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弁述名体鈔

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

弁述名体抄から転送)

べんじゅつ-みょうたいしょう

 弁述名体鈔 1巻。存覚の著。了源の求めによって著されたもの。当時、 礼拝の対象として用いられていた光明本尊について解説する。その中に記されている不可思議光如来南無阿弥陀仏無礙光如来の三名号、弥陀釈迦二尊、勢至龍樹天親の三菩薩、菩提流支曇鸞道綽善導懐感少康法照聖徳太子源信法然親鸞信空聖覚について讃嘆している。古写本に京都府常楽寺蔵応永24年光覚書写本、本願寺派本願寺蔵室町末期書写本などがある。(浄土真宗辞典)*懐感を追記

光明本尊(龍谷大学蔵)

滋賀県浅井町 西通寺蔵  光明本尊


『弁述名体鈔』は「光明本尊」を前にして読みあげられることを目的に作成されたとされる。それで「光明本尊」の図を順を追って説明する構成となっているといふ。
いわゆる『御伝鈔』のように絵とセットで拝読されたといわている。時代は下がるが蓮如上人の頃の『本福寺跡書』に、

その(ころをい)、大谷殿は(いたり)て、参詣の諸人かつておわせず。しかるに (しる)谷佛光寺名帳(みょうちょう)絵系図(えけいず)(ころ)にて、人民雲霞の(ごとく)これに(こぞる)。耳目を驚すの間、法住もまいりてみんとせしに、佛光寺の弟西坊いわく、これはいずかたよりの をかたがたぞと。江州(ごうしゅう)堅田の者にて候。ちと聴聞ののぞみ候とありしかば、さらばとて、『辯述名體鈔』を談ぜらる。別してたふとくこそおもわれけり。(浄土真宗聖典全書 六 p.950)

と、大津・本堅田の法住が佛光寺に参詣し『弁述名体鈔』が談ぜらる(拝読する)のを聞いたとの記録もある。 法住は、それを聞いて「別してたふとくこそおもわれけり」とあり、「光明本尊」を前にしての『弁述名体鈔』の拝読はビジュアルな教化として大衆を引き付けたのであろう。


