「帰命」の版間の差分
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+ | 【国宝本左訓】よりたのむ。おおせにしたがう。めしにかなうというなり。([[浄土和讃#no27|浄土 P.561]]) | ||
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+ | 梵語ナマス(namas)の意訳。[[南無]]と音訳する。心から信じ敬うという意。[[浄土真宗]]では、[[本願]]に帰せよとの[[阿弥陀仏]]の[[勅命]]の意とする。「行巻」 には「帰命は[[本願招喚の勅命]]なり」([[行巻#P--170|註 170]])とある。またその[[勅命]]に衆生が帰順する (信じ順したがう) 意とし、『銘文』には 「帰命と申すは如来の[[勅命]]にしたがふこころなり」([[尊号真像銘文#P--651|尊号 P.651]])とある。 なお、 [[礼拝]]の意もあり、『論註』には 「帰命はこれ[[礼拝]]なり」(行巻引文・[[行巻#P--156|註 156]])とある。 →[[六字釈]]。 (浄土真宗辞典) | ||
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2022年2月17日 (木) 15:55時点における最新版
きみょう
梵語ナマス(namas)の漢訳。南無(なも)と音写する。心から信じうやまう意。浄土真宗では、本願に帰せよとの阿弥陀如来の勅命の意とし、またその勅命に帰順する(信じ
【国宝本左訓】よりたのむ。おおせにしたがう。めしにかなうというなり。(浄土 P.561)
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
きみょう 帰命
梵語ナマス(namas)の意訳。南無と音訳する。心から信じ敬うという意。浄土真宗では、本願に帰せよとの阿弥陀仏の勅命の意とする。「行巻」 には「帰命は本願招喚の勅命なり」(註 170)とある。またその勅命に衆生が帰順する (信じ順したがう) 意とし、『銘文』には 「帰命と申すは如来の勅命にしたがふこころなり」(尊号 P.651)とある。 なお、 礼拝の意もあり、『論註』には 「帰命はこれ礼拝なり」(行巻引文・註 156)とある。 →六字釈。 (浄土真宗辞典)
- →六字釈
- ノートから転送
- 「本願を信じ念仏を申す」、これが浄土真宗
聖人は「正信偈」で、「どうして私は本願を信じ念仏申す身になったか」ということを二段に分けて仰っています。初めの「
「正信偈」の序文には、「おほよそ誓願について真実の
- 「帰命無量寿如来 南無不可思議光」
「正信偈」の最初は「帰命無量寿如来 南無不可思議光(無量寿如来に帰命し、不可思議光に南無したてまつる)」(二〇二頁)という言葉で始まっております。この二句は、「南無阿弥陀仏」というインドの言葉を中国語に訳したものです。「私達の思いはからうことのできない、限りない寿命の徳をお持ちになった如来様に帰命したてまつる。人間の思いはからいを超えた、悟りの智慧の光明の徳をもって、すべてのものを導きお救いくださる仏様に帰依したてまつる」。
なおこの二句は、親鸞聖人が阿弥陀仏への帰依と敬順をあらわされた頌(詩)ですから、「帰敬の頌」ともいいます。またこれは前半の「依経段」で讃えられる内容を総じて讃えたもの(総讃)であると同時に「正信偈」全体の総讃でもあります。
その第二句の「南無」はインドの「ナマス」という言葉が変化した「ナモ」の音写語で、第一句の「帰命」とはそれを中国語に翻訳した言葉です。帰命という言葉を、親鸞聖入は、信心と同じ意味で使われています。ナマスという言葉には心から仏や菩薩を崇め尊び敬意を表するといった意味があり、礼拝するといった意味もそこにあります。それを中国では「帰命」と翻訳しました。すると今度は、中国語としての帰命という言葉の意味を非常に厳格に見るようになります。大きく分けて三種類くらいの解釈があります。
一番目の解釈は、帰命の「帰」は「帰投、投げ出す」という意味です(
二番目は、「帰」は「帰順、順う」ということで、「命」とは身命ではなくて、「教命」であるという風に解釈しています(
この二つの説は中国の唐の時代に活躍した賢首大師法蔵という方の『大乗起信論』の註釈の中に出ています。
三番目の説は、
大きく分けてこういう三つの解釈を、中国、朝鮮半島、日本を通して用いるわけです。日本の浄土教の流れの上でみますと、①の阿弥陀様の仰せに命を投げ出して従っていくことを帰命というのだという言い方をしますのは、浄土宗の鎮西浄土宗、今の知恩院の方たちです。それに対して②の帰順教命という意味で仏様の仰せに順うことだと言ったのが親鸞聖人です。そして③の阿弥陀様という根元的な命に帰す、我が命は阿弥陀の命であったことに気づくのが帰命だと言うのは、大体西山派系の方たちの考え方です。
しかし親鸞聖人の一番特徴的な解釈は、「帰命とは如来の仰せに順うことだ」というものです。阿弥陀仏に帰命するというのは、限りない寿命の徳をお持ちになった親様の仰せに順い、帰依し、その親様の所に帰らせて頂くのだという風に仏様の仰せに順っていく。そして限りない智慧の光をもって万人を浄土へと導き喚びさましてくださる、仏様の本願の言葉に順って生きていく。このように、阿弥陀様の仰せに順って限りない仏の命の世界に帰らせて頂くことを、帰命というのだと聖人は見ておられるのです。