「より出でたり」の版間の差分
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
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::すなはちこれ必至滅度の願([[第十一願]])より出でたり。([[証巻#P--307|証巻 P.307]]) | ::すなはちこれ必至滅度の願([[第十一願]])より出でたり。([[証巻#P--307|証巻 P.307]]) | ||
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::すなはちこれ必至補処の願([[第二十二願]])より出でたり。([[証巻#P--313|証巻 P.313]]) | ::すなはちこれ必至補処の願([[第二十二願]])より出でたり。([[証巻#P--313|証巻 P.313]]) | ||
− | + | それに対して第十九願、第二十願の方便の願を挙げられる場合は、「既而有悲願(すでにして悲願います)」とされておられた。大悲の大を略して悲願とされておられる。 | |
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:既而有悲願。名植諸徳本之願。 | :既而有悲願。名植諸徳本之願。 | ||
::すでにして悲願います。植諸徳本の願([[第二十願]])と名づく。([[化巻本#P--400|化巻 P.400]]) | ::すでにして悲願います。植諸徳本の願([[第二十願]])と名づく。([[化巻本#P--400|化巻 P.400]]) | ||
− | + | 真実の願を「出於(より出でたり)」とされた場合は、阿弥陀仏から回向された躍動的な本願力回向の法([[随自|随自意]])であることをあらわすためだったとされる。それに対して[[諸行往生]]([[第十九願]])や[[自力念仏]]([[第二十願]])の法は、自らが行じていく自力の法門であるから、阿弥陀仏から回向された法ではない。いわば不本意の願([[随他意説]])であるから、阿弥陀仏から回向された法ではないということを示す為に「既而有悲願(すでにして悲願います)」とされたのであった。なお、第十七願では大悲の願とされ方便の願では大を省いて悲願とされておられた。 | |
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+ | なお、真仏土巻では、'''第十二・十三願'''を、 | ||
+ | :既而有願 即光明・寿命之願是也。 | ||
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+ | と「既而有願(すでにして願います)」とあるのは、回向法の根拠を示すものといわれる。<br /> | ||
+ | 『教行証文類』は、「教」→「行」→「信」→「証」→「真仏土」と「'''[[往生門]]'''(趣入門)」となっているが、和語の聖典といわれる『三帖和讃』では「真仏土」→「教」→「行」→「信」→「証」といふ円環構造になっている。これを「'''[[正覚門]]'''(摂化門)」といふ。 | ||
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2022年6月12日 (日) 22:54時点における最新版
御開山は願名を挙げるとき、真実の願と方便の願では表現を使い分けておられた。 真実の行・信・証・還相の出願をされる場合は「出於(より出でたり)」とされておられた。
それに対して第十九願、第二十願の方便の願を挙げられる場合は、「既而有悲願(すでにして悲願います)」とされておられた。大悲の大を略して悲願とされておられる。
真実の願を「出於(より出でたり)」とされた場合は、阿弥陀仏から回向された躍動的な本願力回向の法(随自意)であることをあらわすためだったとされる。それに対して諸行往生(第十九願)や自力念仏(第二十願)の法は、自らが行じていく自力の法門であるから、阿弥陀仏から回向された法ではない。いわば不本意の願(随他意説)であるから、阿弥陀仏から回向された法ではないということを示す為に「既而有悲願(すでにして悲願います)」とされたのであった。なお、第十七願では大悲の願とされ方便の願では大を省いて悲願とされておられた。
なお、真仏土巻では、第十二・十三願を、
- 既而有願 即光明・寿命之願是也。
- すでにして願います、すなはち光明・寿命の願(第十二・十三願)これなり。(真巻 P.337)
と「既而有願(すでにして願います)」とあるのは、回向法の根拠を示すものといわれる。
『教行証文類』は、「教」→「行」→「信」→「証」→「真仏土」と「往生門(趣入門)」となっているが、和語の聖典といわれる『三帖和讃』では「真仏土」→「教」→「行」→「信」→「証」といふ円環構造になっている。これを「正覚門(摂化門)」といふ。