弁述名体鈔

高祖親鸞聖人御在生のとき、末代の門弟等、安置のためにさだめおかるゝ本尊あまたあり。いはゆる六字の名号、不可思議光如来、无㝵光仏等なり。梵漢ことなれども、皆弥陀一仏の尊号なり[1]。このほか、あるひは天竺晨旦の高祖、あるひは我朝血脈の先徳等、をのをの真影をあらはされたり。これによりて、面々の本尊、一々の真像等を、一鋪[2]のうちに図絵して、これを光明本となづく。けだし、これ当流の学者のなかに、たくみいだされたるところなり。
まづ不可思議光如来といふは、かの如来の智慧の光明、その徳すぐれたうとくして、心をもてもおもひがたく、ことばをもてもはからずといふことばなり。この不可思議光如来をもて、中央にすゑたてまつらるゝことは、弥陀如来の真実報身の徳をほめたてまつる御名なるがゆへなり。これすなはち聖人、弥陀の身土にをいて真仏土・化身土をたてたまふとき、真仏土を釈すとして、「仏はすなはちこれ不可思議光如来、土はまたこれ無量光明土なり」(真仏*土巻)と釈したまへり。このゆへに、真仏の体なるをもて中尊とせらるゝなり。そもそもこの不可思議光如来といへるは、聖人のわたくしにかまへたまへる意巧か、また経釈のなかにその証ありやといふに、更に聖人の今案にあらず。経說よりいで、釈義よりをこれり。まづみなもとをたづぬれば、『大経』の四十八願のなかに、光明无量の願成就したまへるゆへに、諸仏にすぐれて十方にきこゑずといふことなきなり。その光明の功徳の无量なるなかに、要をとりてこれをいふに、十二光の名あり。一には无量光仏、二には无辺光仏、三には无㝵光仏、四には无対光仏、五には炎王光仏、六には清浄光仏、七には歓喜光仏、八には智慧光仏、九には不断光仏、十には難思光仏、十一には无称光仏、十二には超日月光仏なり。このなかに、難思光仏、无称光仏と云るは、すなはちいまの不可思議光如来のこゝろなり。心をもてをもふべからざるところを難思光仏といひ、ことばをもてはかるべからざる義を无称光仏と称するなり。この二の名を取合て不可思議光如来となづけたてまつるなり。こゝをもて、同き『経』(大経*巻上)のなかに、あるひは「无量寿仏の威神光明、最尊第一にして、諸仏の光明のをよばざるところなり」といひ、あるひは「仏ののたまはく、われ无量寿仏の光明、威神巍々殊妙なるをとかんに、昼夜一劫すとも、なをしいまだつくすことあたはじ」といへる、みなこれ不可思議光の心なり。またこの一経の說のみにあらず、『無量寿如来会』に、同じく種々の異名をとくなかに、まさしく不可思議光をあげたり。无量光明土の名も、同じき『経』の說よりいでたり。経說かくのごとし。つぎに解釈のなかには、曇鸞和尚の『讚阿弥陀仏偈』に、まさしく「南無不可思議光、一心帰命稽首礼」と釈したまへる、これなり。聖人これらの経釈によりて、義をたて名をあらはし給へるなり。是則かの阿弥陀如来は、四重五逆の罪人なれども、廻心すればことごとく往生をゑ、五障三従の女人なれども、称念すればかならず済度にあづかる。一毫の煩悩をも断ぜず、一分の智品をも証せざる凡夫、たゞちに界外無漏の報土にいたるといふことは、一代の諸教に談ぜず。たゞ弥陀一仏の超絶の利生なるがゆへに、この利生のきはまりをもて不可思議光如来となづけたてまつるなり。
つぎに南无阿弥陀仏の名号は、まさしき所帰の行体なり。これをもて、もとも中尊に案ぜらるべしといへども、あみだ仏といへるは天竺のことばなるがゆへに、たゞこの六字にむかふときは、その義きこゑず。このゆへに、不可思議光如来を中にすへたてまつりて、まづ利益のとをきこと、心もことばもをよばざる道理をしらせて、其後この名号に向ひたてまつるとき、かの不可称不可說なる体は、南无阿弥陀仏にてましましけりと、しらせんためなり。
