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出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
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WikiArc:浄土真宗聖典目次
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(2)三心一心
一
本願(第十八願)の文には(真聖全一一九)、
等と誓われてあります。このなかの「
そして天親菩薩の『浄土論』の初めには(真聖全一ー二六九)、
と示されて、ここでは「一心」に帰命するとおっしゃっています。宗祖聖人は、この本願の「三心」と天親菩薩のいわれた「一心」とを対照して問答を設け、三心についてくわしく解釈されています。それが『教行信証』信巻の問答広顕(三一問答)」といわれる一段(*)(真聖全ニー五九ー七三)のおん釈であります。
宗祖のご解釈は、まず三心の字訓に寄せて三心が信楽一心におさまる旨を示され(*)(真聖全二ー五九)、つぎにまさしく法義の上から三心の一々を解釈されて、三心が信楽の一心におさまる旨を明らかにされ(*)(真聖全二ー五九~六八)、さらに別して信楽の一心が
一つには、本願には三心と誓われているけれども、私どもはただ如来の願力を信じ喜ぶ信楽一心で救われるということ。
二つには、それならばなぜ本願に三心と誓われているかというと、それは一心の広大な徳義をあらわすのであるということ。
この二つになりましょう。そして、これをまとめていえば、如来の願力にうちまかせて喜ぶ信楽一心には真実の智慧(至心)と慈悲(欲生)の徳をそなえているから、信心(信楽)が正因であるということになります。
このように、三心と一心との関係について、宗祖の釈意をうかがうのが「三心一心」という論題であります。
二
本願の三心の中、「至心」とは真実心のことであります。宗祖の釈義によれば、この真実心というのは煩悩のけがれをまったく帯びていない(
「信楽」とは、信は
「欲生」とは、将来の報土往生があてになることで、善導大師は
以上、三心は第十八願の文の上では、十方衆生のおこす三心であります。しかしながら、この三心は名号によっておこさしめられる三心であり、願力をお聞かせいただくことによっておこる三心であります。私どもには本来このようなりっばな三心を持っているはずもなく、また起こそうとしても絶対にできるものではありません。にもかかわらず、願力を聞くことによって、私どもの上に三心がそなわるということは、もと如来の法そのものの上に成就されているものが与えられたからであるということになります。そこで宗祖のご解釈の上には、次のようにさまざまな三心の義がうかがわれるのであります。
一、阿弥陀如来の上でいわれる三心(これを
二、衆生の上でいわれる三心(これを
三、三心を仏と衆生とに分けていわれる(これを
右の約生の三心の中に、さらに二様あるいは三様の見方があり、また生仏相望の三心の中にも、至心を仏の側とし信楽と欲生とを衆生の上でいう義と、至心と欲生とを仏の側とし信楽を衆生の上でいう義と、二様の見方があります。
これらの種々の釈義を一々述べることは、紙数の関係もありますので、その概要を述べることにとどめたいと思います。
三
阿弥陀如来の上でいわれる三心、すなわち約本の三心について申しますと、「至心」というのは、阿弥陀如来の真実心であって、仏の成就せられた行徳であり、真如に契った真実清浄の智慧であります。
「欲生」というのは、衆生を往生させずにはおかないという仏の願いであり、仏の成就せられた大悲廻向の心であります。『正像末和讃』に(真聖全ニー五二〇)、
- 如来の作願をたずぬれば
- 苦悩の有情をすてずして
- 廻向を
首 としたまいて - 大悲心をば成就せり (*)
と示されているのが、これであります。
「信楽」というのは、阿弥陀如来が衆生を救うことにおいて、いささかのあやぶみもない
この約本の三心は、行巻の六字釈(*)(真聖全二ー二二)における六字の三義、すなわち「
衆生を往生成仏させる行徳が六字釈の「即是其行」であって、いまの「至心」にあたり、その行徳を衆生に与えたいという大悲廻向の心が六字釈の「発願廻向」であって、いまの「欲生」にあたり、まかせよ必ず救うとよびかけてくださっていることを示すのが六字釈の「帰命」であって、いまの「信楽」に対配せられます。これらは、いずれも仏の側で成就されている三心なのであります。
四
信巻の三心の法義釈[5]にあっては、三心の一々について、私ども迷いの衆生には、本来このようなすぐれた心は持ちあわせていないことを示され、そして約本の三心、すなわち
その中、おおむね「至心」と「欲生」の二心については、
- 衆生には清浄真実の心はない (機無)
- だから阿弥陀如来は永劫に六度万行を修して真実心を成就せられ (円成)
- それを私ども悪業邪智の衆生に与えてくだされた (廻施)
- 私どもの上でいう至心とは、如来より与えられた真実心であるから、これをいただいた相をいえば疑蓋無雑すなわち信楽一心のほかはない (成一)
というふうになっています。欲生心釈にあっても同様で(*)(真聖全二-六五)、
- 衆生にはまことの大悲心はない (機無)
- だから阿弥陀如来は因位のとき功徳を与えたいという願心のもとに修行されて大悲心を成就せられ (円成)
- その大悲欲生心をもって私ともに与えてくだされた (廻施)
- 私どもの上でいう欲生心は、如来から与えられた大悲心であるから、これをいただいた相をいえば疑蓋無雑すなわち信楽一心のほかはない (成一)
というように示されています。この揚合の「成一」というのは信楽一心を成ずるという意味であって、至心や欲生は信楽におさまるということをあらわします。
これに対して、信楽の解釈については、至心や欲生とすこしく解釈のしかたが異なって(真聖全二ー六二).
