「五念門」の版間の差分
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− | :①<kana>礼拝(らいはい)</kana>門。身に阿弥陀仏を礼拝すること。 | + | :① <kana>礼拝(らいはい)</kana>門。身に阿弥陀仏を礼拝すること。 |
− | :②<kana>讃嘆(さんだん)</kana>門。<kana>光明(こうみょう)</kana>と<kana>名号(みょうごう)</kana>のいわれを信じ、口に<kana>仏名(ぶつみょう)</kana>を称えて阿弥陀仏の<kana>功徳(くどく)</kana>をたたえること。 | + | :② <kana>讃嘆(さんだん)</kana>門。<kana>光明(こうみょう)</kana>と<kana>名号(みょうごう)</kana>のいわれを信じ、口に<kana>仏名(ぶつみょう)</kana>を称えて阿弥陀仏の<kana>功徳(くどく)</kana>をたたえること。 |
− | :③<kana>作願(さがん)</kana>門。一心に専ら阿弥陀仏の浄土に生れたいと願うこと。 | + | :③ <kana>作願(さがん)</kana>門。一心に専ら阿弥陀仏の浄土に生れたいと願うこと。 |
− | :④<kana>観察(かんざつ)</kana>門。阿弥陀仏・菩薩の姿、浄土の<kana>荘厳(しょうごん)</kana>を思いうかべること。 | + | :④ <kana>観察(かんざつ)</kana>門。阿弥陀仏・菩薩の姿、浄土の<kana>荘厳(しょうごん)</kana>を思いうかべること。 |
− | :⑤<kana>回向(えこう)</kana>門。自己の<kana>功徳(くどく)</kana>をすべての<kana>[[衆生]](しゅじょう)</kana>にふりむけてともに浄土に往生したいと願うこと。 | + | :⑤ <kana>回向(えこう)</kana>門。自己の<kana>功徳(くどく)</kana>をすべての<kana>[[衆生]](しゅじょう)</kana>にふりむけてともに浄土に往生したいと願うこと。 |
またこの五念門行を修する結果として得られる徳を五種の功徳([[五功徳門]]・五果門)として示す。 | またこの五念門行を修する結果として得られる徳を五種の功徳([[五功徳門]]・五果門)として示す。 | ||
[[親鸞聖人]]は<kana>[[曇鸞]](どんらん)</kana>大師の『論註』を通して、これら五種の行が、すべて[[法蔵菩薩]] 所修の功徳として名号にそなわって衆生に回向されると説く。→[[五種の功徳]] (ごしゅのくどく)。(巻末註) | [[親鸞聖人]]は<kana>[[曇鸞]](どんらん)</kana>大師の『論註』を通して、これら五種の行が、すべて[[法蔵菩薩]] 所修の功徳として名号にそなわって衆生に回向されると説く。→[[五種の功徳]] (ごしゅのくどく)。(巻末註) | ||
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;五念門(天親菩薩の『浄土論』の説) | ;五念門(天親菩薩の『浄土論』の説) | ||
− | + | 『浄土論』では、浄土願生の菩薩道として[[止観]]中心の五念門を説示されていた。この阿弥陀仏の浄土へ生まれるための五つの行いを五念門(五因門)といい、その結果として得られる徳を[[五功徳門]](五果門)という。 | |
− | : | + | :① 礼拝門(身業)仏を礼拝([[五体を地に投げ|五体投地]])すること。 |
− | : | + | :② 讃嘆門(口業)口に仏名を称えて仏の徳を褒め称(たた)えること。 |
− | : | + | :③ 作願門(意業)諸々の思いを止めて、浄土に精神を集中(止)すること。[[奢摩他]]。梵語でシャマタ(śamatha)。 |
− | : | + | :④ 観察門(智業)①~③によって正しい智慧を起こし、その智慧によって浄土の真実相を観察(観)すること。[[毘婆舎那]]。梵語でヴィパシュヤナー(vipaśyanā)。 |
− | : | + | :⑤ 回向門(方便智業)①~④によって得るところの功徳をすべてのものに施すこと。 |
− | + | 前の四門は自己がさとりに入るためのものであるから入門、後の回向門は他を救うためにはたらき出るものであるから出門、合わせて入出二門という。『浄土論』では、これを[[上求菩提・下化衆生]]の浄土教の菩薩道であるといわれるのであった。 | |
− | + | 曇鸞大師は、天親菩薩の示された[[奢摩他]]・[[毘婆舎那]]としての作願・観察中心の高度な修行法である[[止観|止観行]]を、龍樹菩薩の『十住毘婆沙論』の[[易行道]]の示唆によって、五念門中の讃嘆門における口業の称名に着目して、凡夫相応の讃嘆門を中心として五念門を解釈され、 | |
