「獲得」の版間の差分
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
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とされておられた。蓮如上人は「信心獲得」を盛んに論じられ「[[後生の一大事]]」を強調されのだが、それは「タスケタマエト ミダヲタノム」と[[後生]]を弥陀に'''[[たのむ|<kana>憑(たの)</kana>む]]'''ことが[[信心]]であるといふ意味であった。 | とされておられた。蓮如上人は「信心獲得」を盛んに論じられ「[[後生の一大事]]」を強調されのだが、それは「タスケタマエト ミダヲタノム」と[[後生]]を弥陀に'''[[たのむ|<kana>憑(たの)</kana>む]]'''ことが[[信心]]であるといふ意味であった。 | ||
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2020年1月26日 (日) 12:26時点における版
ぎゃくとく
えること。「信巻」別序に、
- 信楽を獲得することは、如来選択の願心より発起す。(信巻 P.209)
などとある。なお、『正像末和讃』に収録されている「自然法爾章」では、「獲得名号」について、
とあり、「獲」を因位、「得」を果位に分けて解釈されている。(浄土真宗辞典)
『尊号真像銘文』には、
- 「獲」といふはうるといふことばなり、うるといふはすなはち因位のときさとりをうるといふ。(尊号 P.648)
ともある。
ただ、「自然法爾章」や『尊号真像銘文』は晩年に述べられた法語であることに留意。
浄土真宗では、獲も得も無い状態が有ることになったという意味を示す語である。これを「如来選択の願心より発起す](信巻 P.209) といふのであり、衆生の求道の努力や苦心の末に手に入れ自分のものにすることとは無縁の概念という事に留意すべし。この意を「和讃」では、
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とされておられた。蓮如上人は「信心獲得」を盛んに論じられ「後生の一大事」を強調されのだが、それは「タスケタマエト ミダヲタノム」と後生を弥陀に
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