「要門」の版間の差分
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
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− | : | + | :たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、菩提心を発し、[[もろもろの功徳]]を修して、至心発願してわが国に生ぜんと欲せん。寿終るときに臨んで、たとひ大衆と囲繞してその人の前に現ぜずは、正覚を取らじ。([[大経上#19gan|大経 P.18]]) |
− | + | と、聖道門の行体である[[自力]]の「菩提心を発 (発菩提心)」して「[[もろもろの功徳]]を修 (修諸功徳)」して[[浄土]]を[[欣慕]]させる願だとみられた。そして、この[[第十九願]]の法門を要門とされ『観経』には聖道門の行体が顕説 (顕著に説かれている教義) で説かれているとみられた。『観経』を「[[如来の異の方便]]、[[欣慕浄土の善根]]なり。これはこの経の意なり」([[化巻本#no15|化巻 P.381]])とされた所以である。<br /> | |
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:しかも娑婆の化主(釈尊)はその請によるがゆゑにすなはち広く浄土の'''要門'''を開き、安楽の能人(阿弥陀仏)は別意の'''弘願'''を顕彰したまふ。([[観経疏 玄義分 (七祖)#no5|玄義分 P.300]]) | :しかも娑婆の化主(釈尊)はその請によるがゆゑにすなはち広く浄土の'''要門'''を開き、安楽の能人(阿弥陀仏)は別意の'''弘願'''を顕彰したまふ。([[観経疏 玄義分 (七祖)#no5|玄義分 P.300]]) | ||
− | + | とあり『観経』は、韋提希の要請によって釈尊が要門の教義を説かれた経典であり、そこには阿弥陀仏 (安楽の能人)の「弘願」が説かれているという示唆によって、御開山は『観経』に『無量寿経』の弘願の教法が隠彰 (隠微に彰わされる教義) という形で説かれているとみられたのであった。<!--『観経』は釈尊と阿弥陀仏の二尊一経の経典であったのである。--><br /> | |
それは『観経』の流通分 (=経典の本意を後世に伝える方法を期する部分) に、 | それは『観経』の流通分 (=経典の本意を後世に伝える方法を期する部分) に、 | ||
:なんぢ、よくこの語を持(たも)て。この語を持てといふは、すなはちこれ無量寿仏の名(みな)を持てとなり。([[観経#汝好持是語|観経 P.117]]) | :なんぢ、よくこの語を持(たも)て。この語を持てといふは、すなはちこれ無量寿仏の名(みな)を持てとなり。([[観経#汝好持是語|観経 P.117]]) | ||
とあり、「散善義」ではその意を、 | とあり、「散善義」ではその意を、 | ||
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− | : | + | :上来[[定散両門]]の益を説くといへども、仏の本願に望むるに、意、衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり。([[観経疏 散善義 (七祖)#名号付属|散善義 P.500]]) |
と、阿弥陀仏の本願に望めて「衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむる (衆生一向専称弥陀仏名)」とされていた。これらによって『観経』は定善十三観や廃悪修善の三観を説く経典ではなく、その本意は〔なんまんだぶ〕(=即是持無量寿仏名)を説く経典であると御開山は見られたのであった。法然聖人の提唱された「選択本願念仏」の意を『無量寿経』の[[乃至十念]]の〔なんまんだぶ〕という、 | と、阿弥陀仏の本願に望めて「衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむる (衆生一向専称弥陀仏名)」とされていた。これらによって『観経』は定善十三観や廃悪修善の三観を説く経典ではなく、その本意は〔なんまんだぶ〕(=即是持無量寿仏名)を説く経典であると御開山は見られたのであった。法然聖人の提唱された「選択本願念仏」の意を『無量寿経』の[[乃至十念]]の〔なんまんだぶ〕という、 | ||
:しかれば名を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。称名はすなはちこれ最勝真妙の正業なり。正業はすなはちこれ念仏なり。念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり。南無阿弥陀仏はすなはちこれ正念なりと、知るべしと。([[行巻#no12|行巻 P.146]]) | :しかれば名を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。称名はすなはちこれ最勝真妙の正業なり。正業はすなはちこれ念仏なり。念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり。南無阿弥陀仏はすなはちこれ正念なりと、知るべしと。([[行巻#no12|行巻 P.146]]) |
2018年6月8日 (金) 02:17時点における版
ようもん
浄土要門。
浄土に往生する肝要の法門。(帰三宝偈 P.1452、安楽集 P.246)
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
要門、真門、弘願という言葉によって法義をあらわしたのは善導大師であった。親鸞聖人はこの言葉を自力と他力をあらわす教判の意味に使われている。親鸞聖人は第十九願を聖道門から浄土門へ入らしめる肝要の要門と見られていた。このため第十九願は、
- たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、菩提心を発し、もろもろの功徳を修して、至心発願してわが国に生ぜんと欲せん。寿終るときに臨んで、たとひ大衆と囲繞してその人の前に現ぜずは、正覚を取らじ。(大経 P.18)
と、聖道門の行体である自力の「菩提心を発 (発菩提心)」して「もろもろの功徳を修 (修諸功徳)」して浄土を欣慕させる願だとみられた。そして、この第十九願の法門を要門とされ『観経』には聖道門の行体が顕説 (顕著に説かれている教義) で説かれているとみられた。『観経』を「如来の異の方便、欣慕浄土の善根なり。これはこの経の意なり」(化巻 P.381)とされた所以である。
『観経』の大綱を示す『観経疏』玄義分には、
- しかも娑婆の化主(釈尊)はその請によるがゆゑにすなはち広く浄土の要門を開き、安楽の能人(阿弥陀仏)は別意の弘願を顕彰したまふ。(玄義分 P.300)
とあり『観経』は、韋提希の要請によって釈尊が要門の教義を説かれた経典であり、そこには阿弥陀仏 (安楽の能人)の「弘願」が説かれているという示唆によって、御開山は『観経』に『無量寿経』の弘願の教法が隠彰 (隠微に彰わされる教義) という形で説かれているとみられたのであった。
それは『観経』の流通分 (=経典の本意を後世に伝える方法を期する部分) に、
- なんぢ、よくこの語を持(たも)て。この語を持てといふは、すなはちこれ無量寿仏の名(みな)を持てとなり。(観経 P.117)
とあり、「散善義」ではその意を、
- 「仏告阿難汝好持是語」より以下は、まさしく弥陀の名号を付属して、遐代に流通せしめたまふことを明かす。
- 上来定散両門の益を説くといへども、仏の本願に望むるに、意、衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり。(散善義 P.500)
と、阿弥陀仏の本願に望めて「衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむる (衆生一向専称弥陀仏名)」とされていた。これらによって『観経』は定善十三観や廃悪修善の三観を説く経典ではなく、その本意は〔なんまんだぶ〕(=即是持無量寿仏名)を説く経典であると御開山は見られたのであった。法然聖人の提唱された「選択本願念仏」の意を『無量寿経』の乃至十念の〔なんまんだぶ〕という、
- しかれば名を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。称名はすなはちこれ最勝真妙の正業なり。正業はすなはちこれ念仏なり。念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり。南無阿弥陀仏はすなはちこれ正念なりと、知るべしと。(行巻 P.146)
と、されたのであった。