+ | :「かの如来の名を称す」とは、いはく、無礙光如来の名を称するなり。「かの如来の光明智相のごとく」とは、仏の光明はこれ智慧の相なり。この光明は十方世界を照らしたまふに障礙あることなし。 よく十方衆生の無明の黒闇を除くこと、日・月・珠光のただ空穴のなかの闇をのみ破するがごときにはあらず。 「かの名義のごとく、如実に修行して相応せんと欲す」とは、かの無礙光如来の名号は、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。([[浄土論註 (七祖)#P--103|論註 P.103]]) | ||
+ | と、阿弥陀仏の名号は、衆生の無明を破し往生の[[志願]]を満たすとされた<ref>曇鸞大師は「名号」によって[[破闇満願]]を示しておられたが、御開山は「しかれば名を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ」(行巻 p.146) と口に称えられる称名に[[破闇満願]]をみておられた。</ref>。そしてこれを『大経』の四十八願の'''本願力'''による凡夫相応の速やかな往生行であるとみられた。それは『浄土論』の「[[観仏本願力…|観仏本願力 遇無空過者 能令速満足 功徳大宝海]]」の「不虚作住持功徳成就」とは、 | ||
+ | :いふところの「不虚作住持」とは、本法蔵菩薩の四十八願と、今日の阿弥陀如来の自在神力とによるなり。'''[[願もつて力を成ず、力もつて願に就く]]'''。願[[徒然ならず]]、力[[虚設ならず]]。力・願あひ符(かな)ひて畢竟じて差(たが)はざるがゆゑに「[[成就]]」といふ。 ([[浄土論註 (七祖)#P--131|論註 P.131]]) | ||
+ | と、本願が成就し、それが本願力として衆生済度の'''[[力用]]'''としてはたらいていることだと見られたからである。 | ||
+ | 曇鸞大師は、この本願が成就していることを三願を取り出して往生浄土の本願力の意を証明された。往生浄土の「因」である十念の念仏は'''[[第十八願]]力'''によって、往生の「果」たる正定と滅度は'''[[第十一願]]力'''によって、浄土の菩薩の行の超越は'''[[第二十二願]]力'''によって、それぞれ成就せしめられるとみられたのである。 →[[三願的証]] ([[浄土論註 (七祖)#三願的証|論註 P.155]]) | ||
− | + | 善導大師は『往生礼讃』の五念門で、作願(止)と観察(観)を入れ替えている。止は奢摩他(シャマタ)(心を静め止める禅定)、観は毘鉢舎那(ビバシャナ)(止と観によって発す不動の智慧により真理を観察する)である。この作願と観察を入れ替えることによって、聖道門の高度な修行体系である止観行ではない凡夫の五念門という意味を表わそうとされたのであろう。([[往生礼讃 (七祖)#P--655|往生礼讃 P.655]]) | |
− | + | 源信僧都は『安楽集』は見ておられたが『論註』は『安楽集』の引用でしか見ておられなかったといわれる。『往生要集』「第四 正修念仏門」の五念門釈では『論註』の五念門と違い、天台の[[止観]]行として『浄土論』の五念門を釈されていた。([[往生要集上巻 (七祖)#作願門|要集 P.902]]) | |
− | + | 御開山は『論註』の[[覈求其本釈]]を通して、それまで浄土願生者の修める行とされていた五念門を、法蔵菩薩の所修の行であるとされ、阿弥陀仏の[[名号]]には五念門の功徳が具わっているとされ『入出二門偈」で、 | |
− | : | + | :'''願力成就を五念と名づく'''、仏をしていはばよろしく[[利他]]といふべし。衆生をしていはば[[他利]]といふべし。まさに知るべし、いままさに'''仏力を談ぜん'''とす。([[二門#no2|二門 P.548]]) |
− | + | と、願力成就を五念門であるとされた。それ故に『論註」では「云何が廻向する」とある文を「いかんが回向したまへる」等々と敬語で訓じて法蔵菩薩の所修とされておられる。それは『論註』の「今将談仏力。是故以利他言之(いままさに仏力を談ぜんとす、このゆゑに利他をもつてこれをいふ)」の「<kana>覈求其本釈(かくぐごほんしゃく)</kana>」の文によって、'''仏力'''(本願力)を談する[[他利利他の深義]]の深意を読み取られたからであった。 | |
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2022年9月19日 (月) 22:59時点における最新版
ごねんもん
阿弥陀仏の浄土に往生するための
- ①
礼拝 門。身に阿弥陀仏を礼拝すること。 - ②
讃嘆 門。光明 と名号 のいわれを信じ、口に仏名 を称えて阿弥陀仏の功徳 をたたえること。 - ③
作願 門。一心に専ら阿弥陀仏の浄土に生れたいと願うこと。 - ④
観察 門。阿弥陀仏・菩薩の姿、浄土の荘厳 を思いうかべること。 - ⑤