- 疑蓋無有間雑故名信楽
- (疑蓋間雑あることなし、かるがゆえに信楽と名つく。)(*)
と示され、また[真聖全二ー六ニ)、
- この心はすなわち如来の大悲心なるがゆえに必ず報土の正定の因となる。 (*)
と、信心(信楽)が正因である旨を示されています。これは至心と欲生の二心は信楽一心におさまり、三心即一の信楽こそ往生成仏の正因であると顕わされるものであります.
このような宗祖の釈義によれば、衆生の上でいう三心は、至心は行、欲生は願、また至心は智徳、欲生は悲徳とされ、この願行、悲智の徳が信楽一心におさまっているということになります。いいかえますと、信楽一心にそなわっている願行、悲智の徳を開いて示されたのが至心と欲生であるということであります。
五
また、三心の法義釈のなかに、
- この至心はすなわちこれ至徳の尊号をその体とせるなり。 (*)
と示され、信楽釈には(真聖全二ー六ニ)、
- すなわち利他廻向の至心をもって信楽の体とするなり。 (*)
と述べられ、欲生心釈には(真聖全二i六五)、
- すなわち真実の信楽をもって欲生の体とするなり。 (*)
と示されています。このように「体とする」ということが三回重ねて出されていますので、これを
はじめの至心の体は名号であるというのは、如来の名号が衆生心中に到りとどいたのが衆生の至心であって、衆生の上でいう至心のものがら(体)は仏の名号にほかならないといわれるのであります[6]。これは衆生の至心と仏の名号とを望めあわせて体を出されますので、
つぎに信楽の体は至心であるというのは、如来の名号願力が私の心にとどいてくださったのが至心であり、そのとどいた相(すがた)が信楽であって、私どもが信じ喜ぶということは如来の願力が私の心に宿った至心の相にほかならないといわれるのであります。
これは体(至心)と相(信楽)とを望めあわせて体を出されていますので、
つぎに欲生の体は信楽であるというのは、まかせよ必ず往生させるという如来の
はじめの生仏相望の出体によって、衆生の上にそなわる至心は、その体が仏の名号であるということが知られます。その至心の相が信楽であり、信楽の義別が欲生でありますから、至心の体が仏の名号であるということは、実は衆生の上でいう三心全体が、仏の名号が私の心に到りとどいたすがたであって、名号のほかに別に三心はないということをあらわします。
また体相相望の出体と体義相望の出体とによって、至心は体徳、信楽は心相、欲生は信楽の義別であると知られます。これは阿弥陀仏の法をいただいた相を信楽とし、信楽の体徳を示すのが至心、信楽の義別を示すのが欲生であるとされるので、やはり至心と欲生は信楽一心におさまるということになります。
六
四の項で述べたように、至心を智徳、欲生を悲徳とする場合も、また五の項で述べたように、至心を体徳(この場合は悲智二徳)とし、欲生を作得生想とする場合も、如来の法をいただくという心相をまさしく示すものは、信楽一心であるとされます。
このことは本願成就文にもとづいて本願の三心を見れば、おのずから明らかとなります。すなわち本願成就文には(真聖全一ー二四)、
- 諸有衆生 聞其名号信心歓喜 乃至一念 至心廻向 願生彼国 即得往生 住不退転 (*)
- (あらゆる衆生、その名号を聞きて信心歓喜せんこと乃至一念せん。至心に廻向したまえり。かの国に生ぜんと願ずればすなわち往生をえ、不退転に住せん。)(*)
等と説かれてあります。右のご文を宗祖のよみかたによって直訳的に示しますと、
- あらゆる人びとは(諸有衆生)、諸仏の讃嘆される弥陀の名号のいわれを聞いて信じ喜び(聞其名号信心歓喜)、その信心歓喜は一生涯相続するが(乃至)、信心のおこった最初のとき(一念)──その信心は如来のまことから与えられたものであるから(至心廻向)──往生を願う(願生彼国)たちどころに往生成仏ずべき身に定まり不退転の位に入るのである(即得往生住不退転)。
ということになりましょう。成就文というのは、阿弥陀仏の因位のときに立てられた誓願が、その誓願のとおりに成就したということを釈迦仏が説きのべられたものでありますから、因願と成就とはくいちがうはずはありません。もしくいちがっておれば、因願がそのとおり成就したとはいえないからであります。
