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横の大菩提心

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

横超の菩提心から転送)

おうの-だいぼだい-しん

本願力回向による横超菩提心のこと。
御開山は、浄土門の横超の大菩提心を顕された。これを「二双四重」の教判といふ。

横超の菩提心釈

ぼだいしん 菩提心

 梵語ボーディ・チッタ (bodhi-citta) の意訳。阿耨多羅三藐三菩提心・無上正真道意・無上菩提心無上道心道心などともいう。仏果に至り、さとり智慧を得ようとする心のこと。この心をおこすことを発菩提心といい、仏道の出発点とされる。親鸞は菩提心について自力他力を分判し、他力回向の信心は願作仏心 (自利)・度衆生心 (利他) の徳をもつ他力の大菩提心であると説いた。「信巻」 には

金剛心はすなはちこれ願作仏心なり。願作仏心はすなはちこれ度衆生心なり。度衆生心はすなはちこれ衆生を摂取して安楽浄土に生ぜしむる心なり。この心すなはちこれ大菩提心なり」 (信巻 P.252)

等とある。(浄土真宗辞典)

御開山は、

 しかるに菩提心について二種あり。一つには竪、二つには横なり。
また竪についてまた二種あり。一つには竪超、二つには竪出なり。竪超・竪出は権実顕密大小の教に明かせり。歴劫迂回の菩提心、自力の金剛心、菩薩の大心なり。
また横についてまた二種あり。一つには横超、二つには横出なり。横出とは、正雑・定散、他力のなかの自力の菩提心なり。横超とは、これすなはち願力回向の信楽、これを願作仏心といふ。願作仏心すなはちこれ横の大菩提心なり。これを横超の金剛心と名づくるなり。
横竪の菩提心、その言一つにしてその心異なりといへども、入真を正要とす、真心を根本とす、邪雑を錯とす、疑情を失とするなり。欣求浄刹の道俗、深く信不具足の金言を了知し、永く聞不具足の邪心を離るべきなり。(信巻 P.246)
「隠/顕」

 ところで、菩提心には二種類があります。一つには竪、すなわち自力聖道門の菩提心であり、二つには横、すなわち他力浄土門の菩提心です。その竪の菩提心のなかに、また二種があります。一つには竪超、すなわち聖道門の頓教の菩提心であり、二つには竪出、すなわち聖道門の漸教の菩提心です。この竪超と竪出は、聖道門の権教と実教、顕教と密教、大乗と小乗の教えのなかに明かされている菩提心です。いずれも、長い時間をかけて回り道をしながら、さとりの実現を目指す菩提心であり、自力でおこす金剛のような堅固な心であり、菩薩をして菩薩たらしめている広大無辺な心です。

また横の菩提心のなかにも、また二種があります。一つには横超、すなわち浄土門の頓教の菩提心であり、二つには横出、すなわち浄土門の漸教の菩提心です。 横出の菩提心とは、阿弥陀仏の願力によって往生しよう願いながら、正行と雑行の区別もついていない自力の行者や、定善や散善を行った功徳をたのみにして往生しようと願っている他力のなかの自力の行者のおこす菩提心です。横超の菩提心とは、阿弥陀如来が本願力をもって回向してくださった信楽です。 信楽は、阿弥陀仏の本願力によって仏にならせていただくことを疑いなく楽しんでいる願作仏心(仏に作ろうと願う心)です。 曇鸞大師が願作仏心のことを菩提心といわれているように、願作仏心は横(超)の大菩提心です。このように願作仏心である信楽を横超の金剛心と名づけるのです。

 横の菩提心も竪の菩提心も、菩提心という言葉は同じですが、意味は違っています。しかし、どちらも真実のさとりの境地に入ることを正しく肝要なこととして目指しており、真如にかなったまことの心を根本としています。

そして、邪な心をまじることを誤りとし、疑い心は真実を失う心であるとすることでは共通しています。 ですから、浄土を欣い求める人は、出家であれ在家であれ、仏意を完全に受け容れていない不具足の信があると注意された仏の金言をよく心得、み教えの一部だけを聞いて、すべてを聞いたように心得る不具足の邪心を捨て去るように心がけねばなりません。

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御開山は「教巻」真宗大綱 で、

 つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり。(教巻 P.135)[1]

