顕正流義鈔
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
けんしょう-りゅうぎしょう
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真慧(しんね )上人(1434-1512)は、本願寺の蓮如上人(1415-1499)と同時代の高田専修寺の第十代目で、寛正5年(1464)専修寺を継ぐ、元々同門のよしみで昵懇だったと言われる。蓮如上人との間で「其の時、御両家御定により、高田の門徒を本願寺へ不可取(取るべからず)、又本願寺の門徒高田へも不可取、互いに御約束あり。」(『浄土真宗聖典全書』六 「高田上人代々聞書」p.1222)と約束したといわれる。しかし三河の大坊(大寺)が本願寺に転派してから不仲になったといふ。また、タノム・タスケタマヘと信を強調する蓮如上人の教えに対して、口称の、なんまんだぶを強調された。なお、専修寺という寺号は、元々覚如上人が御開山の廟堂を寺院化するために、「専」ら弥陀の名号を「修」するという意図で寺額まで作ったのだが、叡山(青蓮院)から、専修は昔から停廃されている一向専修だというので本願寺に変えたという逸話も残されているようである。この時作った寺額を関東の安積(あさか)門徒の法智が持ち帰ったのが専修寺という寺号の興りだといわれている(常楽台主老衲一期記#廿三歳)。
覚如上人は聡明ではあったから形而上の信を強調されたのだが、関東の同行の、土地を耕し土地によって命をつなぎ土地に感謝するという、農耕民のひたすら なんまんだぶを称える実践の心情を理解しえなかったのかもしれない。
顕正流義鈔
顕正流義鈔巻 本
それ一向専修の行者は、ひとへに万行諸善をさしおき、疑心自力のこゝろをすてて、一すぢに本願をたのみ、もはら名号をとなふべきなり。
そのゆへは、弥陀の弘誓は四十八なれども、第十八の願を本とす。釈尊また、「一向専念無量寿仏」{大経巻下}[1]ととき、諸仏はしたをのべて専持名号の説を証誠[2]したまふ。そのほか、天竺の菩薩・唐土の祖師・和朝の人師、こゝろをつくし、ことばをあらはして勧進す。
仏はおゝくましますといへども、弥陀はいまのときのわれら衆生に縁ふかし。法はよろづにわかれたれども、名号は末法五濁の根機に相応す。妙楽大師(十疑論)は「弥陀与此世界、極悪衆生、偏有因縁」[3]と釈し、弘法大師は「人命無常、猶如蜉蝣、悠悠寂室、念阿弥陀仏」[4]とのたまへり。すでに顕密の先徳、自宗をさしおきてこれをほむ。たとひ他宗・他門のひとなりとも、聖教をあきらめ、学文にこゝろあらんは、いかでかこの法をそしらんや。
おほよそ真宗の法体は、あさきににたりといへども、あさからず。そのゆへは、槃特がごときの愚鈍のものも行ずるにかたからず、提婆がごときの悪逆のともがらも、信ずればたすかる。これまさに仏の本願のちからつよく、摂取の慈悲のふかきがいたすところなり。
ひとこゑえも、まことをいたし、名をとなふれは、西方安養の教主は、天眼遠見力をもてみそなはし、天耳遥聞力をもてききたまひて、いかなるしづがいほり[5]・あまのとまや[6]なりとも、
まことに神変不思議の境界、未曽有の勝利なり。このとき、南無称名の機の往生さだまるなり。これを摂取来迎とも、報身来迎とも、平生業成[8]とも、平生往生ともまふすなり、
