無碍光如来の名を称する
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
御開山は『尊号真像銘文』の「光明寺善導和尚真像銘文」で、御開山の他の著書に無い不思議な表現をされておられた。
- 「称仏六字」といふは、南無阿弥陀仏の六字をとなふるとなり。「即嘆仏」といふは、すなはち南無阿弥陀仏をとなふるは仏をほめたてまつるになるとなり。また「即懺悔」といふは、南無阿弥陀仏をとなふるは、すなはち無始よりこのかたの罪業を懺悔するになると申すなり。「即発願回向」といふは、南無阿弥陀仏をとなふるは、すなはち安楽浄土に往生せんとおもふになるなり、また一切衆生にこの功徳をあたふるになるとなり。
と「六字をとなふるとなり」、「仏をほめたてまつるになるとなり」や「また一切衆生にこの功徳をあたふるになるとなり」と、断定の「なるなり」ではなく、推定の「なるとなり」とされておられた。
その意を梯實圓和上の『教行信証の宗教構造』(p.150)から窺ってみた。
第四章 真実の行
第四節 無碍光如来の名を称する
{中 略}
さて讃嘆とは、仏徳を「ほめたたえる」ということであるが、如実に仏徳を「ほめたたえる」ためには、なによりも第一に如来の徳をよく知りぬいていなければならない。第二には己を空しくしてほめたたえるのでなければならない。私利私欲の心からほめたのでは、ほんとうにほめたことにはならないからである。第三には、仏の尊い徳を、己を虚しくしてたたえるならば、必ず、私もまたあなたのような尊い徳を実現しようという誓い、すなわち自利利他の成就を誓う菩提心が生まれてくる。仏徳を讃仰するものの心には仏の智慧と慈悲の徳が宿り、それがその人を内側から変革していくからである。法蔵菩薩が、世自在王仏の徳をほめたたえられた「讃仏偈」は、このような仏徳讃嘆の典型であった。
こうして仏を「ほめたたえる」ためには、まずほめるべき仏の徳を正確に知って、その徳にかなったほめかたをしなければならないとすれば、それは至難のわざである。悲しいことに煩悩具足の凡夫は、阿弥陀如来の徳も、その浄土の徳も、正確に知る智慧もなければ、それを表現する言葉ももちあわせていないからである。真実を知らないがゆえに生死に迷うているのである。親鸞聖人も『浄土文類聚鈔』の偈(「念仏正信偈」)に「如来の功徳はただ仏のみ知りたまへり」といい、「高僧和讚」に
- 安養浄土の荘厳は 唯仏与仏の知見なり
- 究竟せること虚空にして 広大にして辺際なし(注釈版聖典、五八〇頁)
といって、如来、浄土の徳は、ただ仏と仏とのみの知ろしめす不可思議の境界であるとされている。
また「親鸞聖人御消息」には、
- 如来の誓願は不可思議にましますゆゑに、仏と仏との御はからひなり、凡夫のはからひにあらず。補処の弥勒菩薩をはじめとして、仏智の不思議をはからふべき人は候はず。(注釈版型典、七七九頁)
といい、凡夫はもちろん、たとえ弥勒菩薩のような大菩薩であっても、如来の境界をうかがい知ることはできないといわれている。そうなれば私どもには、如来浄土の徳をほめたたえることもできなければ、ほめる資格さえないといわねばならない。仏徳を如実に讃嘆することができるのは、ただ仏陀のみであった。
それゆえ阿弥陀如来も、凡夫や菩薩にその名号の徳を讃嘆させようとはされていない。第十七願には、十方の諸仏に、南無阿弥陀仏にこめた広大無辺な徳を讃嘆させ、それを十方の衆生に聞かしめることによって、人々の疑心を破り、信心を与えていこうと誓願されているのであった。
- たとひわれ仏を得たらんに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟して、わが名を称せずは、正覚を取らじ。(註釈版聖典、一八頁)
と誓われたものがそれである。娑婆世界に出現された釈尊は、この誓願力にうながされて、「大経」を説き、名号のいわれを私どもに知らせていかれたのであって、それを真実教ということはすでに述べたとおりである。また十方世界にまします無量の諸仏も、第十七願に応じて阿弥陀仏の徳を讃嘆されているのであって、「阿弥陀経」の六方段の経説はその現れであった。この第十七願を、親鸞聖人は、「諸仏咨嗟の願」とか、「諸仏称揚の願」とか「諸仏称名の願」と名づけられるが、そのことについては後にくわしくのべることにしよう。
ところが天親菩薩は、如実に仏徳を讃嘆する行として、阿弥陀仏のみ名を称えることを私どもに勧められているのである。それは仏徳を讃嘆する能力も資格もない凡夫であっても、本願を信じて帰命尽十方無碍光如来(南無阿弥陀仏)と称えるならば、仏徳にかなって如実に讃嘆していることになるということを知らそうとされていたのである。
それは阿弥陀仏の広大無辺の徳も、ただ一句の南無阿弥陀仏、帰命尽十方無碍光如来という名号におさまっているから、そのみ名を称えれば如来の徳のすべてを如実に讃嘆したことになると教えられているのである。親鸞聖人は、そのこころを『尊号真像銘文』に「称仏六字即嘆仏」を釈して、「南無阿弥陀仏をとなふるは、仏をほめたてまつるになるとなり」といわれている。「ほめたてまつるになる」といわれたのは、称えているものは名号にこめられている徳を知らなくても、仏徳を讃嘆していることになるというのであって、凡夫のはからいによって讃嘆するのではないといわれているのである。
私がなにげなく称えている名号も、その徳相を開けば釈尊が説かれている『大無量寿経』の説法となるのである。釈尊の無碍の弁説をもって、百千万劫讃嘆しても、讃嘆しつくせないといわれた阿弥陀仏の徳が、南無阿弥陀仏という一句におさまって、私の口にあらわれているのが称名であるとすれば、念仏は、仏しか行ずることのできない行を行じていることになる。先哲が「如実讃嘆の称名は、諸仏の讃嘆と徳を同じくする」といわれたのはそのゆえである。それにしても凡夫の念仏が、釈尊や諸仏がお経をお説きになっているのと同じ価値をもっているといえるのは、それがいずれも如来の本願力によってあらしめられていることがらであるからである。そこに本願力回向の行といわれることがらの重さがあるのである。
親鸞聖人は、この「行文類」のはじめに「諸仏称名の願」と先ず第十七願を標挙し、その下に「浄土真実之行、選択本願之行」と二行の細鮭を施されている。これによって如来よりたまわった選択本願の行は、第十七願に誓われている諸仏の讃嘆と徳を同じくするような偉大な行であることをあらわされていた。それは凡夫の口にあらわれているが、決して凡夫の行ではなくて、かえって私をよびさまして、本願の真実に目ざめさせる阿弥陀仏の招喚のはたらきそのもの、すなわち如来行であり、それゆえ真実の行であると知らされたものである。第十七願力は、十方諸仏の上にあらわれては真実教の説法となり、十方衆生の上にあらわれては称名という真実行となっているとみられたのが親鸞聖人であった。