衆生摂取不捨]]」の文によって、なんまんだぶをとなえる衆生と、その行が正しく往生の決定する行業である、と受け容れた信について考察された結果であろう。御開山の論理展開は非常に難解なのだが、一応日本語で書かれた御消息(お手紙)を引用しておく。 |
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:来迎は諸行往生にあり、自力の行者なるがゆゑに。臨終といふことは、諸行往生のひとにいふべし、いまだ真実の信心をえざるがゆゑなり。また十悪・五逆の罪人のはじめて善知識にあうて、すすめらるるときにいふことなり。真実信心の行人は、'''摂取不捨のゆゑに正定聚の位に住す'''。このゆゑに臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心の定まるとき往生また定まるなり。来迎の儀則をまたず。 [[親鸞聖人御消息#no1|(*)]] | :来迎は諸行往生にあり、自力の行者なるがゆゑに。臨終といふことは、諸行往生のひとにいふべし、いまだ真実の信心をえざるがゆゑなり。また十悪・五逆の罪人のはじめて善知識にあうて、すすめらるるときにいふことなり。真実信心の行人は、'''摂取不捨のゆゑに正定聚の位に住す'''。このゆゑに臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心の定まるとき往生また定まるなり。来迎の儀則をまたず。 [[親鸞聖人御消息#no1|(*)]] |
2017年3月24日 (金) 09:37時点における版
しょうじょうじゅ
浄土(真実報土)に往生することが正しく定まり、必ずさとりを開いて仏になることが決定しているともがらをいう。第十八願の信心の行者のこと。
また、浄土に往生して仏のさとりを開いた者が示現する相(広門示現相)を指すばあいもある。→補註6 (大経 P.17, 証巻 P.308, 三経 P.626, 尊号 P.650, 二種 P.722, 歎異抄 P.845,改邪鈔 P.918, 御文章 P.1089)
【左訓】「往生すべき身とさだまるなり」(一多 P.679)
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
書きかけ
七祖の伝統の上で現生正定聚説をみれば、龍樹菩薩の『十住毘婆沙論』「易行品」に、
とある文を「行巻」で引文され、この不退転地(阿惟越致地=正定聚)に至るには「恭敬の心を執持すること」(信)と、名号を称すること(行)であるとされた。また、同じく「易行品」に、
- みな名を称し阿弥陀仏の本願を憶念することかくのごとし。もし人、われを念じ名を称しておのづから帰すれば、すなはち必定に入りて阿耨多羅三藐三菩提を得、このゆゑにつねに憶念すべしと。(*)
と、ある「必定」の文を重視された。六字釈では、
と、この文の前に引文された『礼讃』の「衆生称念 必得往生(衆生称念すればかならず往生を得)」や、善導大師の六字釈「以斯義故 必得往生(この義をもつてのゆゑにかならず往生を得)」の必得往生の語は、「不退の位に至ることを獲ることを彰すなり」とされておられる。 そして、『大経』の本願成就文の「即得往生」の即得の語の意味は、必ず浄土に往生することの「必定」を示す語だとみられた。願うべき浄土を欣うことさえ知らない我々に、阿弥陀如来が「至心回向」しての「願生彼国」であるとされ「即得往生」は「住不退転」の正定聚に入る利益を顕す語であるとみられたのであろう。これを信益同時といい、現生十種の益の結論である「正定聚に入る益なり」(*)の現生の利益というのである。
御開山は、「真巻」で、
- しかれば如来の真説、宗師の釈義、あきらかに知んぬ、安養浄刹は真の報土なることを顕す。惑染の衆生、ここにして性を見ることあたはず、煩悩に覆はるるがゆゑに。(*)
と、真の仏性の開覚は、浄土へ往生してといわれるのだが、大谷派の近代教学の学徒や本願寺派の往くべき浄土を持たない輩は、「即得往生」の即得の語に幻惑され、また覚如上人の出所が怪しい『口伝鈔』の「体失・不体失の往生の事」(*)の「不体失の往生」の語に拘泥して、現世往生説を唱えた。その影響で『岩波仏教辞典』の執筆者の一人である大谷派の学者は「親鸞」と「教行信証」の項目に親鸞が「現世での往生を説き、この世で往生成仏と説いた」と記して世情を騒がせたのだが門徒としては大迷惑であった。近代の「智愚の毒」におかされた、往生浄土を持たない学者の輩は困ったものである。
また行信の利益を示す釈で、
- いかにいはんや十方群生海、この行信に帰命すれば摂取して捨てたまはず。ゆゑに阿弥陀仏と名づけたてまつると。これを他力といふ。ここをもつて龍樹大士は「即時入必定」(易行品 一六)といへり。曇鸞大師は「入正定聚之数」(論註・上意)といへり。仰いでこれを憑むべし。もつぱらこれを行ずべきなり。(*)
と、「即時入必定」は「入正定聚之数」であるとし、必定と正定聚は同義語とされておられる。
御開山は『無量寿経』に説かれる阿弥陀仏の本願(第十八願)は、至心・信楽・欲生の三信一心の「信」と乃至十念の「行」という「信行」になっているから、龍樹菩薩は、われを念じ(阿弥陀仏の第十八願を念じること)が《信》であり、名を称する(なんまんだぶと称える)ことの《行》の、行信あいまって現在に於いて正しく仏陀の悟りを得る必定の位に定まっているということを説かれたのだ、というのが現生正定聚説の基本的な論理であったのであろう。
御開山は現生正定聚説を種々に論じておれらるが、「化巻」では、『観経』の便往生と即往生を考察されて、
と、金剛の真心と摂取不捨を論じておられる。『弥陀経讃』では、
- 十方微塵世界の
- 念仏の衆生をみそなはし
- 摂取してすてざれば
- 阿弥陀となづけたてまつる (*)
と、阿弥陀仏という名義(名号の実義、名前の意味)は、念仏の衆生を摂取して捨てないから阿弥陀仏というのだとされておられる。そして「摂取」の左訓に「摂(おさ)めとる。ひとたびとりて永く捨てぬなり。摂はものの逃ぐるを追はへ取るなり。摂はをさめとる、取は迎へとる」とされておられる。
『観経』真身観の「念仏衆生摂取不捨」の文によって、なんまんだぶをとなえる衆生と、その行が正しく往生の決定する行業である、と受け容れた信について考察された結果であろう。御開山の論理展開は非常に難解なのだが、一応日本語で書かれた御消息(お手紙)を引用しておく。
- 来迎は諸行往生にあり、自力の行者なるがゆゑに。臨終といふことは、諸行往生のひとにいふべし、いまだ真実の信心をえざるがゆゑなり。また十悪・五逆の罪人のはじめて善知識にあうて、すすめらるるときにいふことなり。真実信心の行人は、摂取不捨のゆゑに正定聚の位に住す。このゆゑに臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心の定まるとき往生また定まるなり。来迎の儀則をまたず。 (*)
このように、御開山の現生正定聚説は、法然聖人が示して下さった、なんまんだぶの行と、その行を疑いなく受け容れ信知した行者を、摂取不捨する教説がその淵源であろう。
一般的な三定聚説