しかれば、仏はきたりたまふといへども、不来にとどまらず、本所・本座をうごきたまはざるがゆへに、きたらずといへども不来にととまらず、娑婆の機をきたりて護念したまふがゆへに、いまどきの行者、来不来のあらそひをなすことなかれ。たゞ仏の自在神力の不思議なり。もろもろの有智のもののよくしることなり。『論の註』{巻上意} といふ文には、「身うごきたまはずして、動揺無窮の徳[9]、極楽の仏菩薩はまします」と、曇鸞和尚はあらはしたまへり。
そもそも、別意の弘願は教門にても判じがたく、他力の妙益は等覚の薩埵もしらざるところなり。ひとへに一心一行、専修恵念せんにはしかじ。かたじけなくも光明大師[10]は、まのあたり弥陀にあひたてまつりて、「一心専念名号」{散善義} と伝受し、源空聖人また大師にあひたてまつり、「専念弥陀」の法義をうく。
親鸞上人、宗家・元祖の両意を一器に受得し、関東におひて化導をあまねくしたまひしよりこのかた、西境におよび南北・村里に遍満す。まことに弥陀・釈迦・諸仏の御本懐、善導・法然・親鸞三師の御素意符合して、正・像・未の三時の機根をかゞみ、相応の法をあたへたまふがゆへなり。およそ人界の生ゑがたし、仏法またまふあひがたし。菩薩は爪上のつち(土)[11]をたとへとし、如来は優曇花のごとしととく。しかるに、われらいま、うまれがたき人界の生を感じ、あひがたき仏教にまふあひたてまつること、まこと闇夜にともしび(灯)をえ(得)、わたり(渡)に船をうるがごとし。むしろ一眼のかめ(亀)の浮木[12]につき、愁鴈(雁)の天にのぼるにあらずや[13]。なかづく(就中)に、難行自力の教門にも うまれあはずして、性徳天然と易行他力の妙縁によること、これしかしながら弥陀仏の法の法爾自然の道理、よろこぶべし よろこぶべし、たのむべし たのむべし。たゞ仏に帰命し、阿弥陀ととなえんにはしかじ。かたのごとく専念専修のすがたにて雑行雑修のこゝろもなく、異学・異見のひとにもいゝさまたげられざるを、決定心とも、金剛心とも、大信心とも、願作仏心とも、浄土の大菩提心とも、利他深広の信とも、他力の信心ともいふなり。さらに名号ありがたきと信じ となふるよりほかに、当流にはことなる義なし。
ほのかにきく、法蔵因位の修行をも、弥陀果位の利生をも、きかずしらずといふとも、称念まことならば、往生決定なるべし。
かるがゆへに法然上人は、「観念の念にもあらず。学文をして念のこゝろをさとりきわめて まふす念仏にもあらず。ただ在家無智のあま(尼)入道の身にひとしくなして、こゝろに本願をたのみ、くちに南無阿弥陀仏ととなふるほかに さらにに余の子細なし。このほかに おくふかきことを存ぜば、二尊のおん(御)あわれみにはづれ、ながく無間地獄におつべし」{一枚起請文意} と御誓言あり。
また親鸞上人も、「誓願を不思議と信じ、名号を不思議と信ずるほかに別の義なし。さればこの宗のこゝろは、やうなきをやうとし[14]、義なきを義とす」{古写消息一意} と、おほせらるゝなり[15] 御自筆于今在之[16]。
しかるにこのごろ、口には当門流と号して、ことば(言)には もはら大師・両聖人の御相承をちがへ、念仏申してたすからんとおもふは、自力なりといい、あるいは十九の願の心なりといゝ、あるひは諸行往生の義なりといゝ、あるいは弥陀・皇太子の絵像・木像をすて、あるひは代々相承の師をそしらせ、在家のあま入道の後生を損破するものこれあり。あに非道計道・非因計因外道非道計道・非因計因外道、附仏法の大外道にあらずや。[17]
まさにその罪業、阿鼻の苦果 のがるべからず。[18]