つぎに无㝵光如来は、これも弥陀の尊号なり。是則さきにいだすところの十二光仏のなかの无㝵光なり。尽十方无㝵光といふは、十方をつくしてさはりなきひかりといふ。これ天親菩薩の『浄土論』よりいでたり。さはりにつきて内障・外障あり。外障といふは、山・林のかげ、雲・霧のへだて等なり。内障といふは、貪瞋痴の三毒をよび一切の邪業繫等なり。弥陀の光明はこれらの一切の障㝵をはなれて、あまねく十方世界をてらして利益をほどこし給ふがゆへに无㝵光如来と申すなり。その利益といふは、念仏の衆生をおさめとりてすてたまはざるなり。善導和尚の釈に、「唯観念仏衆生摂取不捨」(礼讚)といへる、これなり。しかれば、南无阿弥陀仏といへるも、不可思議光・无㝵光といへるも、みな弥陀一仏の御名なり。そのなかに、まづ不可思議光といへる晨旦のことばのさとりやすきをさきとして心をえさせて後に、この不可思議の体は即南无阿弥陀仏なりとしらせ、この南無阿弥陀仏の徳を、または无㝵光仏ともなづけたてまつることをあらはさんがために、かくのごとく次第してすゑたてまつらるゝなり。名号はまさしき行体なるがゆへにみぎにすゑたてまつられ、无㝵光はその徳をあらはすことばなるがゆへに左りに安ぜらる。聖人の御意は、内典には右を賞すべしとおぼしめすがゆへなり。
つぎに二尊の形像をもてまへに安ぜられたり。まづ弥陀の形像は、『観経』の像観のこゝろなり。かの『経』に十三定善をとくなかに、第八の観は像観なり、これ形像なり。第九の観は真身観なり、これ浄土の如来なり。これすなはち衆生さはりをもくして、はじめより六十万億の身量を観ずることかなうべからざるがゆへに、まづこゝろを形像にとゞめて、次第に転入して浄土の如来を観ぜしめんとなり。これあさきよりふかきをおしへ、仮より真にいる義門なり。かるがゆへにかの說相にまかせて、まづ形像を体として、その阿弥陀仏の真実の体は不可思議光・无㝵光の体なりとさとらしめんがためなり。絵像にかき、木像につくれるは、ちゐさく書ばちゐさきかたち、おほきにつくればおほきなるすがたなり。たゞその分をまもるがゆへに真実にあらず。不可思議光如来とも、無㝵光如来ともいひて、文字にあらはせるときは、すなはち分量をさゝざるゆへに、これ浄土の真実の仏体をあらはせるなり。しかれども、凡夫はまどひふかく、さとりすくなきがゆへに、あさきによらずは、ふかきをしるべからず。方便をはなれては、真実をさとるべからざれば、ふかきもあさきも、みな如来の善巧、真実も方便も、ともに行者の依怙なり。このゆへに、あるひは形像を図し、あるひは文字をあらはして、真仮ともにしめし、梵漢ならべて存ずるなり。いづれも弥陀一仏の体なりとしりて、ふかく帰敬したてまつるべきなり。
つぎに釈迦の形像をのせらるゝことは、一代の本師、二門の教主なるがゆへなり。そのゆへは、弥陀如来大悲のちかひをたれたまふとも、釈尊これをときたまはずは、衆生いかでか信知することをゑん、弥陀を念ぜんひと、ことに釈尊の恩徳を報ずべきなり、しかれば善導和尚の『往生礼讚』のはじめに、まづ本師釈迦如来を礼し、つぎに一切諸仏を礼したまふ。これすなはち釈迦は能說の恩を報じ、諸仏は証誠の徳を謝せんがためなり。さればとて、念仏にならべてこれを称念せんことは、専修のこゝろにあらず。釈尊は弥陀の名号をとなへて西方にむまれよとをしへ、諸仏はこれを信ぜよと舌をのべて同心に証誠したまひたれば、かのをしへにしたがひて、ふたごゝろなく弥陀に帰したてまつるならば、釈迦・諸仏の本意にもかなふべき也。
つぎに三菩薩のなかに、勢至は浄土の菩薩、等覚の位なり。かるがゆへに中尊とす。龍樹・天親は穢土の菩薩なり。それにとりて出世の前後により、地位の高下につきて、左右に居したまへり。まづ勢至菩薩は、弥陀如来の右脇の弟子なり。弥陀の慈悲をつかさどれるを観音となづけ、弥陀の智恵をつかさどるを勢至と号す。かるがゆへに十方世界に念仏三昧のひろまることは、これ勢至のちからなり。このゆへに、『首楞厳経』(巻五)には「念仏のひとを摂して浄土に帰せしむ」ととけり。源空聖人も、すなはち勢至の化身なりとしめし給。かるがゆへにことさらこれをのせたてまつらるゝなり。
つぎに龍樹菩薩は、新訳には龍猛と云、八宗の高祖、千部の論師なり。釈尊の滅後五百余年にあたりて出世したまへり。かの『楞伽経』(魏訳巻九総品意*唐訳巻六偈頌品意)の、釈迦如来かねてときたまへるやうは、「南天竺国のうちに、龍樹菩薩世にいでゝ、有无の邪見を破すべし。大乗无上の法をとき、歓喜地を証して、安楽国に往生せん」と未来記したまへり。「大乗無上の法」といふは、いまの无上大利の功徳なり。「安楽に生ぜん」といふは、すなはち弥陀の浄土にむまれんとなり。これによりて、『十二礼』・『十住毗婆沙論』等をつくりて、専ら弥陀の名号をほめ、易行の一道をすゝめたまへり。しかれば、もとはこれ真宗の高祖、いまはまた浄土の一聖なり。かるがゆへにこれをのせたまへり。
