「指方立相」の版間の差分
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
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2018年12月28日 (金) 08:37時点における版
しほう-りっそう
浄土の方処を西方と指示し、具体的な阿弥陀仏や浄土の荘厳相を立ててあらわすこと。仏の
- 又今此観門等唯 指方立相、住心而取境。総不明無相離念也。
- またいまこの観門は等しくただ方を指し相を立てて、心を住めて境を取らしむ。 総じて無相離念を明かさず。
- 如来懸知末代罪濁凡夫 立相住心尚不能得。何況離相而求事者、如似無術通人居空立舎也。
- 如来(釈尊)はるかに末代罪濁の凡夫の相を立てて心を住むるすらなほ得ることあたはず、いかにいはんや相を離れて事を求むるは、術通なき人の空に居して舎を立つるがごとしと知りたまへり。 (定善義p.432)
とあるのが「指方立相」の語の出拠である。
『無量寿経』には、
- 法蔵菩薩、今已成仏、現在西方。去此十万億刹。其仏世界、名曰安楽。
- 法蔵菩薩、いますでに成仏して、現に西方にまします。ここを去ること十万億刹なり。その仏の世界をば名づけて安楽といふ。(大経p.28)
と、西方の
- 従是西方、過十万億仏土有世界、名曰極楽。
- これより西方に、十万億の仏土を過ぎて世界あり、名づけて極楽といふ。
- 其土有仏。号阿弥陀。今現在説法。
- その土に仏まします、阿弥陀と号す。いま現にましまして法を説きたまふ。 (小経p.121)
と、阿弥陀仏のまします
- 仏(釈尊)、凡聖の機と時と悟とを知りたまひて、すなはち舎利に告げて用心して聴かしめたまふ。一切の仏土みな厳浄なれども、 凡夫の乱想おそらくは生じがたければ、如来(釈尊)別して西方の国を指した まふ。 (法事讃 P.551)
と、凡夫の救済をあらわすために、釈尊はことさらに別して極楽(浄土)を西方と説かれたのだとする。なお安楽や極楽の語は梵語sukhāvatī( スカーヴァティー)の翻訳語で煩悩の滅却した「幸ある処」という意味である。
この浄土が西方であることの意を、道綽禅師は『安楽集』で、
と、日が東から出て西へ沈むように、西方は万物の帰する処であるから阿弥陀仏は西に浄土を建立したのだという。善導大師は釈尊の教説として浄土は西方であると示された(釈尊の弁立)とし、道綽禅師は阿弥陀仏が、その本願に依って西方に浄土を建立された(阿弥陀仏の建立)とする違いはあるのだが、ともに西方という方処を指し示すのである。仏教では自己の存在の拠り所を帰依というのであるが、浄土真宗では、死の帰するところは浄土であるとし、この帰するところが生の依って立つところでもあるから帰依という。浄土という目指べき方処があるから、生きることの意味があるのである。
『安楽集』には、曇鸞大師の逸話として、
- またつねに世俗の君子ありて、来りて法師(曇鸞)を呵していはく、「十方仏国みな浄土たり、法師なんぞすなはち独り意を西に注むる。 あに偏見の生にあらずや」と。 (安楽集 P.247)
と、君子(東魏の国王)が曇鸞大師を呵(せめ、笑う)して問う。これに対して曇鸞大師は、
と答えられたという。わたしは悟れば娑婆も浄土であるという十地の地位にある菩薩ではありません。牛が自らの背に食べる草があるといえども、心は常に帰るべき牛小屋の槽櫪(飼い葉おけ)に思いを馳せる者であります、というのである。御開山はこの一段を慶ばれて、
- 世俗の君子幸臨し
- 勅して浄土のゆゑをとふ
- 十方仏国浄土なり
- なにによりてか西にある
- 鸞師こたへてのたまはく
- わが身は智慧あさくして
- いまだ地位にいらざれば
- 念力ひとしくおよばれず (高僧和讃)
と「和讃」しておられる。
なお、天親菩薩の『浄土論』には、
- 観彼世界相 勝過三界道。究竟如虚空 広大無辺際。
- かの世界の相を観ずるに、三界の道に勝過せり。究竟して虚空のごとく、広大にして辺際なし。 (浄土論 P.29)
と、浄土は、この世を勝過し、虚空のように広大で辺際が無いと論じている。浄土は西方であると指示しながら、実は辺際 (はて、限り) が無い虚空のごとしというのであるから、無方無相である。御開山は、この『浄土論』の「観彼世界相 勝過三界道。究竟如虚空 広大無辺際」を、
- 安養浄土の荘厳は
- 唯仏与仏の知見なり
- 究竟せること虚空にして
- 広大にして辺際なし (高僧和讃)
と、和讃しておられる。御開山は、唯仏与仏の知見(ただ仏と仏のみが知見しうる境界)であるのが浄土であるともといわれるのである。
浄土真宗では、たとえ「真如法性」や「無生の生」を論ずることはあっても「凡情を遮せず」として凡夫の情をむやみに遮蔽することはない。この重層構造が御開山の浄土思想が難解だというのであろう。
ともあれ、浄土真宗の門徒は、西方に沈む夕日に合掌礼拝し、西方浄土への往生を期しててきたのであるが、これが日本人の生死についての原点風景であろう。
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