つらつら謗法外道のすがたをたづぬるに、たすかる法おばたすからぬとしめして人のこころをさまたげ、たすからぬ法をば たすかるとおしへてひとのこころをまよはす、これまさに謗法のともがら(輩)なり、外道のたぐひ(類)なり。経には「なれむつぶべからず、[19]必定応堕地獄の機」ととく。かくのごとく、あくまゝ不浄説法して、みづからもまどひ、人をもまよはして、自他おなじく堕獄せんこと、あはれなることなり。はやく偏見の邪執をひるがへして、仏祖のごとく、本願他力の念仏をもて自行化他の要術とせよ。流祖聖人の和したまふ『讃』にいわく、
- 菩提を得ましき人はみな、
- 専修念仏にあたをなす、
- 頓教毀滅のしるしには、
- 生死の大海きわもなし。
- 念仏誹謗の有情は、
- 阿鼻地獄に堕在して、
- 八万劫中大苦悩、
- ひまなくうくとそ説たまふ。
- 衆生有礙のさとりにて、
- 無礙の仏智をうたかへは、
- 曽婆羅頻陀羅地獄にて、
- 多劫衆苦にしつむなり
鸞聖人のおんながれをくまん今の時の道俗ら、念仏の法体をい(ゆ)るかせに存ずることなかれ。 ここに予(よ)、当宗の元由に順じ、当流の奥旨にまかせて、みづからもつとめ、他おもすゝすめて、称名をこととす。
▽
しかるあひだ、いま
こたふ。このたづね、はなはだ非なり。こゝろに仏の本願をたのまず、身口に名号を礼称せずしてたすからんとおもふこそ、まことに自力なれ。
すでに如来にまことをいたし、わがなをとなえんものをたすけんとおんちかひ(御誓)ましますあひだ、われら、かの仏のおんちかひ(御誓)をたのみて たすからんとおもはん、これ至極の他力なり、なんぞ自力となるべきや、
しらずや、弥陀覚王、法蔵比丘のむかし、平等の慈悲にもよをされて、兆載永劫の修行をめされ、五劫思惟の御苦労をなして、一切のわれら衆生根機にかはり、願行を円満し、わがなを本願とたて、もしは智慧のもの、もしは無智のもの、もしは持戒のもの、もしは破戒のもの、機の善悪をきらはず、こゝろの妄 不妄をいはず、もしはひとこへ、もしはとこへ、もしはかたち(形)のつくるまて、いづれをももらさじ、たすけんとちかひ(誓)たまふと、いまの『経』にねんごろに釈尊のときたまふをば、たゞこの誓約にまかせ、尊号をとなふればこそ、易行とはいへ、ひとへに仏の願力をたのめばこそ、他力にすがるとはもふせ。
しかるに、わがくちにいゝ、こころにもおもふあいだ、自力なりといはゞ、いかなる他力の行が、くちにもとなへず、こころにもおもはずして仏になるや。聖浄二門、自他二力の差別はありとも、一代教の中に、無信・無行の得道ありといふ説あるべからず。いかなる経論釈によりて、この義をたづぬや。こふ(請)、その証文をいだせ。ききてその決判におよばん。
もし文もなく証もなくは、魔説なるべし。聖教に有目のともがら、たれかこれを信ぜんや。「外道のいへにこそ、無信・無行の勧化をもはら(専)にすと、大師は「玄義分」と云文に釈したまへ、[20]
もとより当流のこころは、往生をば仏にまかせ、行者の所作には称名せよとすゝむれば、わがこゝろのよきにつけても南無阿弥陀仏、あしきにつけても南無阿弥陀仏とたのむまでなり。これわがこゝろにたのみ、くちにとなふるにはにたりといへども、弥陀如来のほどこしあたへたまふ行、おこさしめたまふところの心なり。かるがゆへに他力の行・他力の心といふなり。
鸞聖人は、「これ行者のわがおこし行ずるに にたりといへども、往相回向の大行・往相回向の大信、まさしく他力なり」と『教行証』[21]に判じたまへり。わたくしのはからひをもて、くちにいい、こころににおもふあひだ、自力なりといふこと、無下にあさましきことなり。正教の道理をもしらず、祖師のおんこゝろをもうかがわずして、愚痴・無知のともがら、邪推をもちて正法を批判することなかれ。
▽
