「元仁元年」の版間の差分
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2023年6月20日 (火) 12:34時点における版
げんにん-がんねん
1224年。親鸞聖人五十二歳。一般にはこの年が本書の撰述年代とされる。(化巻 P.417)
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
真宗教団連合では、御開山が『教行証文類』「化巻上」で正法・像法・末法の三時を考察して記した文によって、元仁元年を浄土真宗の立教開宗の年とした。
- 三時の教を案ずれば、如来般涅槃の時代を
勘 ふるに、周の第五の主穆王 五十三年壬申に当れり。その壬申よりわが元仁元年[元仁とは後堀川院諱茂仁の聖代なり]甲申に至るまで、二千一百七十三歳なり。また『賢劫経』・『仁王経』・『涅槃』等の説によるに、すでにもつて末法に入りて六百七十三歳なり。 (化巻 P.417)
御開山は『教行証文類』の後序で、
- ひそかにおもんみれば、聖道の諸教は行証久しく
廃 れ、浄土の真宗は証道いま盛んなり。しかるに諸寺の釈門、教に昏 くして真仮の門戸を知らず、洛都の儒林、行に迷ひて邪正の道路を弁 ふることなし。(化巻 P.471)
と、末法の時代には、聖道門の行・証は廃れ浄土真宗の証道(本願念仏によって浄土に往生し、さとりを得る道)こそが盛んであるとされた。
法然聖人は『西方指南抄』「法然聖人御説法事」で、
- 釈尊の遺法に三時の差別あり、正法・像法・末法也。その正法一千年のあひだ、教行証の三ともに具足せり、教のごとく行ずるにしたがふて
証 えたり。像法一千年のあひだは、教行はあれども証なし。教にしたがふて行ずといゑども、悉地をうることなし。末法万年のあひだは、教のみあて行証なし。(西方指南抄#P--916)
と教・行・証の三法について語られ末法には教のみあって行証なしとされておられた。
末法の年限については諸説あるが、正法五百年(あるいは千年)、像法千年、末法一万年説が一般的である。
元仁元年基準の仏滅後の計算
- 法上説 穆王五十三年壬申 (前 949)」、元仁元年(1224)。949+1224=2173。仏滅後673年。
- 費長房説 周の匡王班四年壬子(前 602)、602+1244=1846。仏滅後346年。
の「我元仁元年(わが元仁元年)」の記述から、この文を記しているのは元仁元年(西暦1224年)であるとし、この年を浄土真宗の立教開宗の年としたのであろう。
元仁は、貞応3年(西暦1224年)11月20日に、元仁に改元したので『教行証文類』執筆時が元仁と措定することはにわかには理解しがたい。御開山は当事関東に居られたので、京都での11月20日の改元を関東におられた御開山が知られたのは、京都から鎌倉幕府へ改元を通知し、そして民衆へと当時の情報伝達能力から察するに元仁元年といふ記述は改元とは別の意味があったのであろう。──余談だが御開山の末娘であり、後の浄土真宗といふ教団の
ともあれ御開山は『教行証文類』の執筆時をあらわす為に元仁元年とされたのではなく、三年後の嘉禄の法難の原因となった『延暦寺奏状』の出された貞応三年五月〔改元して元仁元年〕を基準年として末法の時代を考察されたのであろう(化巻 P.417)。御開山は、改元後の年号を使われるのが通例であった。
御開山は、末法年代の計算基準年を元仁元年とされ、次下に延暦寺の開山である最澄の撰述といわれる『末法灯明記』を引文されて当今はすでに末法であることの証明だとされた。『延暦寺奏状』の末法はまだ来ていないとの主張(論難)の
- 「諸教の修行を捨てて弥陀仏を専念する広行流布す時節、未だ至らざる事」(延暦寺奏状 四条)
への反論として、お前らの延暦寺の開山である最澄が『末法灯明記』で、法上説、費長房説の両説を挙げている。これによれば当今(元仁元年 西暦1224年)は末法なのだが、これに逆らうのかと『末法灯明記』を、ほぼ全分引文されたのであろう。