「従果還因」の版間の差分
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
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しかし御開山は、真実信心の[[念仏者]]の往生は[[往生即成仏]]であるとされた。そして浄土に往生してさとりを極めたものが、証果の必然として[[無縁の大悲]]を起こして[[衆生]][[教化]]のため[[菩薩]]となり、あるいは、他方世界にあって釈尊のような仏陀のすがたを示現して説法し衆生を[[教化]]していくとされた。→[[広門示現相]]<br /> | しかし御開山は、真実信心の[[念仏者]]の往生は[[往生即成仏]]であるとされた。そして浄土に往生してさとりを極めたものが、証果の必然として[[無縁の大悲]]を起こして[[衆生]][[教化]]のため[[菩薩]]となり、あるいは、他方世界にあって釈尊のような仏陀のすがたを示現して説法し衆生を[[教化]]していくとされた。→[[広門示現相]]<br /> | ||
これを<kana>[[従果還因]](じゅうかげんいん)</kana> (仏果より因に<kana>還(かえ)</kana>る)、<kana>[[従果降因]](じゅうかごういん)</kana> (仏果より因に<kana>降(くだ)</kana>る)という。御開山はこの[[利他教化地]]を[[還相]]といわれるのであった。仏果をきわめたものが果より因に還り、菩薩の相を示現して煩悩の境界に降り立って衆生を教化することを[[還相]]といわれたのであった。御開山は『御消息』で、 | これを<kana>[[従果還因]](じゅうかげんいん)</kana> (仏果より因に<kana>還(かえ)</kana>る)、<kana>[[従果降因]](じゅうかごういん)</kana> (仏果より因に<kana>降(くだ)</kana>る)という。御開山はこの[[利他教化地]]を[[還相]]といわれるのであった。仏果をきわめたものが果より因に還り、菩薩の相を示現して煩悩の境界に降り立って衆生を教化することを[[還相]]といわれたのであった。御開山は『御消息』で、 | ||
− | :聖道といふは、すでに{{WavyUL|仏に成りたまへる人}}の、われらがこころをすすめんがために、仏心宗・真言宗・法華宗・華厳宗・三論宗等の大乗至極の教なり。([[消息上#P--736|消息 P.736]]) | + | :聖道といふは、すでに{{WavyUL|仏に成りたまへる人}}の、われらがこころをすすめんがために、仏心宗・真言宗・法華宗・華厳宗・三論宗等の大乗至極の教なり。 |
+ | {中略} | ||
+ | :これみな聖道門なり。'''[[権教と]]'''いふは、すなはちすでに仏に成りたまへる仏・菩薩の、かりにさまざまの形をあらはしてすすめたまふがゆゑに'''[[権]]'''といふなり。([[消息上#P--736|消息 P.736]]) | ||
ともされ、聖道門仏教は浄土から[[還相]]した菩薩が修する法門であるともされておられた。大乗の[[菩薩]]の[[上求菩提・下化衆生]]の実践道であろう。<br /> | ともされ、聖道門仏教は浄土から[[還相]]した菩薩が修する法門であるともされておられた。大乗の[[菩薩]]の[[上求菩提・下化衆生]]の実践道であろう。<br /> | ||
御開山は、 | 御開山は、 |
2024年8月3日 (土) 21:33時点における版
じゅうか-げんいん 従果降因ともいう
- 果より因に還る。還相の意。
浄土教の当面では、浄土に往生した菩薩が仏となる修行の一環として他方世界へ赴き衆生を教化するという。
しかし御開山は、真実信心の念仏者の往生は往生即成仏であるとされた。そして浄土に往生してさとりを極めたものが、証果の必然として無縁の大悲を起こして衆生教化のため菩薩となり、あるいは、他方世界にあって釈尊のような仏陀のすがたを示現して説法し衆生を教化していくとされた。→広門示現相
これを
- 聖道といふは、すでに仏に成りたまへる人の、われらがこころをすすめんがために、仏心宗・真言宗・法華宗・華厳宗・三論宗等の大乗至極の教なり。
{中略}
ともされ、聖道門仏教は浄土から還相した菩薩が修する法門であるともされておられた。大乗の菩薩の上求菩提・下化衆生の実践道であろう。
御開山は、
と自力の菩提心の発(おこ)し難きを示し、真実の菩提心は阿弥陀仏の「度衆生心」である菩提心に包摂される「願作仏心」だとされた。それを横超の菩提心とされ、真に仏の証を得る仏法は「誓願一仏乗」の他にはないという意であろう。誓願一仏乗が唯一絶対の教法としての絶対教判であるとされる所以である。→(行巻 P.195)
の和讃の普賢の徳に左訓されて、
- 「われら衆生、極楽にまゐりなば、大慈大悲をおこして十方に至りて衆生を利益するなり。仏の至極の慈悲をまうすなり」
と、されておられるのもその意である。御開山がみておられた浄土は、無住処涅槃の境界であったからである。