またかの邪義聴聞のひと、とふていはく、念仏をまふしてたすからんとおもふは、十九の願のこころなり、諸行往生の義なりと、いかん。
こたふ、このたづね、はなはだ非なり。『大無量寿経』に弥陀如来の四十八願を一一にあかすとして、第十八には念仏を生因と願じ、第十九には諸行の機をたすけんとちかひ、第廿には結縁のたぐひをついにすくわんと誓願す。まことにあわれなるかな、願体分明なるをだにしらずして、十八はまさに念仏往生の願・往相回向の願なるを、諸行往生といゝ、十九の願といふてひとをまどはす。あに文書に「非人は自の非をしらず」といふ、けだしこのたぐゐいなり。
第十八の願にいはく、「設我得仏、十方衆生、至心信楽、欲生我国、乃至十念、若不生者、不取正覚、唯除五逆誹謗正法」[22] といへり、おなじき成就の文にいはく、「諸有衆生聞其名号、信心歓喜、乃至一念、至心回向 願生彼国 即得往生 住不退転」[23]といへり、
宗家大師、この本願の文を釈して、「若我成仏、十方衆生、称我名号下至十声、若不生者不取正覚、彼仏今現在成仏。当知、本誓重願不虚、衆生称念必得往生」とのたまへり、[24]
または「如『無量寿経』四十八願中、唯明専念弥陀名号得生」といへり、[25]
顯正流義鈔卷 末
元祖聖人は「弥陀如来、余行をもちて往生の本願としたまはず、たゞ念仏をもちて往生の本願とす」と釈し[26]、「南無阿弥陀仏、往生の業には、念仏を本とす」といへり。[27]
流義の祖師は「この心はすなわちこれ念仏往生の願よりいでたり。この大願を選択本願となづく」[28]
とのたまへり、
又『讃』には、
- 念仏成仏これ真宗、
- 万善諸行これ仮門、
- 権実真仮をわかずして、
- 自然の浄土をえそしらぬ
とも和したまへり。
すでに願文、おなじく成就の文には、「乃至十念」(願文) とちかひ、また「乃至一念」(成就文) とあらはす。大師は「称我名号」[29]と釈し、元祖は「念仏本願」[30]とあかし、祖師は「称名正定業」[31]と判ず。経釈分明なり。あへて念仏申してたすからんとおもふは、十九の願のこゝろ、諸行往生の義なりといふことなかれ。
信行不離・機法一体は、この宗の己証、みなもとこの願のこゝろなり。信といふは、本願の名号をきゝてうたがわぬをいふ。行といふは、うたがはぬこゝろにて名号をとなふるをいふなり。されば鸞上人は「行をはなれたる信もなく、信をはなれたる行もなし」とのたまへり[32]{御自筆于今在之} ふかく名号を至心信楽するをこそ、正定聚の機とも、平生摂取往生の機とも、第十八願の機とも、即往生とも、難思議往生とも、大経往生ともいふなり。
第十九願にいはく、
「たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、菩提心をおこし、もろもろの功徳を修し、心をいたし発願してわがくににうまれんとおもわん。いのちおわらんときにのぞんで、たとひ大衆と囲繞してその人のまへに現ぜずんば、正覚を取らじ」{大経巻上} といへり。
当流の上人、「この願成就の文といふは、すなわち三輩の文これなり、又『観経』の定散九品の文これなり」とのたまへり。
願文あきらかに「修諸功徳」とちかひ、祖師まさに三輩の諸善・九品の諸行をさして、「この願の成就」と釈す。機をいへば邪定聚の人、臨終来迎を期す諸行往生の機、至心発願欲生の機なり。
又便往生とも、双樹林下往生とも、『観経』往生とも、十九の願の機ともいふなり。なんぞ念仏にてたすからんとたしなむを、この願のこころなりといふや。
第二十の願にいわく、
