安心門
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
あんじん-もん
「起行門」に対する語。安心とは、心に安らぎと満足があたえられること。また、安らぎが与えられたこころの状態をいふ。門とは事物を区別して分類する語で、安心門とは行業を示す起行門と区別して本願力回向の「信心」を論ずる門である。
善導大師の『往生礼讃』(往生礼讃 P.654) に、安心・起行・作業とある所から、何に、何の故に、どのように往生を期する心を決定し安心するかを論ずることを安心門という。
この安心門の立場では、善悪をかえりみず、本願念仏について決定の信心を建立する。法然聖人はこの意を「三心料簡事」に、
- 善人は善人ながら、悪人は悪人ながら、本のままにて申すべし。これ念仏に入る故なり、始めに持戒・破戒なにくれと云ふべからず。ただ本の体ありのままにて申すべし、と云々。→三心料簡および御法語の訓読#善悪の機の事
といい、善人は善人のまま、悪人は悪人のまま、本の体ありのままにて念仏し救われていくという、機の善悪を超絶した絶対平等の救済のありさまを顕わされていた。このように安心とは機の善悪を問わず、「安心は廃立にあり」として、徹底して自力の「仮」を廃して他力である本願力の「真」を立てる。いわゆる仮(権)を廃し捨てて、選択本願である名号の真実(実)を立てる。浄土真宗は何を「真実」とし拠り所とするかを徹底的に考究するのでこれを安心を論ずる安心門といふのである。
なお、本願寺派では「安心論題」として、宗義上の問題をテーマ別に種々に論ずるのだが衒学的で煩瑣な面もあり難解でもある。
親鸞聖人は「真仏土巻」で、「真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す」(真巻 P.373)と示されておられるのも安心は廃立を本とする意である。