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済度

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

2017年9月28日 (木) 12:39時点における林遊 (トーク | 投稿記録)による版

さいど

 生死に迷い苦しんでいる人々を導いて、涅槃のさとりの境界へ済(すく)い度(わた)すこと。済は拯済のことで救いあげること。また、済にはわたす、なしとげるという意味があり[1]、斉の字と通じて、そろう、ひとしいという意味もある[2]。阿弥陀仏が、自らのさとりと斉(ひと)しい者にするという意である。度はわたる、こえる[3]という意味で迷いの生死海を超えてさとりの界(さかい)である浄土へ超え渡すということ。
善導大師は『観経疏』玄義分で、

しかるに諸仏の大悲は苦あるひとにおいてす、心ひとへに常没の衆生を愍念したまふ。 ここをもつて勧めて浄土に帰せしむ。 また水に溺れたる人のごときは、すみやかにすべからくひとへに救ふべし、岸上のひと、なんぞ済(すく)ふを用ゐるをなさん。(玄義分 P.312)

と、「岸上のひと、なんぞ済(すく)ふを用ゐるをなさん」とされている。(すく)うとは、溺れている者を自らとひとしく岸上の者にすることが、仏教での(すく)うの意であるとされるのであろう。キリスト教などでは、あくまで救う者と救われる者は別である。しかし、仏教においては、すくわれる者がすくう者と同じ正覚を開くことが「すくい」という言葉の意味であった。阿弥陀仏に帰依する浄土真宗は、すくいという言葉を多用するから救済型の宗教として誤解されやすい。しかし「念仏成仏これ真宗」(浄土 P.569) といわれるように、浄土真宗は、仏陀のさとり(=成仏)を獲ることを目的とした仏教である。そして、その「すくい(生死からの度脱)」の完成は浄土に於いてである、というのが御開山の示された浄土真宗であった。

以下に鈴木大拙師の『浄土系思想論』「真宗菅見」p.47 から「正覚と救い」の一文を引用しておく。この文章は、鈴木大拙師が昭和14年に英文で外国人向けに著述されたものを、昭和17年に邦訳されたものの一部である。英文の邦訳なので仏教語も少なく、キリスト教に於ける救いと、浄土真宗の浄土を目指す仏道の対比は、浄土真宗に於ける「すくい」の意味を考える上で資するであろう。


正覚と救い

七、ここで吾等は救済と正覚との区別を暫く述べなければならぬ。それは真宗信者の願うところは、結局正覚に達することであって、救済を得ることではないからである。便宜上、救済という文字を使うこともあるが、宗派、信条の如何を問わず、すべての仏教徒が、その生活の窮極の目的とするところは正覚である。この点では、帰依的宗教(bhakti-religion)の型に従うと見られる真宗もまた決して例外ではないのである。ここに真宗が禅や天台や華厳などと同じく仏教的たるところがある。私は真宗信仰に関してしばしば「救済」(salvation)という文字を用いて来たが、正確にいうと、この文字はキリスト教経験を示すもので、真宗経験を表わすには、十分に適切なものとは言われない。

 キリスト教徒は救済を求めて正覚を願わない。魂を堕獄から救う事がキリスト教の信仰生活の内容となっている。仏教徒の願うところは(さと)りに至ること、無明より離れること、即ち生死(しょう-じ)の絆を脱することである。しかし真宗は、外から見ると、キリスト教の罪悪に相当する罪業から救われることを求めるものの如くに見える。が、実際からいうと、真宗信者は、この相対の世界にいる限り、このことが到底不可能であることを承知している。どれほど相対的存在として人間の知力・道徳力を尽しても、の必然性から遁れる術はない。だから彼等はに随順する、を遁れたり、に打ち克つことを企てぬ。業をそのままにして、却ってこれを超える方法を求める。そしてそれによって本来の自由に立ち戻らんとする。その方法は、最高の正覚達成に必要なあらゆる条件を具備した安楽浄土の主人公としての無量寿・無量光の仏陀を信ずることである。かくして真宗信者の第一の目的は浄土に往生することである。そして即時に無上覚を証することである。
事実、往生は即ち成仏で、この二つの語は全く同義語である。真宗生活の窮極の目的は正覚を達成することで救済を得ることではない。業と相対性を性格としているこの世では、最高の智慧を得るのに好都合な環境は与えられない。またそういう理由があればこそ、弥陀は彼の信者のために、特に一仏土を建設し、その土の一切の事物を、往生者の無上覚超証に資するようしつらえられたのである。かくして無上覚を証れる時、彼等は急いでこの世界に還り来り、一切衆生を利益(り-やく)するのである。自分自身ではそれを知らずにいても、真宗人は正しくこの世界全体の正覚を増大するために生きている。罪悪を意識し、業繋の生を意識してはいても、彼等は正覚を求めて努力しつつあるもので、個人的救済を願っているものではない。