つぎに天親菩薩は、新訳には世親と云。これもおなじく千部の論師なり。滅後九百年にあたりて出世したまふ。『浄土論』をつくり、あきらかに三経の大意をのべたまへり。このゆへに、浄土の正依経論をさだむるとき、経には三部の妙典をとり、論にはこの一論をもちゐる。すでにこれ浄土の大祖なり。行者もともあがめたてまつるべきがゆへに、これをのせたまへり。これについて不審あり。勢至は釈迦の脇士にあらず、龍樹は勢至の附法にあらず、天親また龍樹の弟子にあらず。なんぞかくのごとくつらねらるゝやと、おぼつかなし。これをこゝろうるに、いま図絵せらるゝところは、かならず血脈相承の次第にあらず。さきにのぶるがごとく、勢至は弥陀の智慧門をつかさどり給がゆへに、弥陀如来より念仏三昧を相承したまへる篇をもて、これをのせらるゝなり。龍樹・天親の二菩薩は、これもあながちに師資相承の義にあらずといへども、ともに西天の高祖として、おなじく千部の論主にてまします。各この教をもはらにせらるゝゆへに、いづれもいかでか依憑したてまつらん。ならべてすえたてまつらるゝに相違なし。いはんや、二菩薩ともに滅後の論師として釈尊の化をうけたまへりといへども、龍樹より天親につたふといふこゝろ、ひとすぢに、またなかるべきにもあらず。そのゆへは、この二菩薩をのをの滅後の仏化をたすけて、外道の邪執を破せらる。浄土の一門、解行わたくしなし。後代出世の天親、なんぞ上代出世の龍樹をもちゐたまはざらんや。しかれば曇鸞和尚、天親の『浄土論』によりて註をくはへらるゝとき、まづはじめに龍樹の『十住毗婆沙論』をひきて、難易の二道をあかされたり。是則かの龍樹の判じ給へる二道のなかに、しばらく易行の一道によりて、天親菩薩いまの『浄土論』をつくりたまへることをあらはさんがためなり。しかのみならず、善導和尚の『往生礼讚』にも、日没と初夜とは『大経』の心により、中夜は『十二礼』の文を誦し、後夜は『浄土論』の說をぬきいでられたり。釈尊・龍樹・天親と次第せんこと、これまたその証なるべし。これらの義をもて、かくのごとく図せらるゝかと存ずるところなり。つぎにまた不審あり。勢至は浄土の聖衆なれば、菩薩のかたちに図せらるゝことしかるべし、龍樹・天親はこの土の高僧なり、なんぞ勢至とおなじくまさしく菩薩のかたちならんやと、おぼへたり。これをこゝろうるに、龍樹は初地の菩薩なり、また浄土の一聖につらなれり。天親もまた十廻向の向満の菩薩なれば、すでに証位にとなれり。いづれも内証をいふに、菩薩のかたちならんこと相違あるべからざるゆへに、かくのごとくあらはしのせらるゝなり。
つぎに菩提流支は天竺の高僧、翻経の三蔵なり。ことに浄土をねがひて、もはら『観無量寿経』をたもちたまへり。
つぎに曇鸞和尚はもとは四論宗のひとなり。四論といふは三論に『智論』をくはふるなり。三論といふは、一には『中論』、二には『百論』、三には『十二門論』なり。また陶隠居といふひとにあひて、仙方を学せられき。いのちながくて、よく仏法のそこを習ひきはめんがためなり。しかるに菩提流支にあひて、この土の仙経にまさる仙方やあると尋給ひしとき、かの『観経』をあたへ給ひしによりて、たちまちに十巻の仙方をやきすてゝ、浄土門に入給ひき。それよりこのかた、たちまちに四論の講說をすてゝ、一向に浄土に帰し給ひけり。即天親の『浄土論』を註解したまふ。また『讚阿弥陀仏偈』といへるふみも、この和尚のつくり給へるなり。
つぎに道綽禅師は、本は涅槃宗の学者なり。これは曇鸞和尚面授にあらず、その時代一百余年をへたり。しかれども、鸞師の碑の文をみて、浄土門にいり給ひしがゆへに、かの弟子たり。これもつゐに涅槃の広業をさしをきて、ひとへに西方の行をひろめ給ひき。『安楽集』二巻をつくり給へり。
