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 他力回向の[[信]]と[[行]]の意で、[[第十八願]]に誓われた信心(三心)と念仏(十念)のこと。「信巻」には
 
 他力回向の[[信]]と[[行]]の意で、[[第十八願]]に誓われた信心(三心)と念仏(十念)のこと。「信巻」には
:「この[[信行]]によりてかならず[[大涅槃]]を超証すべきがゆゑに、真の仏弟子といふ」([[信巻末#no84|信巻 P.256]])、
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:「この[[信行]]によりてかならず[[大涅槃]]を超証すべきがゆゑに、[[真の仏弟子]]といふ」([[信巻末#no84|信巻 P.256]])、
 
『高僧和讃』には、
 
『高僧和讃』には、
 
:「往相の回向ととくことは 弥陀の方便ときいたり 悲願の[[信行]]えしむれば 生死すなはち涅槃なり」([[高僧和讃#no35|高僧 P.584]])
 
:「往相の回向ととくことは 弥陀の方便ときいたり 悲願の[[信行]]えしむれば 生死すなはち涅槃なり」([[高僧和讃#no35|高僧 P.584]])
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とある。(浄土真宗辞典)
 
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御開山には'''「[[行信]]」'''といい、行を先にする表現と「[[信行]]」と信を先にする表現がある。宗学では信前行後とか行前信後とか煩いのだが(信因称報説)、これを悪しくドグマ化して、ご法義を[[聴聞]]してお念仏を申し、お念仏申しながら[[聴聞]]を重ねて、遂に[[信心]]の[[念仏者は…|念仏者]]に育てられるという[[聴聞]]の現場、現実を無視した空論になりかねない危険性があるように思ふ。<br />
 
御開山には'''「[[行信]]」'''といい、行を先にする表現と「[[信行]]」と信を先にする表現がある。宗学では信前行後とか行前信後とか煩いのだが(信因称報説)、これを悪しくドグマ化して、ご法義を[[聴聞]]してお念仏を申し、お念仏申しながら[[聴聞]]を重ねて、遂に[[信心]]の[[念仏者は…|念仏者]]に育てられるという[[聴聞]]の現場、現実を無視した空論になりかねない危険性があるように思ふ。<br />
ただ、往生の決定を論じる場合は[[信行]]の次第で説く。[[信心]]と[[称名]]との関係で往生決定を論じるときは、阿弥陀仏の救済の法が衆生の上で実現する場合は時が立つ。衆生は時間的存在であるから時を論ずるのである。→[[信の一念]] それに対して念仏(なんまんだぶ) は阿弥陀仏の時間を超えた衆生済度の'''「法」'''であるから時を超越しているので時間は論じない。法然聖人や親鸞聖人が往生決定の因を語る場合は、念仏を称えた時ではなく「[[信疑決判]]」とか「涅槃の真因はただ信心をもつてす(涅槃真因 唯以信心)と、信であらわしておられた所以である。浄土真宗で「[[信心正因]]」といふ所以である。 口業と身業は「[[WDM:しいごう|思已業]]」であることから「[[信行]]」とするのは当然であろう。<br />
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ただ、往生の決定を論じる場合は[[信行]]の次第で説く。[[信心]]と[[称名]]との関係で往生決定を論じるときは、阿弥陀仏の救済の法が衆生の上で実現する場合は[[時剋]]が立つ。衆生は時間的存在であるから時を論ずるのである。→[[信の一念]] <br />
[[西山]]の[[善恵房|善恵房証空]]は、称名念仏の自力行為性を否定するため、衆生の[[三業]]を離れた念仏を「[[jds:離三業念仏|離三業念仏]]」とされていた。これに対して御開山は[[本願力回向]]の[[大行]]・[[大信]]の「[[行信]]」を説かれ、行も信も阿弥陀仏から回向されるのであるとされた。その意味で、浄土真宗の「行信」は[[救済]]の法に対しての一切の自力性を否定するのであった。
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 それに対して念仏(なんまんだぶ) は阿弥陀仏の時間を超えた衆生済度の'''「法」'''であるから時を超越しているので時間は論じない。→[[行の一念]]<br />
  
