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三忍

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

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さんにん

忍とは認可決定(にんかけつじょう)の意で、ものをはっきりと確かめて決めこむこと。

Ⅰ.三法忍(さんぼうにん)。音響忍・柔順忍・無生法忍をいう。→音響忍柔順忍無生法忍 (大経 P.34, 行巻 P.206,化巻 P.377讃弥陀偈 P.165安楽集 P.284定善義 P.407)

Ⅱ.他力の信(無生法忍)のもつ三つの徳義。(信巻 P.261)

喜忍(きにん)歓喜(かんぎ)のおもい。
悟忍(ごにん)。仏智を領得すること。
信忍(しんにん)。仏力を信ずる。
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

忍とは認可(にんか)決定(けつじょう)の意で、ものをはっきりと確かめて受け入れること。認は形声文字であり、「言」と音符「忍」(ゆるす)とから成り、相手の言うことを承知する「みとめる」意をあらわす。忍は認という漢字ができる前の古い表現であろうが発音が同じなので忍は認に通じて用いられた。

さんにん 三忍

Ⅰ 他力信心(無生法忍)にそなわる三つの徳義。

① 喜忍。(歓喜の思い。法を聞き、安心してよろこぶ心)、
② 悟忍。(仏智を領得すること。信心のいわれをはっきりと知る心)
③ 信忍。(仏力を信じること。本願を疑いなく信じる心)

の三。「序分義」には、

この喜びによるがゆゑに、すなはち無生の忍を得ることを明かす。また喜忍と名づく、また悟忍と名づく、また信忍と名づく」(信巻 P.261)、

「正信偈」には、

「慶喜の一念相応してのち、韋提と等しく三忍を獲」(*)

とある。
Ⅱ 音響忍、柔順忍、無生法忍の三法忍のこと。(浄土真宗辞典)

御開山は「真仏弟子釈」で「序分義」を引いて韋提希の得忍を、

心歓喜得忍といふは、これは阿弥陀仏国の清浄の光明、たちまちに眼の前に現ぜん、なんぞ踊躍に勝へん。この喜びによるがゆゑに、すなはち無生の忍を得ることを明かす。また喜忍と名づく、また悟忍と名づく、また信忍と名づく。これすなはちはるかに談ずるに、いまだ得処を標さず、夫人をして等しく心にこの益を悕はしめんと欲ふ。勇猛専精にし心に見んと想ふときに、まさに忍を悟るべし。これ多くこれ十信のなかの忍なり、解行以上の忍にはあらざるなり」と。(信巻 P.261)

とされ、三忍は凡夫である十信位で得られる忍(認)であると領解されておられた。そして、

 まことに知んぬ、弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。ゆゑに便同といふなり。しかのみならず金剛心を獲るものは、すなはち韋提と等しく、すなはち喜・悟・信の忍を獲得すべし。これすなはち往相回向の真心徹到するがゆゑに、不可思議の本誓によるがゆゑなり。

と、自釈されておられる。

いわゆる『大経』で説かれる、音響忍、柔順忍、無生法忍(大経 P.34) は浄土へ往生して得られる「忍」であって、現世で得られる忍は、喜忍、悟忍、信忍の三忍であるとされたのであろう。ただし無生法忍を正定聚の位を示すとみられている場合もある。

なお善導大師は韋提希が三忍を得たのは、第七観(華座観)の初めにおいて無量寿仏を見たてまつりし時であるとされていた。「得益分」で、

四に「得見仏身及二菩薩」より以下は、まさしく夫人第七観(華座観)の初めにおいて無量寿仏を見たてまつりし時、すなはち無生の益を得ることを明かす。 (散善義 P.497)

と、無生の益(無生法忍)を得たのは見仏の時であるとされていた。『観経』とは仏を観(み)て成仏を決定することを主題として説く経であるからである。仏にまみえる見仏とは、必ず仏となることを保証する授記であるからである。 →授記
ただし次下の「流通分」に於いて、

上来定散両門の益を説くといへども、仏の本願に望むるに、意、衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり。 (散善義 P.500)

と、『観経』は「仏の本願に望」(*) めば、なんまんだぶ(称名)を勧める経典であるとされたのであった。観(見)から聞への、『観経』の眼見から『大経』の第十八願の「乃至十念」の称えて聞く「聞見」への善導大師の指南であった。
要するに喜忍、悟忍、信忍の三忍とは、なんまんだぶと称える「行」の中に内包されていることを、

しかれば名(みな)を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。称名はすなはちこれ最勝真妙の正業なり。正業はすなはちこれ念仏なり。念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり。南無阿弥陀仏はすなはちこれ正念なりと、知るべしと。(行巻 P.146)

と「正念」とされたのであった。 →正念