つぎに善導和尚は、道綽禅師面授の弟子、もはらこれ真宗の宗師なり。あるひは弥陀の化身といひ、あるひは釈尊の再誕といふ。五部九巻の文義をのべて、凡夫往生の直路ををしへたまふ。いはゆる弥陀の浄土を報土とさだめて、而も別願の強縁に託して、未断惑の凡夫往生をとぐる義、善導和尚の料簡よりいでたり。この義、諸仏に証をこふてさだめ給へり。あふいでこれを信ずべし。
つぎに懐感禅師は、法相宗のひとなり。善導和尚にあひたてまつりて、浄土に帰し給ひき。『群疑論』七巻をつくりたまへり。
つぎに少康法師は、もとはこれも法相宗のひとなり、また持経者なり。昔白馬寺の経蔵にいたり給ふに、よるひかりをはなつ経巻あり。これをさぐりとり給ふに、善導和尚の釈なり。また長安城の善導和尚の影堂にまうでたまふに、影像化して仏身となりて、康師のために說法したまひき。それよりふかく浄土をねがひて、ひとへに弥陀に帰したまふ。『瑞応刪伝』をしるし給へり。ひとつたへて和尚の化身なりといへり。このゆへに後善導と号す。これまた和尚の滅後の弟子なり。かつは和尚の徳行をあらはさんがため、かつは諸宗の智徳の浄土に帰することをしめさんがために、これをのせられたり。
つぎに法照禅師は、これも善導和尚の後身なり。かるがゆへに同じく後善導と申す。また廬山の弥陀和尚ともなづけたてまつる。清涼山の大聖竹林寺にまうでゝ、生身の文殊にあひたてまつりて、未来の衆生はいかなる行を修してか生死をはなるべきと、問たてまつり給ひければ、阿弥陀仏を称念すべしとをしへ給ひけり。『五会法事讚』一巻をつくり給へり。これも善導和尚滅後の弟子なり。いまこれをのせらるゝこと、子細さきにおなじ。
つぎにわが朝の先徳のなかに、まづ聖徳太子をつらね給へり。これもひとへに自宗の祖師にあらず、血脈相承の儀にあらずといへども、この日本国に仏法をひろめ給ひし恩徳をしらせんがために、ことさらこれをのせたてまつらるゝなり。なかにつくに、聖人、六角堂の利生によりて、みづからもこの法をたもち、ひとををしへてもあまねくひろめたまふがゆへに、ことに太子をあがめたまへり。
つぎに恵心の先徳は、天台の碩徳、霊山の聴衆なり。而るに浄土の一門をきめて濁世末代をすゝめたまふ。『往生要集』三巻をつくり給へり。かの集にひきもちゐらるゝところ、おほくは善導和尚の釈なり。和尚の宗旨をつたへらるゝとみえたり。
つぎに源空聖人は、もとは天台の学徒、のちには真宗の大祖たり。宗をたて行をもはらにすること、わが朝の化導、これよりことにさかりなり。はじめには慧心の『往生要集』をみたまひて、みづから真門にいり、のちには和尚の『観経義』をひらきて、宗旨をゑたまへり。『選択集』一巻をつくり給へり。かの集にのべらるゝがごとくは、和尚をもて師承をさだめらるとみゑたり。
つぎに親鸞聖人は、源空聖人の面授弟子なり。これももとは天台の学者なり。九歳にして慈鎮和尚の門下につらなりて、顕密の両宗を兼学し、廿九歳にして源空聖人の禅室にいりて、浄土の一門を受学し給ひき。それよりこのかた、ひとへに一向一心の深信をたくはへ、ことに専修専念の一行をひろめたまへり。勧化のあまねきこと、ちかきよりとをきにいたり、化導のひろきこと、たかきよりいやしきをかねたり。『顕浄土真実教行証文類』六巻をあつめたまへり。相伝の要義かの書にあきらかなり。そのゝちの師承、次第に相承して、みなかのをしへをうけ、をのをのその信心をつたへたまへり。このゆへに、うくるところの余流、門葉につたへてたゆることなく、ひろむるところの妙義、当時にいたりてますますさかりなり。このほか信空聖人聖覚法印は、源空聖人の弟子として、親鸞聖人には一室の等侶なり。信空は、もと叡空聖人の弟子にて、真言ならびに大乗律等を行学したまひしが、浄土の信心にいたりては、空聖人のをしへをうけて門徒の上足たりき。聖覚は、天台一流の名匠、論說二道の達者にて、朝家にももちゐられ、ひとにもゆるされたまひしが、これも空師の勧化をうけて、ふかく真門に帰し給ひけるなり。『唯信鈔』といへる仮名の書は、この人のつくり給へるなり。件の二人は同学のなかに、ことに鸞聖人と安心一揆したまひけり。このゆへに、かゝるやんごとなき人々の、かの門葉につらなれることをあらはして、かつは明師聖人の徳をしらしめんがため、かつは安心一味の分をしめされんがために、これをのせたまへるなり。

