いぎょう
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
易行
修しやすい行法。難行に対する語。阿弥陀仏の本願を信じて念仏すること。→難行
~道(どう)
阿弥陀仏の本願力によって浄土に往生してさとりをひらく他力の道。→難行道(なんぎょうどう)。
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
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『浄土論註』に『十住毘婆沙論』の意を承けて、
とあり、阿毘跋致=不退転=正定聚に至る意を示していた。この「易」が『大経』の「易往而無人(往き易くして人なし)」(大経 P.54) と通底するから「ただこれ自力にして他力の持つなし」とされたのであろう。
- 「易行道」とは、いはく、ただ信仏の因縁をもつて浄土に生ぜんと願ずれば、仏願力に乗じて、すなはちかの清浄の土に往生を得、仏力住持して、すなはち大乗正定の聚に入る。(浄土論註P.47)
である。「易往而無人」とは、選択本願の阿弥陀仏の本願力によるから、なんまんだぶを称えて浄土に往生することは容易であるが、自業自得の自力の心を捨てて阿弥陀仏の本願力を受容して、浄土に往生する人は稀(まれ)であるという意である。聖道門仏教は行じて証する「易信難行(信じやすいが難行)」であるが、浄土門は「易往難信(往きやすいが信じ難い)」法門であった。行じて証するという仏教に対して、「ただ信仏の因縁をもつて浄土に生ぜんと願ず」る、信じて証する法義が浄土門であった。この意を『安楽集』では、
- 無量寿仏国は往き易く取り易くして、人、修行して往生することあたはず、かへつて九十五種の邪道に事ふ。(行巻 P.163)
とされていた。