信行
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
しんぎょう 信行
他力回向の信と行の意で、第十八願に誓われた信心(三心)と念仏(十念)のこと。「信巻」には
『高僧和讃』には、
- 「往相の回向ととくことは 弥陀の方便ときいたり 悲願の信行えしむれば 生死すなはち涅槃なり」(高僧 P.584)
御開山には「行信」といい、行を先にする表現と「信行」と信を先にする表現がある。宗学では信前行後とか行前信後とか煩いのだが(信因称報説)、これをドグマ、ご法義を聴聞してお念仏を申し、お念仏申しながら聴聞を重ねて、遂に信心の念仏者に育てられるという聴聞の現場、現実を無視した空論になりかねない危険性があるように思ふ。
ただ、往生の決定を論じる場合は信行の次第で説く。信心と称名との関係で往生決定を論じるときは、阿弥陀仏の救済の法が衆生の上で実現する場合は時が立つ。衆生は時間的存在であるから時を論ずるのである。→信の一念 それに対して念仏(なんまんだぶ) は阿弥陀仏の時間を超えた衆生済度の「法」であるから時を超越しているので時間は論じない。法然聖人や親鸞聖人が往生決定の因を語る場合は、念仏を称えた時ではなく「信疑決判」とか「涅槃の真因はただ信心をもつてす(涅槃真因 唯以信心)と、信であらわしておられた所以である。浄土真宗で「信心正因」といふ所以である。 口業と身業は「思已業」であることから「信行」とするのは当然であろう。
西山の善恵房証空は、称名念仏の自力行為性を否定するため、衆生の三業を離れた念仏を「離三業念仏」とされていた。これに対して御開山は本願力回向の大行・大信の「行信」を説かれ、行も信も阿弥陀仏から回向されるのであるとされた。その意味で、浄土真宗の「行信」は救済の法に対しての一切の自力性を否定するのであった。