そこで、この論題の一番はじめにかかげた本願の文と、ここに出した成就文とを対照してみますと、その内容にくいちがいはありませんけれども、その説きぶりに差異があることに気づかされるのであります。
本願の上では、「至心 信楽 欲生我国」と三心を出されたあとに「乃至十念」が示されていますが、成就文では、「信心歓喜」にすぐ「乃至一念」がついていて、「至心廻向」等は乃至一念よりあとに出ています。成就文の信心歓喜は本願の信楽のことでありますから、名号のおいわれをお聞かせいただいたすがたをあらわすものは信楽であるということが、これによって知られます。
また信心歓喜のおこった最初のとき往生成仏すべき身に定まるというのですから、信楽(信心)が正因であるということは明らかであります。
しかも、宗祖は乃至一念のあとに出ている「至心廻向」を阿弥陀仏のこととして「至心に廻向したまえり」とよまれています。この経文は諸有衆生が信心歓喜し、諸有衆生が至心に廻向願生するというふうによむのが文の当分ですが、宗祖はこれをあえて「至心に廻向したまえり」と仏の側にしてよまれるわけであります。これは宗祖独自のよみかたでありますが、宗祖の恣意独断によるものでは決してありません。このようによまねばならない法義の必然性があったからであります。『大無量寿経』には、阿弥陀仏の因位のときの修行を説かれるところに(真聖全一ー一五)、
- 大荘厳をもって衆行を具足して、もろもろの衆生をして功徳成就せしむ。(*)
等と説かれています。そしてこの文を宗祖は信巻の至心釈に引用されてあります。この文の意味は、
- 大きな願いをもってもろもろの行を修め、それをすべての人びとに施して功徳を成就せしめられるのである。
ということで、阿弥陀仏の至心廻向をあらわしています。さらに曇鸞大師の他力の釈(*)(真聖全二ー三五以下引用)や、善導大師の弘願の釈(*)(真聖全ニー二一引用)などによりますと、私どもは全く阿弥陀如来の願力によって救われるのであって、私のカをまじえて往生するのではありません。私はただ救いの法を受けて喜ばせていただくのみであります。
そこで、本願成就文にあっては、「信心歓喜」(信楽)をもって、衆生か法をいただいた心相とされ、「至心廻向」(至心と欲生)は仏の側で示されるのであります。
この仏の「至心廻向」は、向上・向下の二意があるといわれます。上に向かっては、如来の至心廻向によるがゆえに、私どもは信心歓喜の心をおこさしめられるのであるということをあらわします。下に向かりては、如来の至心廻向によるかゆえに、直ちに往生成仏すべき身に定まるのであるということをあらわすのです。
こういうわけで、本願の三心は信楽一心におさまるということは、その成就文によって知ることができます。そして宗祖の意によれば、本願成就文は至心と欲生との二心を仏の側で語り、信楽一心を衆生の上でいうことになりますから、仏二生一というかたちになっているわけであります。
なお、『尊号真像銘文』に(*)(真聖全二-五六○)、
- 「至心」は真実と申すなり、真実と申すは如来の御ちかひの真実なるを至心と申すなり。
- 煩悩具足の衆生は、もとより真実の心なし、清浄の心なし、濁悪邪見のゆゑなり。「信楽」といふは、如来の本願真実にましますを、ふたごころなくふかく信じて疑はざれば、信楽と申すなり。
- この「至心信楽」は、すなはち十方の衆生をして、わが真実なる誓願を信楽すべしとすすめたまへる御ちかひの至心信楽なり、凡夫自力のこころにはあらず。「欲生我国」といふは、他力の至心信楽のこころをもつて安楽浄土に生れんとおもへとなり。
と示されています。これによれば、至心を仏の側で語り、信楽と欲生の二心を衆生の上でいわれてありますから、仏一生二ということになります。
七
以上、宗祖の三心釈義について、その概要を述べました。
約本の三心、すなわち仏の上でいわれる三心は、衆生の上にとどけられる三心の本(もと)を示されたものであって、悲智・願行をもって衆生を救済したもう願力の法であります。