応永廿四歳 丁酉 四月廿九日、以或本令書写之、先老御草歟、不分明。雖然依為最要写之。是又為後才可全之秘蔵云々。
愚昧沙門光覚(花押)


光明本尊

滋賀県浅井町 西通寺蔵  光明本尊
大阪 光用寺  光明本尊

佛佛光寺の法HPより転載


名号および釈迦・弥陀二尊、諸高僧先達を配し、後ろから光明が輝く、独特の本尊図。(滋賀県浅井町 西通寺蔵)

光明本尊とは畳一枚ほどの大型の絹布の中央に南無不可思議光如来の九字(あるいは八字)の名号を書き、その両側に印度・中国・日本の三国の高僧と聖徳太子の像を描いたもの。 親鸞聖人の没後、南北朝にかけて多く作られ、特に佛光寺派末寺に伝来しているものが一番多い。

写真は滋賀県西通寺蔵のもので、見事な画技による立派な作品であると同時に、裏書があり、文和5年(1356)に法橋良円の手にかかることが知られる。 この種の本尊のうちでは最高の作品と思われる。


『本福寺跡書』

『弁述名体鈔』は「光明本尊」を前にして読みあげられることを目的に作成されたとされる。それで「光明本尊」の図を順を追って説明する構成となっているといふ。
いわゆる『御伝鈔』のように絵とセットで拝読されたといわている。これについては、『本福寺跡書』に、

その(ころをい)、大谷殿は(いたり)て、参詣の諸人かつておわせず。しかるに (しる)谷佛光寺名帳(みょうちょう)絵系図(えけいず)(ころ)にて、人民雲霞の(ごとく)これに(こぞる)。耳目を驚すの間、法住もまいりてみんとせしに、佛光寺の弟西坊いわく、これはいずかたよりの をかたがたぞと。江州(ごうしゅう)堅田の者にて候。ちと聴聞ののぞみ候とありしかば、さらばとて、『辯述名體鈔』を談ぜらる。別してたふとくこそおもわれけり。(浄土真宗聖典全書 六 p.950)

と、大津・本堅田の法住が佛光寺に参詣し『弁述名体鈔』が談ぜらる(拝読する)のを聞いたとの記録もある。 法住は、それを聞いて「別してたふとくこそおもわれけり」とあり、「光明本尊」を前にしての『弁述名体鈔』の拝読はビジュアルな教化として大衆を引き付けたのであろう。


  1. 高森親鸞会では、ここの「皆弥陀一仏の尊号なり」の文を根拠として、絵像・木像を排斥し、独自の本尊論を称えるのだが、断章取義(文章の一節を取り出し、文章全体の本意と関係なく、その一節だけの意味で用いること。 ひいて、自分の都合のよい引用をすること。)も極まれりである。そもそも『弁述名体鈔』は具象化した「光明本尊」の解説だと知らなかったのであろう(笑 
  2. 一鋪。懸幅や巻子は,中国,チベット,朝鮮,日本に流行し,素材として絹,麻,紙が用いられるが,本格的な仏画には絹が用いられ,画絹の反物を縦に並べて縫いついだ一画面を一鋪(ぽ)といい,横に3反,7反つないだものを三幅一鋪,七幅一鋪などと称する。参照:コトバンク