光明
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
こうみょう
Ⅰ 十方衆生を碍りなく救う尽十方無碍光のいわれ。光明が名の義でもある。(二門 P.548)
Ⅱ 仏・菩薩の身心に具わる光。迷いの闇を破し、真理をさとりあらわす仏・菩薩の智慧を象徴するもの。とくに阿弥陀仏については、『大経』に無量光などの十二光をもってその光明の徳が示されている。→十二光 (じゅうにこう)。
Ⅲ 光明
Ⅳ 『
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
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こうみょう 光明
仏・菩薩の身心にそなわる光のこと。迷いの闇を破し、真理をあらわす仏・菩薩の智慧を象徴するもの。『大経』(註 29)には、阿弥陀仏の光明について十二光が説かれ、『唯信鈔文意」には「阿弥陀仏は光明なり、光明は智慧のかたちなりとしるべし」(註 710)とある。なお、浄土真宗では阿弥陀仏の光明のはたらきを、調熟 (未熟の機を調育する) と摂取 (念仏の衆生を摂(おさ)め取って捨てない) の二側面から論じている。(浄土真宗辞典)
『尊号真像銘文』には、
- 「帰命尽十方無碍光如来」と申すは、「帰命」は南無なり、また帰命と申すは如来の勅命にしたがふこころなり。「尽十方無碍光如来」と申すはすなはち阿弥陀如来なり、この如来は光明なり。「尽十方」といふは、「尽」はつくすといふ、ことごとくといふ、十方世界を尽してことごとくみちたまへるなり。「無碍」といふはさはることなしとなり、さはることなしと申すは、衆生の煩悩悪業にさへられざるなり。
- 「光如来」と申すは阿弥陀仏なり、この如来はすなはち不可思議光仏と申す。(尊号 P.651)
と、無碍光如来を無碍と光如来に分節しておられた。仏教の通規では光は「智慧」を意味するところから光如来とされたのであろう。普通には、老年に至れば智慧より慈悲に関心が移るものだが、御開山は老いてなお仏法の智慧に関心がおありであったのである。
◆ 参照読み込み (transclusion) JDS:光明
こうみょう/光明
仏・菩薩の智慧の働きを象徴する光。迷妄の暗闇を破り真理の明るみを表し出す光のこと。ⓈprabhāⓈālokaなどの訳語。またⓈprabhākara(光明を放つ者)という用法もある。阿含経典では仏陀が光明を放つ存在とされ、また諸天(神々)などが光明を放つ場面が描かれる。大乗経典においても様々に光明は語られ、浄土教においては『無量寿経』上に「無量寿仏の威神光明、最尊第一なり。諸仏の光明、能く及ばざる所なり」(聖典一・二三七/浄全一・一三)と阿弥陀仏の光明が説かれ、また極楽浄土の情景とりわけ光明が描写されている。オリエント学や宗教学の研究では、仏典に光明が多く説かれる理由として、イラン地方の宗教の影響が指摘されることもあるが定説ではない。
[浄土教と光明]
『無量寿経』ではⓈprabhāの漢訳語として光明の語が多見され、また第十二光明無量の願が説かれているように、光明の功徳が見られる。特に極楽浄土の様相は「一一の宝華に、百千億の葉あり。その華の光明、無量種の色あり。青色には青光あり。白色には白光あり。玄黄朱紫の光色もまたしかなり。暐曄煥爛にして、明曜なること日月のごとし。一一の華の中より、三十六百千億の光を出だす。一一の光の中より、三十六百千億の仏を出だす」(聖典一・二四七/浄全一・一八)と説かれた。また『観経』には「如意珠王より、金色微妙の光明を湧出す。その光、化して、百宝色の鳥となる。和鳴哀雅にして、常に念仏・念法・念僧を讃ず」(同二九六/同四一)と、さらに『阿弥陀経』には「池の中に蓮華あり。大きさ車輪のごとし。青色には青光あり。黄色には黄光あり。赤色には赤光あり。白色には白光あり。微妙香潔なり」(同三一六/同五二)と説かれている。
