罪福
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
ざいふく
罪とは苦果を招く
罪福信じ
自業自得の因果のみを信じ、善悪を超えた阿弥陀仏の本願力の救いを信じないことをいう。(正像 P.610)
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
罪福心について、御開山は「真仏土文類」の末尾で、
- まことに仮の仏土の業因千差なれば、土もまた千差なるべし。これを方便化身・化土と名づく。真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す。 (真巻 P.373)
とされておられる。この真仮とは、自業自得 (信罪福心) という自利 (自力) の法門と、本願力回向の「誓願一仏乗」の利他力 (他力) の法門の綱格の違いをいふ。この利他力のあらゆる衆生を浄土へ運載する大乗の意を『御消息』では「浄土真宗は大乗のなかの至極なり」(消息 P.737) とされたのであった。
善人悪人を平等に浄土に往生せしめ「済度」するという真宗の法義 (仏法の教義) は人間の思議の常識を超えているから、不可思議の法なのであった。なんまんだぶを称えて念仏成仏を目指すご法義であった。 →真仮論の救済論的意義
- インクルード ノート
(『顕浄土方便化身土文類講讃』 梯實圓著)P.408、P.409より引用
信罪福心
「罪福を信ずる心をもつて本願力を願求す、これを自力の専心と名づくるなり」(*)といわれた「信罪福心」は、『大経』の胎化段に仏智を疑いながら、罪福を信じて善本を修習するという胎生の因を説かれたところで用いられた言葉である。(*)
もともと罪福を信じるとは、仏教で一般的に語られる善因楽果、悪因苦果という善悪業報の因果、自業自得の因果を信ずることであり、それを実践しているのが廃悪修善の行であった。
しかし親鸞聖人はここで「罪福を信ずる心」を自力心の変え名として用いられている。
それは善悪平等の救いを誓われている仏不智思議[1]の本願を受け容れないで、廃悪修善の論理で本願を理解しようとしていることを「信罪福心」といわれたと解釈されたからである。
つまり親鸞聖人は「罪福を信ずる心」を「自力のはからい」の替え名として用いられたのであった。
『観経』の九品段でいえば、上六品は善人(福)の往生する因果であり、下三品は悪人(罪)の往生する相であるが、往生の因はそれぞれが造る善業である。それが上々品から下々品までの優劣の隔たりがあり、経の顕の義[2]でいえば、善業の優劣に応じて浄土の果相は大きく異なっている。この『観経』の顕の義の通りに信じることを「罪福を信じる」といわれたのである。
それに対して第十八願は、阿弥陀仏が不思議の仏智をもって善悪平等の救いを誓われた誓願であって、本願を信じ念仏する者は老少善悪をえらばず往生を得しめられる。
浄土往生が成立するかしないかは、善人か悪人か、善業の優劣によって決まるのではなくて、善悪を超えて平等に救うと誓われた本願を信じるか疑うかによって決まるというのである。
本願力による善悪平等の救いを告げる第十八願成就の名号を、善悪業報の因果を信じる心で受け容れ、名号を称念した善根功徳によって往生を遂げたいと願っているのが第二十願の真門念仏だったのである。 第十八願の法を第十九願の心で受け取っているのである。
そこには与えられている南無阿弥陀仏という教え(法)と、救いを求める行者の心(機)との間に明らかな乖離があることがわかる。
その心を「これを自力の専心と名づくるなり」(*)といわれたのである。自力の専心は、定専心であれ、散専心であれ、「罪福を信ずる心」をもって回向を専らにすることをいうから、専心とはいうが弘願の専心ではないということを知らせるために「自力の専心」といわれたのである。
(顕浄土方便化身土文類講讃 梯實圓著)P.408、P.409より引用