回向 門。自己の功徳 をすべての衆生 にふりむけてともに浄土に往生したいと願うこと。
またこの五念門行を修する結果として得られる徳を五種の功徳(五功徳門・五果門)として示す。
親鸞聖人は
『浄土論』 (底本) には 「五門」 とある。 (論註 P.154)
往生礼讃の五念門
天親菩薩の『浄土論』 では、五念門は
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
御開山と曇鸞大師、天親(世親)菩薩の、それぞれに五念門の解釈が違うので天親菩薩の当面の説をあげておく。
- 五念門(天親菩薩の『浄土論』の説)
『浄土論』では、浄土願生の菩薩道として止観中心の五念門を説示されていた。この阿弥陀仏の浄土へ生まれるための五つの行いを五念門(五因門)といい、その結果として得られる徳を五功徳門(五果門)という。
- ① 礼拝門(身業)仏を礼拝(五体投地)すること。
- ② 讃嘆門(口業)口に仏名を称えて仏の徳を褒め称(たた)えること。
- ③ 作願門(意業)諸々の思いを止めて、浄土に精神を集中(止)すること。奢摩他。梵語でシャマタ(śamatha)。
- ④ 観察門(智業)①~③によって正しい智慧を起こし、その智慧によって浄土の真実相を観察(観)すること。毘婆舎那。梵語でヴィパシュヤナー(vipaśyanā)。
- ⑤ 回向門(方便智業)①~④によって得るところの功徳をすべてのものに施すこと。
前の四門は自己がさとりに入るためのものであるから入門、後の回向門は他を救うためにはたらき出るものであるから出門、合わせて入出二門という。『浄土論』では、これを上求菩提・下化衆生の浄土教の菩薩道であるといわれるのであった。
曇鸞大師は、天親菩薩の示された奢摩他・毘婆舎那としての作願・観察中心の高度な修行法である止観行を、龍樹菩薩の『十住毘婆沙論』の易行道の示唆によって、五念門中の讃嘆門における口業の称名に着目して、凡夫相応の讃嘆門を中心として五念門を解釈され、
- 「かの如来の名を称す」とは、いはく、無礙光如来の名を称するなり。「かの如来の光明智相のごとく」とは、仏の光明はこれ智慧の相なり。この光明は十方世界を照らしたまふに障礙あることなし。 よく十方衆生の無明の黒闇を除くこと、日・月・珠光のただ空穴のなかの闇をのみ破するがごときにはあらず。 「かの名義のごとく、如実に修行して相応せんと欲す」とは、かの無礙光如来の名号は、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。(論註 P.103)
と、阿弥陀仏の名号は、衆生の無明を破し往生の志願を満たすとされた[1]。そしてこれを『大経』の四十八願の本願力による凡夫相応の速やかな往生行であるとみられた。それは『浄土論』の「観仏本願力 遇無空過者 能令速満足 功徳大宝海」の「不虚作住持功徳成就」とは、
- いふところの「不虚作住持」とは、本法蔵菩薩の四十八願と、今日の阿弥陀如来の自在神力とによるなり。願もつて力を成ず、力もつて願に就く。願徒然ならず、力虚設ならず。力・願あひ符(かな)ひて畢竟じて差(たが)はざるがゆゑに「成就」といふ。 (論註 P.131)
と、本願が成就し、それが本願力として衆生済度の力用としてはたらいていることだと見られたからである。 曇鸞大師は、この本願が成就していることを三願を取り出して往生浄土の本願力の意を証明された。往生浄土の「因」である十念の念仏は第十八願力によって、往生の「果」たる正定と滅度は第十一願力によって、浄土の菩薩の行の超越は第二十二願力によって、それぞれ成就せしめられるとみられたのである。 →三願的証 (論註 P.155)
善導大師は『往生礼讃』の五念門で、作願(止)と観察(観)を入れ替えている。止は奢摩他(シャマタ)(心を静め止める禅定)、観は毘鉢舎那(ビバシャナ)(止と観によって発す不動の智慧により真理を観察する)である。この作願と観察を入れ替えることによって、聖道門の高度な修行体系である止観行ではない凡夫の五念門という意味を表わそうとされたのであろう。(往生礼讃 P.655)
源信僧都は『安楽集』は見ておられたが『論註』は『安楽集』の引用でしか見ておられなかったといわれる。『往生要集』「第四 正修念仏門」の五念門釈では『論註』の五念門と違い、天台の止観行として『浄土論』の五念門を釈されていた。(要集 P.902)
御開山は『論註』の覈求其本釈を通して、それまで浄土願生者の修める行とされていた五念門を、法蔵菩薩の所修の行であるとされ、阿弥陀仏の名号には五念門の功徳が具わっているとされ『入出二門偈」で、
と、願力成就を五念門であるとされた。それ故に『論註」では「云何が廻向する」とある文を「いかんが回向したまへる」等々と敬語で訓じて法蔵菩薩の所修とされておられる。それは『論註』の「今将談仏力。是故以利他言之(いままさに仏力を談ぜんとす、このゆゑに利他をもつてこれをいふ)」の「