「たとひわれ仏をえたらんに、十方の衆生、わが名号をきゝ、念をわがくににかけ、もろもろの徳本をうへ、こころをいたし回向してわがくにうまれんとをもはん。果遂せずんば、正覚を取らじ」{大経巻上} といへり。
この願のこころは、信じ行ずることあたはずといへども、なにとなくみゝに名号をふれ、また極楽といへばふかくねがふことはなけれども、一端まいらばやと念をかけ、一端のぞみをなし、すゑをもとほさぬものあり。あるひは名聞に信ずるかおゝし、あるひは利養に行ずるふりをするものこれあり。結縁のたぐひなり、まことに不定聚の機、至心回向欲生の機、二十の願の機なり、
又往生をいへば、難思往生なり、弥陀経往生なり。かくのごとく正定の行を不定におもひなして、順次の往生をせざるなり。
しかりといへども、その結縁すてがたくおぼしめされて、三生にかならずたすけんと願をおこし、「不果遂者」とちかひたまへり。
かみにいふがごとく、
十八は念仏往生、十九は諸行往生、二十は結縁往生なり。この三願の意趣、かくのごとし。往生のすがた、三願にわたりたれども、その差別 天と地となり。そのゆへは、第十八は称名信心の行者、摂機・生因のふたつの力にて、本願真実の報土に往生す。これ他力の正意なり、
第十九は修諸功徳の行者なり。これ生因本願の機にあらざるがゆへに、摂機のちからばかりにて、方便化土に往生す。これ他力の傍益なり、
第二十は定散自力の行者。係念遠離のすがたなり。しかるに十九・二十の願の機も、第十八願の機にならでは、真実報土にはいたらぬなり。 まことにまことに、実報華王の宝国は、みなもと名号所成の報土なるがゆへに、生ずるたねも称名なり。つらつらこの理を案ずるに、阿弥陀の三字は、希有最勝の華文、無上甚深の法体なり、言語もたへ、心行もおよばず。果分のうへの果分、不可思議のうへの不可思議なり。ただし、この三願を三経に配当し、三往生にあて、三定聚に配当することは、この流の義なり、[33]よくよく後学明めよ。
▽
またかの邪義聴聞のひと、 とふていはく、絵像・木像は方便なり。[34] これをたのみて益なし。代代相承の念仏をたゞすことなかれ。たゞわがいふところの念仏にてたすからんとおもふは自力なり、また諸行往生の義なり、また十九の願なり。かくこゝろふるを、善知識といふ。この義をたつるを直説聖人といふ、このこといかん。
こたふ。
このたづね、はなはだ非なり。まづ絵像・木像をすつることは、五逆と罪人なり。つぎに念仏相承の血脈をすてさせ、経論釈義をそむきて、新義をいふて正義と号する、これまさに謗法の人なり。
つたへきく、むかしわが朝にもりや(守屋)の大臣こそ、仏像・経巻をやきすて、皇太子に敵をなす。
なかごろ日蓮法師こそ、念仏を無間業とたて、また方便の教といふ。いま新義をたてゝ、ひとを仏法と号してをすゝむるやから、もはら絵木の仏像をすて、皇太子の尊形をのけ、念仏方便といふ。あにかの同類にあらずや。あはれなるかなや、紅蓮・大紅蓮は、かれらがながき すみか(棲家)となるへし。焦熱・大焦熱は、かの党類所居たるべし。おそるべしおそるべし、したしむべからず、したしむべからず[35]。
そもそも絵木の仏像といふは、かたじけなくも住持三宝の中の仏宝なれば、三国伝来の大師・先徳、いづれかこれをあがめざりしぞ。法然・親鸞は、弥陀の絵像・木像をば、浄土の報仏の如来とあがめたてまつれとのたまへり。
