安心論題/信疑決判
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
(6)信疑決判
一
阿弥陀仏はすべての人々を救わねば仏にならないと誓われ、その誓願が成就して、現にわたくしどもに救いを呼びかけていてくださいます。けれども、これを私が信受しなければ、私は救われません。すでに救いのほうは成就されているのですから、私が救われるか否かは、その救いの法を私が信受するか、信受しないかにかかっています。
これは阿弥陀仏が、信じた者は救うが、信じない者は救わないというように、信心を救いの条件とされているのではありません。[1] 阿弥陀仏はすべての人々に救いの手をさしのべていてくださるのです。しかし、その救いを拒絶する者、救いを受けいれない者は救われないということです。その救いを拒絶して受けいれない者も、阿弥陀仏の願力のおんはたらきでいつかは必ず信受させねばやまないと、常に動いてくださるのが阿弥陀仏の願力であります。
今は現に与えられている救いの法を信受するか否かによって、悟りの世界に入るか迷いの世界にとどまるかが別れる、というけじめを明らかにすることが、この「
二
法然上人の『選択本願念仏集』の第八、三心章に(真聖全一―九五七)、
- 念仏の行者、必ず三心を具足すべきの文 (*)
とかかげて、『観経』の三心(至誠心、深心、廻向発願心)と、これを解釈せられた善導大師の『散善義』の三心釈の文、および『往生礼讃』の三心釈の文をお出しになり、その意味を法然上人がご私釈にお述べになっています。その深心釈に(真聖全一―九六七)
- 次に深心とは、いわく深信の心なり。まさに知るべし、生死の家には疑をもって所止とし、涅槃の城には信をもって能入とす。故にいま二種の信心を建立して、九品の往生を決定するものなり。 (*)
と示されてあります。法然上人は第十八願の念仏をお勧めくださるのですが、その念仏行者は必ず三心を具足していなければならないといわれます。三心を具足するということは、要は、深心すなわち本願を深く信ずる心がなければならないということであります。この信心の有無によって、悟りの世界に入るか、迷いにとどまるかが別れるといわれるのであります。
宗祖聖人は『尊号真像銘文』に、右の信疑決判の文を解釈せられて(真聖全二―五七二)、
- 「当知生死之家」というは、まさにしるべし生死のいえというなり。「以疑為所止」というは、大願の不思議力をうたがうこころをもって、六道・四生・二十五有・十二類生にとどまるなり、いまにまようとしるべしとなり。
- 「涅槃之城」というは、安養浄刹をもうすなり、これを涅槃のみやことはもうすなり。「以信為能入」というは、真実信心をえたる人のみ本願の実報土によくいるとしるべしとなり。(*)
と述べられています。
「生死の家」というは、生死は迷いの果であって、六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)、四生(卵・胎・湿・化の四種の生まれ方)、二十五有(欲界・色界・無色界の三有を更に二十五に分けたもの)といわれる迷いの世界を指します。
「疑いをもって所止とす」というのは、疑いとはここでは阿弥陀仏の本願を信受しないことで、本願を信受しないから迷界にとどまるのであるといわれます。
「涅槃の城」というのは、涅槃とは生死を断滅した寂静の世界、すなわち悟りの世界を指します。その悟りの世界とは阿弥陀仏の浄土のことであります。
「信をもって能入とす」というのは、信とは本願を信受することで、善導大師の深心釈では、この信心を機法二種の深信として示されていることは、前回の「二種深信」の論題でうかがった通りであります。「能入とす」というのは、信ずる一つで悟りの世界に入るという。宗祖は「真実信心をえたる人のみ本願の実報土によくいるとしるべしとなり」と仰せられています。
「故にいま二種の信心を建立して、九品の往生を決定するものなり」というのは、善導大師が深心釈に、本願の信心を機法の二種に開いて示された意義を述べられたものであります。九品というのは『観経』に説かれている機類別(往生人の種別)であって、上中の六品は善機であり、下三品は悪機であります。
上中の六品の善機も、自己の積むような善根では迷界を出ることができず(機の深信)、仏願力に乗託すること(法の深信)によってのみ、迷界を出ることができます。
下三品の悪機も、迷界を出ることのできない者(機の深信)を、摂受したもう仏願力と知って(法の深信)これに乗託します。