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法然聖人や親鸞聖人が往生決定の因を語る場合は、念仏を称えた時ではなく
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:「[[生死の家には…|生死の家には疑をもつて所止となし、涅槃の城には信をもつて能入となす(生死之家 以疑為所止 涅槃之城 以信為能入)]]」([[選択本願念仏集 (七祖)#信疑決判|選択集 P.1248]]) →「[[信疑決判]]」
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とか
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:「涅槃の真因はただ信心をもつてす(涅槃真因 唯以信心)」([[信巻本#no19|信巻 P.229]])
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と、信であらわしておられた所以である。浄土真宗で「[[信心正因]]」といふ所以である。 口業と身業は「[[WDM:しいごう|思已業]]」であることから「[[信行]]」とするのは当然であろう。<br />
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[[西山]]の[[善恵房|善恵房証空]]は、称名念仏の自力行為性を否定するため、衆生の[[三業]]を離れた念仏を「[[jds:離三業念仏|離三業念仏]]」とされていた。これに対して御開山は[[本願力回向]]の[[大行]]・[[大信]]の「[[行信]]」を説かれ、行も信も阿弥陀仏から回向されるのであるとされた。その意味で、浄土真宗の「[[行信]]」は[[救済]]の法に対しての一切の自力性を否定するのであった。
  
 
:→[[三一問答]]
 
:→[[三一問答]]

2020年2月7日 (金) 16:36時点における版

しんぎょう 信行

 他力回向のの意で、第十八願に誓われた信心(三心)と念仏(十念)のこと。「信巻」には

「この信行によりてかならず大涅槃を超証すべきがゆゑに、真の仏弟子といふ」(信巻 P.256)、

『高僧和讃』には、

「往相の回向ととくことは 弥陀の方便ときいたり 悲願の信行えしむれば 生死すなはち涅槃なり」(高僧 P.584)

とある。(浄土真宗辞典)

御開山には行信といい、行を先にする表現と「信行」と信を先にする表現がある。宗学では信前行後とか行前信後とか煩いのだが(信因称報説)、これを悪しくドグマ化して、ご法義を聴聞してお念仏を申し、お念仏申しながら聴聞を重ねて、遂に信心念仏者に育てられるという聴聞の現場、現実を無視した空論になりかねない危険性があるように思ふ。
ただ、往生の決定を論じる場合は信行の次第で説く。信心称名との関係で往生決定を論じるときは、阿弥陀仏の救済の法が衆生の上で実現する場合は時剋が立つ。衆生は時間的存在であるから時を論ずるのである。→信の一念 
 それに対して念仏(なんまんだぶ) は阿弥陀仏の時間を超えた衆生済度の「法」であるから時を超越しているので時間は論じない。→行の一念

法然聖人や親鸞聖人が往生決定の因を語る場合は、念仏を称えた時ではなく

生死の家には疑をもつて所止となし、涅槃の城には信をもつて能入となす(生死之家 以疑為所止 涅槃之城 以信為能入)」(選択集 P.1248) →「信疑決判

とか

「涅槃の真因はただ信心をもつてす(涅槃真因 唯以信心)」(信巻 P.229)

と、信であらわしておられた所以である。浄土真宗で「信心正因」といふ所以である。 口業と身業は「思已業」であることから「信行」とするのは当然であろう。
西山善恵房証空は、称名念仏の自力行為性を否定するため、衆生の三業を離れた念仏を「離三業念仏」とされていた。これに対して御開山は本願力回向大行大信の「行信」を説かれ、行も信も阿弥陀仏から回向されるのであるとされた。その意味で、浄土真宗の「行信」は救済の法に対しての一切の自力性を否定するのであった。

三一問答
行信
心行
行信不離

参照WEB版浄土宗大辞典の「離三業念仏」の項目

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