『選択集』に恭敬修をあかすとして、「有縁の像教をうやまえ」と釈す。このこころなり。なんぞ口には他力の行者といふて弥陀の本尊をのけ、かたちおば仏法者となして、弘通の恩をしらずして皇太子の形像をすつるや。「仏法の大恩を報ぜんがために かたはらに皇太子を崇敬す」{御伝鈔巻上意} と鸞聖人のおほせられしによりて、かの法流をくむもの、多分太子を祖師として本尊にあがめ、あるひはかたはらにたつ。これ相承におひて依用相承・血脈相承のふたつあり。その依用相承の義なり。いづ
れの宗か仏法の弘通をしらんひと、絵木の仏像をすて、皇太子をそしりたてまつるべき。そのうへ親鸞上人、当流弘通のはじめは、坂東ひたちのくにかさま、いなだといふところなり[36]。彼寺の本尊聖徳太子にましますなり。これいまにあり。流義の上人、すでに皇太子を本尊として仏法をひろめはじめたまふなり。そのわが祖師の御在世のやうをだにしらぬみにて、当流の是非を沙汰し、おゝくのひとをまどはす(惑)すこと、あに天魔の障礙・波旬の所行にあらずや。ふしておもんみれば、泥木・素像といふは、凡夫の肉眼をもちてよく感見まうし、無上の勝利をう。黄巻・朱軸[37]は、われら衆生の情度に応じて益をあたふ。剃髪染衣は、仏法増進のすがたなれば、見信のもの、功徳を獲得せずといふことなし。あへているかせにおもふことなかれ。つぎに念仏の血脈をすてさすること、これまさにあさましきことなり。西天の仏法、いま東域に将来して八宗・九宗・十宗にわかれたりといへども、いづれの宗にか代々の師をすて、血脈いるまじきとたつるや、
そのうへ当宗のこころは、弥陀の本願・釈尊の附属、阿難・舎利弗うけたまひしよりこのかた、伝持のむねをいまに またくするところなり。ここをもつて
『選択集』には、第一の章に宗の教相をあかし、血脈をあらはすなり。『教行証』には、「行の巻」に血脈をあげて、「六のまき」に流通分に、わが空聖人よりの御相承をくわしくしたまへり。かの文にいわく、
- 「しかるに愚禿釈鸞、建仁かのとのとりのとし、雑行をすてゝ本願に帰し、元久きのとのうしのとし、恩恕をかふりて『選択』を書しき。おなじきとし、初夏中旬第四日に、選択本願念仏集の内題の字、ならびに南無阿弥陀、仏往生之業、念仏為本と釈綽空の字と、空の真筆をもちて、これをかゝしめたまふ。おなじき日、空の真影をまふしあづかりて、図画したてまつる。おなじき二年うるふ七月下旬第九日、真影の銘、真筆をもちて、南無阿弥陀仏と若我成仏 十方衆生 称我名号 下至十声 若不生者 不取正覚 彼仏今現在成仏 当知本誓重願不虚 衆生称念必得往生の真文をかかしめ、またゆめのつげによりて、綽空の字をあらためて、おなじき日、おんふでをもちて名の字をかゝしめおわりぬ。本師聖人今年七旬三のおんとしなり。『選択本願念仏集』といふは、禅定博陸{月輪殿兼実法名円昭} の教命によりてえらびあつむるところなり。真宗の簡要、念仏の奥義、これに摂在せり。みるものさとりやすし。まことにこれ希有最勝の華文、無上甚深の宝典なり。としをわたりひをわたりて、その教誨をかぶる人千万なりといへども、したしといゝ うときといゝ、この見写をうるともがら、はなはだもてかたし。しかるにすでに製作を書写し、真影を図画したてまつる。これ専念正業の徳なり。これ決定往生のしるし(徴)なり。よりて悲喜のなみだをおさへて由来の縁をしるす」
といへり、[38]
この御伝持のむねにまかせて、親鸞上人八十三のおんとし、定禅法橋に夢想のつげによりて うつさしめたまひしわが影に、自筆をもちて銘文をあそばし[39]、おなじく撰集したまふところの『教行証』一部六巻また真筆に書し、建長七年乙卯冬のころ、高田開山 真仏上人・顕智上人に、ならべてあたへたまふ。これまことに附法相承の義 顕然なり。鸞上人の直弟おほしといへども、親といゝ疎といゝ、御真影をたまはり、自筆に銘文をかゝしめ、真筆の製作を伝授あること、これなし。嫡弟といゝ、附法といゝ、相承血脈の義、たれかあらそはんや。御自筆の『教行証』、おなじく御自筆の銘文の御影、いまに伝持す。ゆめゆめ絵木の仏像をすて、血脈いるべからずとたつる義を本にすることなかれ、
