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「久遠実成」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

 
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くおん-じつじょう
 
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 久遠劫の過去世において実に<kana>[[正覚]](しょうがく)</kana>を成就し[[仏]]になっていること。一般に釈尊について、そのさとりの内容、つまり[[法]]が常住不変であることにもとづいていわれるが、これに準じて[[阿弥陀仏]]も久遠実成の古仏、久遠実成阿弥陀仏といわれる。すなわち経典には<kana>[[十劫]](じっこう)</kana>の昔に成仏されたとあるが、実は久遠の昔からすでに成仏せられていた古仏であるということ。  ([[持名鈔#P--1001|持名鈔 P.1001]],[[真要鈔#P--969|真要鈔 P.969]])
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 久遠劫の過去世において実に<kana>[[正覚]](しょうがく)</kana>を成就し[[仏]]になっていること。一般に釈尊について、そのさとりの内容、つまり[[法]]が常住不変であることにもとづいていわれるが、これに準じて[[阿弥陀仏]]も久遠実成の古仏、久遠実成阿弥陀仏といわれる。すなわち経典には<kana>[[十劫]](じっこう)</kana>の昔に成仏されたとあるが、実は久遠の昔からすでに成仏せられていた古仏であるということ。  ([[浄土和讃#no88|浄土 P.572]],[[持名鈔#P--1001|持名鈔 P.1001]],[[真要鈔#P--969|真要鈔 P.969]])
 
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御開山の仏身観は『論註』の<kana>[[法性]](ほっしょう)</kana>・方便の二種<kana>法身(ほっしん)</kana>として阿弥陀仏を領解されておられる。法性法身とは、さとりそのものである法性<kana>[[真如]](しんにょ)</kana>を本身とする仏身のことで、それはあらゆる限定を超えた認識を超えたものであり、[[方便法身]]とは、「この一如宝海よりかたちをあらはして、法蔵菩薩となのりたまひて、無碍のちかひをおこしたまふをたねとして、阿弥陀仏となりたまふがゆゑに、報身如来と申すなり」([[一多#P--690|一多 P.690]])の阿弥陀如来だとされておられる。「讃阿弥陀仏偈和讃」で、
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:弥陀成仏のこのかたは
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::いまに十劫とときたれど 
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::塵点久遠劫よりも
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::ひさしき仏とみえたまふ ([[浄土和讃#P--557|浄土 P.557]])
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と、かって学んだ天台の塵点久遠という『法華経』の語を用いて「如来常住 悉有仏性」という大乗仏教の理を示しておられる。
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→[[如来]]
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:→[[垂名示形]]
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:→[[親鸞聖人の仏身論]]
  
→[[親鸞聖人の仏身論]]
 
  
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2022年8月17日 (水) 17:05時点における最新版

くおん-じつじょう

 久遠劫の過去世において実に正覚(しょうがく)を成就しになっていること。一般に釈尊について、そのさとりの内容、つまりが常住不変であることにもとづいていわれるが、これに準じて阿弥陀仏も久遠実成の古仏、久遠実成阿弥陀仏といわれる。すなわち経典には十劫(じっこう)の昔に成仏されたとあるが、実は久遠の昔からすでに成仏せられていた古仏であるということ。  (浄土 P.572,持名鈔 P.1001,真要鈔 P.969)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

◆ 参照読み込み (transclusion) ノート:久遠実成

御開山の晩年(80~)の仏身・仏土観は『論註』の法性(ほっしょう)・方便の二種法身(にしゅ-ほっしん)として阿弥陀仏を領解されておられた。 法性法身とは、さとりそのものである法性真如(しんにょ)を本身とする仏身のことで、

「そこでは知る者と知られる者が一つであり、生と死、自と他、愛と憎しみ、善と悪といった二元的な対立を完全に超え、時間的・空間的な制約もありませんから、物事を対象的に捉え、分別し区別することを特徴としている言葉では表せない領域です。」(梯實圓著 聖典セミナー『口伝鈔』p.114~)

といわれるように、 あらゆる限定や時間を超えた人間の認識を超越したものであった。それを『一念多念証文』で、

この一如宝海よりかたちをあらはして、法蔵菩薩となのりたまひて、無碍のちかひをおこしたまふをたねとして、阿弥陀仏となりたまふがゆゑに、報身如来と申すなり。これを尽十方無碍光仏となづけたてまつれるなり。この如来を南無不可思議光仏とも申すなり。
この如来を方便法身とは申すなり。方便と申すは、かたちをあらはし、御なをしめして、衆生にしらしめたまふを申すなり。すなはち阿弥陀仏なり。(一多 P.690)

と、一如宝海(一如法性)より「かたちをあらはし、御なをしめして、衆生にしらしめたまふ」のが方便法身としての報身である阿弥陀仏だとされておられる。

この二種法身説以前には『法華経』による久遠実成説を「浄土和讃」で、

弥陀成仏のこのかたは
いまに十劫とときたれど 
塵点久遠劫よりも
ひさしき仏とみえたまふ (浄土 P.556)

とされたり『諸経讃』に、

久遠実成阿弥陀仏
 五濁の凡愚をあはれみて
 釈迦牟尼仏としめしてぞ
 迦耶城には応現する (浄土 P.572)

と、「久遠実成」の阿弥陀如来として、かって学んだ天台法華の塵点久遠劫という『法華経』の語を用いて「如来常住 悉有仏性」という無始無終の大乗仏教の理を示しておられた。

しかして、最終的には『浄土論註』の法性・方便の二種法身説に拠られたのであった。

十劫久遠
二種法身
法身
報身
垂名示形
親鸞聖人の仏身論