そして、その如来の法を衆生が受けたことをまさしくあらわすものは信楽一心であるとされます。すなわち、約末の三心の場合には、至心と欲生とは信楽の体徳とし、あるいは至心は信楽の体徳、欲生は信楽の義別として、ともに信楽一心におさめ、生仏相望の三心の場合も、仏二生一・仏一生二のいずれの場合も、法を受けることをあらわすのは信楽一心であるとされます。
このように、至心と欲生の二心をおさめている信楽であるから、信楽は悲智二徳をまどかにそなえた他力の大菩提心であって、仏果を得べき正因であり(菩提心釈)、この心が開発した即時に正定聚に住する大信心である(信一念釈)と示されるのであります。
なお、天親菩薩が「一心」といわれたのは、ふたごころなく無碍光如来に帰命したてまつるという意殊であって、三心(三つの心)に対する一心(一つの心)ということではありません。けれども、ふたごころなく帰命するということは本願成就文の信心歓喜(本願の信楽)でありますから、三心を合して一心といわれた(合三為一)のは、天親菩薩の釈功であるといわれるのです。しかし、三心が即一心におさまるという意味は本願成就文にあるのですから、三心即一は法義の固有(本然)であるといわれます。
このように、宗祖聖人は本願の三心をさまざまな角度からくわしく解釈せられて、ただ願力の法を受けて喜ぶ信楽一心で往生成仏の大果を得べき身にならせていただくことを明らかにしてくださったのであります。
脚注
- ↑ 作得生想(得生の想をなす)。浄土に生を得る想いをなすこと。「散善義」の回向発願心釈p.464にある文。この「又回向発願願生者 必須決定真実心中回向願 作得生想。(また回向発願して生ぜんと願ずるものは、かならずすべからく決定真実心のうちに回向し願じて、得生の想をなすべし)」の文を、御開山は「「信巻末」p.221で引文され、「また回向発願して生ずるものは、かならず決定して真実心のうちに回向したまへる願を須(もち)ゐて得生の想をなせ」と訓じられた。(御開山の引文は回向発願生者となっているので所覧本がそうなっていたのであろう) 阿弥陀如来が衆生に回向したまう真実心なる願をもちいて「得生の想をなせ」と訓じられ回向の主体を衆生から如来へと転じられた。阿弥陀如来の本願力回向の宗義の発揮である。
- ↑ 第十八願には、「至心・信楽・欲生」、第十九願に「至心・発願・欲生」、第二十願では「至心・廻向・欲生」となっている。この三心は中間の、〔信楽〕、〔発願〕、〔廻向〕の語(ことば)によってあらわされる意味と、至心と欲生の内容がそれぞれ違うものになる。もちろん阿弥陀如来の本意は、至心信楽欲生の第十八願である。
- ↑ 仏について考察のする意。仏の教法を仏の側からあらわすこと。約本、約法と同じ。◇本願を信じさせ、念仏を称えさせて、迎えとり悟りを得させる、のように仏の側からの救済の表現。
- ↑ 衆生側から法について考察するの意。仏の救済を衆生の側から表現すること。約末、約機に同じ。◇本願を信じ、念仏を称え、浄土に往生して仏に成る、という能動的な表現。
- ↑ 法義釈。直ちに文面上には見えないが教法の義として当然あるべき意味を洞察し解釈すること。
- ↑ 『教行証文類』には、教・行・証それぞれに、教巻は「それ真実の教を顕さば、すなはち『大無量寿経』これなり」と[教]を出し、行巻には「大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり」と[行]を出し、証巻には「つつしんで真実の証を顕さば、すなはちこれ利他円満の妙位、無上涅槃の極果なり」と真実の[証〕果の、それぞれに体を出しれておられる(出体釈)。しかるに信巻では別序の後に十二嘆名を出されて信の出体釈がない。これは行巻の行(なんまんだぶ)を承けられて行から信を別開されたからである。御開山が自著を『教行証文類』とされた所以である。要するに行信不離であって行なき信も信なき行もないということである。
- ↑ 信楽の持つ意義を別に開いたということ。三業惑乱以降、欲生の扱いは慎重なのだが、御開山は欲生釈で「次に欲生といふは、すなはちこれ如来、諸有の群生を招喚したまふの勅命なり 」と、勅命という語を使っておられることに留意。信心という語に幻惑されて、大悲往還の淵源である往生浄土を等閑にするならば本末転倒であろう。