これまさしく祖師上人ののおん をきて をしらずして偏執我慢の心につのり、利養のさけにゑひて名聞にくるふものゝ、くちにまかせていふことなり。
いまあぐるところの三ケ条のたづねは、なかなか返答にをよばず、筆点にしるす(記) にあたはずといへども、世間に流布して在家無智のあま(尼)入道をともなひ、いゝざたするなれば、かれらがあやまり(謬)のほどおもしらせ、また往生の信心をも治定せしめんため、かつは破邪顕正は仏の本意、捨謬 開悟 は法の大途なれば、かみ(紙)をとり、ふで(毫)をそめ(染)て、祖師相承の義趣に順じ、年来披見の聖教にまかせて、かたのごとく草案註記す。
自今已後も一宗一流の行者、弥陀・釈迦・善導・源空・親鸞の御本意のごとく、一心一向にもつぱら名号を称念し、さらに余行をまじへざれとすゝめんひとを、まこと(真)の善知識とたのむべし。よくよくこころをゑよ、祖師親鸞上人のおんながれ(御流)を う(承)けんもの、この疏のうへに不審あらば、我慢偏執の心をやめ、穏便無事のすがたにて、族宿の草庵にきたりてたづねよ。しからば鸞上人の御在世のおきてにまかせ、真仏・顕智の御相伝のむねをもちて、経論釈を証として決判におよばん。なをなをこの三箇条の難勢、いづれもまことしからずといへども、風聞にまかせてこれをしるす。
そのほか善導大師・法然上人の疏釈、当流にはいるべからずといゝ、また念仏にて亡者とぶらうは自力なりといゝ、辺地より地獄におつる(堕)といふ。かくのごとくの新義きこゆ、もつてのほかの存外なり。
なかなかふで(筆)にしるすにあらず、まことにあさましきことなり。これ管見推量の邪智の義なり、あひかまへて信用すべからず。
以下の注は、林遊の管見であり諸兄の叱正を仰ぐ。
- ↑ 『無量寿経』三輩段のそれぞれに、一向専念無量寿仏とある、
- ↑ 『阿弥陀経』の六法段。
- ↑ 弥陀とこの世界の極悪衆生はひとえに因縁あり。
- ↑ 人命無常、猶如蜉蝣、悠悠寂室、念阿弥陀仏。人の命、無常にしてなお蜉蝣のごとし、悠悠と寂室に阿弥陀仏を念ず。
- ↑ しづがいほり、賤(しず)が庵。身分の低い人の小屋。
- ↑ あまのとまや、海人の苫屋、屋根を苫(とま)でふいた粗末な漁師の小屋。苫とは菅 や 茅や などを粗く編んだむしろ。
- ↑ 一坐無移不動(いちざ-むいふどう)。 『法事讃』に「一坐無移亦不動」(一たび坐して移ることなくまた不動なり)とある。
- ↑ 左訓に、信心定時ノ念仏往生ノタネ、とある。
- ↑ 動揺無窮の徳(どうよう-むぐうのとく)、『論註』に「一には一仏土において身動揺せずして十方に遍して、種々に応化して如実に修行し、つねに仏事をなす」とある。
- ↑ 光明大師。善導大師は光明山に住していたので光明大師ともいふ。
- ↑ 『涅槃経』迦葉菩薩品に、釈尊が爪の上に土をとり、迦葉にこの爪の上の土と十方世界の土と何れが多いかと問い、真に涅槃に入る者は爪上の土のごとしとある。
- ↑ 一眼の亀の浮木。盲亀浮木の喩え。 →盲ひたる亀の
- ↑ 『古今和歌集』に「秋風に 声を帆にあげて くる舟は 天の門渡る 雁(かり)にぞありける」とある。秋風を帆に受けてやってくる舟は、空を声を上げて渡る雁であるという意。
- ↑ 様なきを様とし。
