「等正覚」の版間の差分
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− | ::②「まことのほとけになるべき身となれるなり」([[一多# | + | ::②「まことのほとけになるべき身となれるなり」([[一多#no3|一多 P.679]]) |
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2019年12月13日 (金) 15:47時点における最新版
とうしょうがく
等覚・正等覚ともいう。
- Ⅰ 絶対平等の真如をさとった仏のさとり。→正覚。(大経 P.4,5)
- Ⅱ 平等の心理をさとった者。仏。如来十号の一。→
如来 。 - Ⅲ 仏因円満した正覚に等しい位で仏陀の一歩手前にあるもの。菩薩の修行の五十二位あるうちの第五十一位。→
菩薩 。 - Ⅳ 真実信心を得たものは、仏因円満していて、必ず仏と成るから、現生の
正定聚 の位を「弥勒に同じ」といい、また「等正覚」ともいう。(証巻 P.308, 正像 P.604, 一多 P.679,,三経 P.627,消息 P.758) →便同弥勒、補註6。
【左訓】
底本 (青蓮院本) には 「等覚」 とある。 (要集 P.1079)
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
- 等正覚と正定聚
魏訳の『無量寿経』では、
- そのときに、次に仏ましましき。世自在王如来・応供・等正覚・明行足・善逝・世間解・無上士・調御丈夫・天人師・仏・世尊と名づけたてまつる。(大経P.11)
とあるように、等正覚は仏の十号の一を指す。ところが、唐訳の『無量寿如来会』では、
- 世主仏の前無辺劫数に仏ましまして出世したまえり。世間自在王如来・応・正等覚・明行円満・善逝・世間解・無上・丈夫調御士・天人師・仏・世尊と号す。(*)
と、魏訳の等正覚を正等覚と翻訳している。そして、魏訳の第十一願に
- たとひわれ仏を得たらんに、国中の人・天、定聚に住し、かならず滅度に至らずは、正覚を取らじ。 (*)
とある「定聚(正定聚)」を唐訳の『無量寿如来会』では、
- もし我、成仏せんに、国中有情、もし決定して等正覚を成り、大涅槃を証せざれば、菩提を取らじ。(*)
とし、魏訳では仏の十号の一であった等正覚を唐訳では正等覚と翻訳し、定聚を等正覚と翻訳している。『無量寿経』では等正覚の「等」を仏と同じ意とし、『如来会』では等正覚の「等」をほぼ等しい意と解釈し正定聚のこととし等正覚(等覚)と翻訳したのであろう。
この意を『御消息』には、
- 信心をえたるひとは、かならず正定聚の位に住するがゆゑに等正覚の位と申すなり。『大無量寿経』には、摂取不捨の利益に定まるものを正定聚となづけ、『無量寿如来会』には等正覚と説きたまへり。その名こそかはりたれども、正定聚・等正覚は、ひとつこころ、ひとつ位なり。等正覚と申す位は、補処の弥勒とおなじ位なり。弥勒とおなじく、このたび無上覚にいたるべきゆゑに、弥勒におなじと説きたまへり。(御消息 P.758)
と、正定聚と等正覚は同義であるとされておられる。御開山は、晩年には『正像末和讃』や御消息などで新訳の等正覚(正定聚)を使われることが多いので文脈によって読む必要がある。 たとえば、以下の和讃の「等正覚」は正定聚のことである。
御開山は、一般にいわれる三定聚説を、真仮分判の名目として転用して用いられ、「第十八願」の機を正定聚、「第十九願」の機を邪定聚、「第二十願」の機を不定聚に配当された。聖道門では、不退転(正定聚)の階位を菩薩の修道階梯の種々に配当するのだが、御開山の用いられる三定聚説は「願海真仮論」によるのであって聖道門の五十二位説と混同してはならない。→不退転
- 五十二位説の階位