と、往相還相を示された。それは「上求菩提・下化衆生(上に菩提を求め、下に衆生を化す)」の菩提心であり、往相とは願作仏心であり、還相とは度衆生心である。御開山の示された往相・還相とは本願力回向の横超の大菩提心であろう。
◆ 参照読み込み (transclusion) トーク:度衆生心

御開山は引文されておられないのだが、源信僧都は『往生要集』上巻で四弘誓願菩提心を述べ、

「浄土に生れんと求むる所以は一切衆生の苦を救抜せんと(おも)ふがゆゑなり。 すなはちみづから思忖すらく、〈われいま力なし。 もし悪世、煩悩の境のなかにあらば、境強きをもつてのゆゑに、みづから纏縛せられて三塗淪溺し、ややもすれば数劫を経ん。 かくのごとく輪転して、無始よりこのかたいまだかつて休息せず。 いづれの時にか、よく衆生の苦を救ふことを得ん〉と。 これがために、浄土に生れて諸仏に親近し、無生忍を証して、まさによく悪世のなかにして、衆生の苦を救はんことを求むるなり」と。 {以上}余の経論の文、つぶさに『十疑』のごとし。
知りぬべし、念仏・修善を業因(ごういん)となし、往生極楽を華報(けほう)となし、証大菩提を果報(かほう)となし、利益衆生を本懐(ほんがい)となす。 たとへば、世間に木を植うれば(はな)を開き、華によりて(このみ)を結び、菓を得て餐受するがごとし。 (要集 P.930)

と、「利益衆生を本懐」となすが故に浄土へ往生するのであるとされている。源信僧都には、「我だにも まづ極楽に 生まれなば 知るも知らぬも 皆むかへてむ」(『新古今和歌集』)という句があり、衆生済度の為に往生をするとされた。
なお、ここでの修善は浄土真宗では、本願に選択された〔なんまんだぶ〕と称える以上の善はないのであるから念仏=修善を業因としてもよいであろう。
この言葉の出拠となった天台大師智顗の撰といわれる『淨土十疑論』の第「一疑」では、

問いて曰く。諸仏菩薩は大悲をもって業となし、もし衆生を救度せんと欲せば、ただ三界に願生して、五濁三塗の中において 苦の衆生を救うべし。何によりて浄土に生ずるを求むや。 自らその身を安んじ衆生を捨離す、則ちこれ大慈悲無くして専ら自利の為にして菩提の道を障(さ)ふ。 (『淨土十疑論』一疑)

と、浄土へ往生しようとする輩は、利他の大悲を忘れた自利の行者ではないのかとの疑いを出し、それに対して凡夫の菩薩道は衆生を済度する力を得る為に浄土へ往生するのだと答えている。参照→『淨土十疑論』
御開山は本願力回向による往生即成仏と還相の利他教化地の益をいわれるので少しく趣旨が違うのだが、先達の往生浄土に対する「還相の利益は利他の正意を顕すなり」(証巻 P.335) の考察を学ぶのも面白いものであろう。
なお、御開山は本願力回向の「願作仏心」「度衆生心」を横超の菩提心であるとされ、浄土真宗願作仏心往相)と度衆生心還相)のご法義であるとされておられた。

(17)

尽十方の無碍光仏
一心に帰命するをこそ
天親論主のみことには
願作仏心とのべたまへ (高僧 P.581)

(18)

願作仏の心はこれ
度衆生のこころなり
度衆生の心はこれ
利他真実の信心なり (高僧 P.581)

(19)

信心すなはち一心なり
一心すなはち金剛心
金剛心は菩提心
この心すなはち他力なり (高僧 P.581)

(20)

浄土の大菩提心は
願作仏心をすすめしむ
すなはち願作仏心
度衆生心となづけたり (正像 P.603)

(21)

度衆生心といふことは
弥陀智願の回向なり
回向の信楽うるひとは
大般涅槃をさとるなり (正像 P.603)

慈悲に聖道・浄土のかはりめあり。
願作仏心
度衆生心
二種回向
往生門
正覚門
還相
無住処涅槃

  1. 『浄土文類聚鈔』では「本願力の回向に二種の相あり」(浄文 P.478)とあり浄土真宗は本願力回向の仏法であった。