- ↑ 御消息(23)に「ただ誓願を不思議と信じ、また名号を不思議と一念信じとなへつるうへは、なんでふわがはからひをいたすべき、ききわけ、しりわくるなどわづらはしくは仰せられ候ふやらん」とある。
- ↑ 御自筆于今在之。ご自筆いまにこれ有り。
- ↑ 非道計道・非因計因外道 (道に非ずして道を計り、因に非ずして因を計る、外道なり)、正しい因果の道理を認めないこと。
- ↑ 逃がるべからず。
- ↑ 御消息(2)に「師をそしり、善知識をかろしめ、同行をもあなづりなんどしあはせたまふよしきき候ふこそ、あさましく候へ、すでに謗法のひとなり、五逆のひとなり、なれむつぶべからず」とある。
- ↑ 『玄義分』に「しかるに外道のなかにはすべて称仏の人なし、 ただ仏を称すること一口すれば、すなはち仏道のなかにありて摂す、 ゆゑに「已竟」といふと」とあるを指すか。
- ↑ 御開山が『顕浄土真実教行証文類 』とされたのに従い『教行証』としている、教行信証という呼称は覚如上人からか。
- ↑ たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ。ただ五逆と誹謗正法とをば除く。
- ↑ あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと乃至一念せん。至心に回向したまへり。かの国に生れんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん。
- ↑ もしわれ成仏せんに、十方の衆生、わが名号を称せん、下十声に至るまで、もし生れずは正覚を取らじ〉と。かの仏いま現にましまして成仏したまへり。まさに知るべし、本誓重願虚しからず、衆生称念すればかならず往生を得。『往生礼讃』の文、御開山は『後序』でこの文を法然聖人に書して頂いたことを感慨をもって記しておられる。
- ↑ 『観経疏』「定善義」真身観の文に「如無量寿経四十八願中 唯明専念弥陀名号得生、(『無量寿経』の四十八願のなかのごときは、ただもつぱら弥陀の名号を念じて生ずることを得と明かす )」とある。
- ↑ 『選択本願念仏集』に「弥陀如来、余行をもつて往生の本願となさず、ただ念仏をもつて往生の本願となしたまへる文」とある、
- ↑ 『選択本願念仏集』劈頭の文、「南無阿弥陀仏 往生の業には、念仏を先となす」、御開山の伝授本では先は本になっていた。
- ↑ 「信巻」大信釈に「この心すなはちこれ念仏往生の願(第十八願)より出でたり。この大願を選択本願と名づく」とある。
- ↑ 前掲の『『往生礼讃』の文』
- ↑ 法然聖人の教えの中核である『選択本願念仏集』の語から念仏本願とされる。
- ↑ 「正信念仏偈」の、「本願名号正定業」の文。
- ↑ 「御消息」(7)に、「行をはなれたる信はなしとききて候ふ、また、信はなれたる行なしとおぼしめすべし」とある。
- ↑ 六三法門を参照。
- ↑ 蓮如上人は盛んに名号を門徒に下付されて『御一代記聞書』(69)にも「他流には、名号よりは絵像、絵像よりは木像といふなり、当流には、木像よりは絵像、絵像よりは名号といふなり」とある意を曲解しての詰難であろうと思われる。
- ↑ 可恐可恐、不可親不可親。
- ↑ 坂東常陸の國笠間稻田と云處なり。
- ↑ 黄巻朱軸(おうがん-しゅじく)。仏教の経巻。昔シナで、虫食いを防ぐため黄蘗(おうばく)の葉で染めた黄色の紙に書写し、朱(赤)色の軸を使ったのでいう。
- ↑ 『教行証文類』後序の文。
- ↑ 『存覚上人袖日記』などによれば「安城の御影(あんじょうのごえい)」であろう。