 普通 真宗は「念仏往生」を教えるものと考えられている。念仏往生は字義の上からいうと、「仏を念じて往き生れること」で、一心一向に仏陀即ち弥陀を念ずれば、死後浄土に往き生れることであるが、実際の行からいえば、仏を念ずることは一念多念の称名となる。真宗の説くところに従うと、弥陀に対する絶対の信から生ずる称名でありさえすれば、それらは一声で足りるというが、浄土宗では繰り返し「南無阿弥陀仏」と称えよとすすめる。ここに浄土宗と真宗との本質的な相異があることは、すでに述べた。とにかく、一般の人には、「念仏往生」という言葉は、浄土宗及び真宗の両方の教義を概括的に記述するものと考えられている。しかしこの教義をもっと綿密に分析して見ると、浄土往生だけが、経典の中で実際に約束せられていることの全部ではないということが分る。前に述べたように、浄土教徒が往生をすすめるのは、仏教生活の目的である浄土──その他力たると自力たるとを間わず──は、正覚を成ずるには、最好適の環境であるからなのである。従ってこの事の実際の結果からいえば、往生と正覚とが同一事であることとなり、往生の確証は正覚の予感というべきものである。最高の正覚に住することは、独り仏陀──即ち最も完成せる人格──だけがこれを能くするもので、凡夫の吾等に許されることは、正覚の幾分かを味わい得て、これによって安心立命することである。そしてこの安心立命こそは、往生の予感であり確証であるのである。しかしながら、仏教の一般的見地から見て、仏教徒各自の生活に於いて最も重要なことは、この世界に還って来て釈迦牟尼自身の如く、正覚をここに増大し実現し流布せしめるために力を尽すことである。「念仏往生」ということが、真宗信者の唯一の関心事であるかの如くに見えはしても、真宗もまた仏教宗派の一つであることを忘れてはならぬ。また表面だけから見ると、その帰依宗教的構造が強く暗示せられているが、その実質には非仏教的なものは決してないということを忘れてはならぬ。(『浄土系思想論』p.47)
参照→浄土系思想論─名号論


御開山は引文されておられないのだが、源信僧都は『往生要集』上巻で四弘誓願菩提心を述べ、

知りぬべし、念仏・修善を業因(ごういん)となし、往生極楽を華報(けほう)となし、証大菩提を果報(かほう)となし、利益衆生を本懐(ほんがい)となす。 たとへば、世間に木を植うれば(はな)を開き、華によりて(このみ)を結び、菓を得て餐受するがごとし。 (要集 P.930)

と、「利益衆生を本懐」となすが故に浄土へ往生するのであるとされている。源信僧都には、「我だにも まづ極楽に 生まれなば 知るも知らぬも 皆むかへてむ」(『新古今和歌集』)という句があり、衆生済度の為に往生をするとされた。
なお、ここでの修善は浄土真宗では、本願に選択された〔なんまんだぶ〕と称える以上の善はないのであるから念仏=修善を業因としてもよいであろう。
この言葉の出拠となった天台大師智顗の撰といわれる『淨土十疑論』の第「一疑」では、

問いて曰く。諸仏菩薩は大悲をもって業となし、もし衆生を救度せんと欲せば、ただ三界に願生して、五濁三塗の中において 苦の衆生を救うべし。何によりて浄土に生ずるを求むや。 自らその身を安んじ衆生を捨離す、則ちこれ大慈悲無くして専ら自利の為にして菩提の道を障(さ)ふ。 (『淨土十疑論』一疑)

と、浄土へ往生しようとする輩は、利他の大悲を忘れた自利の行者ではないのかとの疑いを出し、それいに対して答えている。参照→『淨土十疑論』
御開山は本願力回向による往生即成仏をいわれるので少しく趣旨が違うのだが、先達の往生浄土に対する「還相の利益は利他の正意を顕すなり」(証巻 P.335) の考察を学ぶのも面白いものであろう。