こういうわけで、本願の信心を機法二種の深信と開いてお示しくださったことによって、善悪すべての人々が本願の信心一つで救われるということが明らかになったと、法然上人が善導大師の釈功を述べられたのであります。
これを要するに、法然上人の示された信疑決判の釈は、宗祖聖人の明らかにされた信心正因の義と同じ意味になります。
三
この法然上人の信疑決判の釈功を、宗祖は『正信偈』にたたえて(真聖全二―四六)、
- 生死輪転の家にかえる(還来する)ことは、決するに疑情をもって所止とす。すみやかに寂静无為の楽に入ることは、必ず信心をもって能入とす、といえり。(*)
と示されています。「還来」は往来の意であって、迷界内をゆきつもどりつすること。「楽」は洛と音が同じところから、ここでは「みやこ」の意で用いられます。また『高僧和讃』の源空讃にも(真聖全二―五一四)、
- 諸仏方便ときいたり
- 源空ひじりとしめしつつ
- 无上の信心をしえてぞ
- 涅槃のかどをばひらきける (*)
- 真の知識にあうことは
- かたきがなかになおかたし
- 流転輪廻のきわなきは
- 疑情のさわりにしくぞなき (*)
と、信疑決判の釈功をたたえていられます。法然上人は念仏往生の化風でありますが、この信疑決判の釈から見れば、宗祖聖人と同じく信心正因の義を示されています。また、宗祖聖人は
四
信ずれば悟りの世界に入り、疑えば迷界にとどまるというのは、本願を疑うことがわたくしどもの迷いの因であるということではありません。わたくしどもの迷いの因は、わたくし自身の煩悩悪業であります。その迷いの世界から救われる願力の法が成就して与えられているにもかかわらず、これを信受しないから、悟りの世界に入ることができず、依然として迷界にとどまるのである、といわれるのです。
たとえば、自分の不摂生で病気になっている者が、すでにその病気を治す薬ができていて与えられているにもかかわらず、これをのまないから、病気が治らないというのと同様であります。薬をのまないから病気が治らないというのは、薬をのまないことが病気の原因だということではありません。
五
上に述べてきた信疑決判と似ているが、すこしく異なる意味をあらわすものに、信疑の得失、あるいは胎化得失といわれる宗義があります。それは『大経』下巻の胎化段といわれる一段(*)(真聖全一―四二~四四)に説かれています。
これは、同じく浄土往生を願っていながら、仏智の不思議を疑い、みずから善根を積むことによって往生しようと願う者は、たとい往生を得ても宮殿の中に閉ざされて、自在に自利利他の活動をすることができません。それはあたかも母親の胎内に宿っているのに似ていますから、これを胎生といわれます。
それに対して、明らかに仏智を信ずる者は浄土に往生して直ちに仏果を得させていただき、自由自在に自利利他の活動ができます。それを化生といわれます。
このように、疑惑仏智の行者は胎生の失があり、
六
信疑決判の場合の信も真実信心であり。信疑得失の場合の信も明信仏智でありますから、信はどちらも第十八願の他力信心であります。しかし、「疑」の方は言葉は同じでも、信疑決判の場合の疑と、信疑得失の場合の疑とは、その内容が異なります。
信疑決判でいう疑とは、本願を信受しないことですから、阿弥陀仏の浄土を願生しない者、本願の法を知らない者などを総じて含みます。信疑の得失を語る場合の疑とは、他力真実の信心を得ていない自力の心の行者をいうのです。すなわち明信仏智の他力信に対して、
このように、信疑決判の場合の疑は本願を信受しないことですから、迷界にとどまるといい、信疑得失の場合の疑は自力の願生者を指しますから、胎生の失を受けるといわれるのです。
化生は真実報土の往生で、往生即成仏の証果を得させていただくことであり、胎生は浄土に生まれながら真実報土の世界に入れないので、これを「
いずれにしても、往生即成仏の因は真実信心ひとつであるとして、信を勧め疑を誡められるという点は、信疑決判も信疑の得失も同じであります。
『やさしい 安心論題の話』(灘本愛慈著)p76~
脚注
- ↑ 浄土真宗における救いとは、信じたら救われるというような思い込む宗教の信心とは信の意味が異なっている。通常の信心とは救うものと救われる者との対応の上でいわれるのだが、浄土真宗の信とは御開山が摂取の左訓に「もののにぐるをおわえとるなり 」と示されるように逆対応の救済である。これを他力とも本願力回向ともいうのである。なお浄土真宗においての救済とは、救われる者を自らと同じ救うものたらしめようということであり、仏陀の悟りを獲さしめることにある。これを御開山は往生即成仏と仰ったのであった。