「可聞可称」の版間の差分
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
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2020年1月23日 (木) 17:25時点における版
かもん-かしょう
聞くことができて称えることができるという意。
御開山は、『大経』往覲偈の文(大経 P.46)を『尊号真像銘文』で、
- 「
其仏本願力 聞名欲往生 皆悉到彼国 自致不退転 」- 「其仏本願力」といふは、弥陀の本願力と申すなり。「聞名欲往生」といふは、「聞」といふは如来のちかひの御なを信ずと申すなり、「欲往生」といふは安楽浄刹に生れんとおもへとなり。(尊号 P.645)
とされておられた。また「行巻」(行巻 P.142)、「信巻」(信巻 P.250) でも引文されておられる。
法然聖人は、なんまんだぶと、称えて聞える可聞可称の「声につきて往生の思いをなすべし」といわれていた。名というものは、耳に聞くものであり、口に称えるものであるからである。御開山が六字釈で「ここをもつて帰命は本願招喚の勅命なり」(行巻 P.170)と招喚とされた所以である。
ただ心の善悪をもかへりみず、罪の軽重をもわきまへず、心に往生せんとおもひて、口に南無阿弥陀仏ととなへば、こゑについて决定往生のおもひをなすべし。その决定によりて、すなはち往生の業はさだまる也。 かく心えつればやすき也。往生は不定におもへばやがて不定なり、一定とおもへばやがて一定する事なり。 →(『和語灯録』-「往生大要鈔」)
※「隠/顕」