[光明の種別]
光明には種々の種類がある。龍樹の『智度論』四七には「光明に二種あり、一には色光、二には智慧光なり」([1]と言って色光と智慧光とが挙げられる。法蔵の『華厳経探玄記』三では「光明に二種あり。一には智光、二には身光なり」(正蔵三五・一四六下)と言う。この二種は内光と外光とも称され、基の撰と伝えられる『阿弥陀経通賛疏』中では「光に二種あり、一には内光、即ち智なり。内に理を照らす。二には外光、即ち身光は外照なり。これ即ち身光なり」(正蔵三七・三四二上)と述べている。これらは、仏陀の放つ光明に、仏陀の智慧に基づくものと、仏陀の身体に基づくものがあることを示している。仏陀の身体より放たれる身光には、常光と放光の二種がある。常光は円光とも言われ、仏身から常に放たれる光で、放光とは現起光とも神通光ともいわれ、仏陀が様々な時に応じて発する光明である。また、仏の全身より放つ光を挙身光、白毫より放つのを白毫光、毫光、眉間光といい、毛孔より放つのを毛孔光、頭頂より放つのを頭光、仏の像の背後から放つのを後光という。法然は『逆修説法』三七日で光明を説明する中で、光明を常光と神通光とに大別し、常光を「長く照らし不断に照らす光なり」(昭法全二四七)とし、神通光を「これ別別に照らす光なり。…阿弥陀仏の神通光は摂取不捨の光明なり。念仏の衆生有るの時は照らし、念仏の衆生の無きの時は照らしたまうこと無きが故なり」(同)と説明する。良暁の『決疑鈔見聞』三では「凡そ仏仏に皆常光神通光有りて余仏の光明は常光は一尋なり。神通光は無量無辺を照らすも、今弥陀の光明は常光も神通光も共に法界を照らす。但し常光は三世常恒の光明なり。神通光は起不起有りて機の得益に随いて常光の外に別の光明を指し副ゆるなり。すなわち九品生来迎の光明乃至彼土授記の光益等なり。今の念仏不捨の光明はかくの如きの神通光にはあらず。常光の上に仏の御意を相い副えて不捨の益有るを摂取の光と云うなり」(浄全七・四一二上)と解釈している。
[光明の利益(功徳)]
仏・菩薩の光明は衆生を照らして、衆生に種々の利益を得させる。『摩訶般若波羅蜜経』一に「この光に遇うものは必ず阿耨多羅三藐三菩提を得る」([2]といい、仏の光に遇うことで覚りを得ることができるという。『無量寿経』上では無量寿仏の放つ光明について「それ衆生あって、この光に遇う者は、三垢消滅し身意柔軟なり。歓喜踊躍して、善心生ず。もし三塗勤苦の処に在って、この光明を見たてまつれば、皆休息を得て、また苦悩なし。寿終の後、皆解脱を蒙る」(聖典一・二三七/浄全一・一三)と言い、光に遇う者が利益(功徳)を得ることができると説く。善導が『観経疏』で摂取不捨の光明について述べていることに関して「念仏の衆生に付いて光明の遠近有ると釈し給える事、殊に云われたることと覚え候え」(昭法全二四七)と前置きして法然は、「諸仏の功徳は何の功徳も皆法界に遍くと雖も、余の功徳は其の相顕れたる事なし。但し光明を有りて正しく法界に遍るの相を顕せる功徳なり。故に諸の功徳の中に、光明を以て最も勝れたりと釈し給うなり。又諸仏の光明の中には阿弥陀如来の光明猶を勝れ給えり」(同)と受領し論じる。先述のように、摂取不捨の光明について良暁は『決疑鈔見聞』三で「今の念仏不捨の光明はかくの如きの神通光にはあらず。常光の上に仏の御意を相い副えて不捨の益有るを摂取の光と云うなり」(浄全七・四一二上)と述べている。
【資料】『観仏三昧海経』、『往生論』、『観念法門』
【参考】藤田宏達『梵文和訳 無量寿経・阿弥陀経』(法蔵館、一九七五)
【執筆者:藤本淨彦】