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より出でたり

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

御開山は願名を挙げるとき、真実の願と方便の願では表現を使い分けておられた。 真実の行・信・証・還相の出願をされる場合は「出於(より出でたり)」とされおられた。

第十七願(行)
然斯行者 出於大悲願。
しかるにこの行は大悲の願(第十七願)より出でたり。(行巻 P.141)
第十八願(信)
斯心即是 出於念仏往生之願。
この心すなはちこれ念仏往生の願(第十八願)より出でたり。(信巻 P.211)
第十一願(証)
即是 出於必至滅度之願。
すなはちこれ必至滅度の願(第十一願)より出でたり。(証巻 P.307)
第二十二(還相)
則是 出於必至補処之願。
すなはちこれ必至補処の願(第二十二願)より出でたり。(証巻 P.313)

それに対して第十九願、第二十願の方便の願を挙げられる場合は、「既而有悲願(すでにして悲願います)」とされておられた。

第十九願
既而有悲願。名修諸功徳之願。
すでにして悲願います。修諸功徳の願(第十九願)と名づく。(化巻 P.375)
第二十願
既而有悲願。名植諸徳本之願。
すでにして悲願います。植諸徳本の願(第二十願)と名づく。(化巻 P.400)

真実の願を「出於(より出でたり)」とされた場合は、阿弥陀仏から回向された躍動的な本願力回向の法(随自意)であることをあらわすためだったとされる。それに対して諸行往生(第十九願)や自力念仏(第二十願)の法は、自らが行じていく自力の法門であるから、阿弥陀仏から回向された法ではない。いわば不本意の願(随他意説)であるから、阿弥陀仏から回向された法ではないということを示す為に「既而有悲願(すでにして悲願います)」とされたのであった。なお、第十七願では大悲の願とされ方便の願では悲願とされておられた。

なお、真仏土巻では、第十二・十三願を、

既而有願 即光明・寿命之願是也。
すでにして願います、すなはち光明・寿命の願(第十二・十三願)これなり。(真巻 P.337)

と「既而有願(すでにして願います)」とあるのは、回向法の根拠を示すものといわれる。
『教行証文類』は、「教」→「行」→「信」→「証」→「真仏土」と「往生門(趣入門)」となっているが、和語の聖典といわれる『三帖和讃』では「真仏土」→「教」→「行」→「信」→「証」といふ円環構造になっている。これを「正覚門(摂化門)」といふ。

トーク:より出でたり 往生門正覚門
随自意説
随他意説
随自他意説