「度衆生心」の版間の差分
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
2行目: | 2行目: | ||
御開山は引文されておられないのだが、[[源信僧都]]は『[[往生要集]]』上巻で[[四弘誓願]]の[[菩提心]]を述べ、 | 御開山は引文されておられないのだが、[[源信僧都]]は『[[往生要集]]』上巻で[[四弘誓願]]の[[菩提心]]を述べ、 | ||
{{Inyou| | {{Inyou| | ||
− | :「浄土に生れんと求むる所以は一切衆生の苦を救抜せんと<kana>欲(おも)</kana>ふがゆゑなり。 すなはちみづから[[思忖]]すらく、〈われいま力なし。 もし悪世、煩悩の境のなかにあらば、境強きをもつてのゆゑに、みづから[[纏縛]]せられて[[三塗]]に[[淪溺]]し、ややもすれば数劫を経ん。 かくのごとく輪転して、無始よりこのかたいまだかつて休息せず。 いづれの時にか、よく衆生の苦を救ふことを得ん〉と。 これがために、浄土に生れて諸仏に親近し、[[無生忍]]を証して、まさによく悪世のなかにして、衆生の苦を救はんことを求むるなり」と。 | + | :「浄土に生れんと求むる所以は一切衆生の苦を救抜せんと<kana>欲(おも)</kana>ふがゆゑなり。 すなはちみづから[[思忖]]すらく、〈われいま力なし。 もし悪世、煩悩の境のなかにあらば、境強きをもつてのゆゑに、みづから[[纏縛]]せられて[[三塗]]に[[淪溺]]し、ややもすれば数劫を経ん。 かくのごとく輪転して、無始よりこのかたいまだかつて休息せず。 いづれの時にか、よく衆生の苦を救ふことを得ん〉と。 これがために、浄土に生れて諸仏に親近し、[[無生忍]]を証して、まさによく悪世のなかにして、衆生の苦を救はんことを求むるなり」と。 {以上} |
+ | :余の経論の文、つぶさに『[[十疑]]』のごとし。 | ||
:知りぬべし、念仏・修善を'''<kana>[[業因]](ごういん)</kana>'''となし、往生極楽を'''<kana>華報(けほう)</kana>'''となし、証大菩提を'''<kana>果報(かほう)</kana>'''となし、利益衆生を'''<kana>本懐(ほんがい)</kana>'''となす。 たとへば、世間に木を植うれば<kana>華(はな)</kana>を開き、華によりて<kana>菓(このみ)</kana>を結び、菓を得て[[餐受]]するがごとし。 ([[往生要集上巻 (七祖)#P--930|要集 P.930]]) | :知りぬべし、念仏・修善を'''<kana>[[業因]](ごういん)</kana>'''となし、往生極楽を'''<kana>華報(けほう)</kana>'''となし、証大菩提を'''<kana>果報(かほう)</kana>'''となし、利益衆生を'''<kana>本懐(ほんがい)</kana>'''となす。 たとへば、世間に木を植うれば<kana>華(はな)</kana>を開き、華によりて<kana>菓(このみ)</kana>を結び、菓を得て[[餐受]]するがごとし。 ([[往生要集上巻 (七祖)#P--930|要集 P.930]]) | ||
}} | }} |
2024年11月23日 (土) 08:32時点における最新版
御開山は引文されておられないのだが、源信僧都は『往生要集』上巻で四弘誓願の菩提心を述べ、
- 「浄土に生れんと求むる所以は一切衆生の苦を救抜せんと
欲 ふがゆゑなり。 すなはちみづから思忖すらく、〈われいま力なし。 もし悪世、煩悩の境のなかにあらば、境強きをもつてのゆゑに、みづから纏縛せられて三塗に淪溺し、ややもすれば数劫を経ん。 かくのごとく輪転して、無始よりこのかたいまだかつて休息せず。 いづれの時にか、よく衆生の苦を救ふことを得ん〉と。 これがために、浄土に生れて諸仏に親近し、無生忍を証して、まさによく悪世のなかにして、衆生の苦を救はんことを求むるなり」と。 {以上} - 余の経論の文、つぶさに『十疑』のごとし。
- 知りぬべし、念仏・修善を
業因 となし、往生極楽を華報 となし、証大菩提を果報 となし、利益衆生を本懐 となす。 たとへば、世間に木を植うれば華 を開き、華によりて菓 を結び、菓を得て餐受するがごとし。 (要集 P.930)
と、「利益衆生を本懐」となすが故に浄土へ往生するのであるとされている。源信僧都には、「我だにも まづ極楽に 生まれなば 知るも知らぬも 皆むかへてむ」(『新古今和歌集』)という句があり、衆生済度の為に往生をするとされた。
なお、ここでの修善は浄土真宗では、本願に選択された〔なんまんだぶ〕と称える以上の善はないのであるから念仏=修善を業因としてもよいであろう。
この言葉の出拠となった天台大師智顗の撰といわれる『淨土十疑論』の第「一疑」では、
- 問いて曰く。諸仏菩薩は大悲をもって業となし、もし衆生を救度せんと欲せば、ただ三界に願生して、五濁三塗の中において 苦の衆生を救うべし。何によりて浄土に生ずるを求むや。 自らその身を安んじ衆生を捨離す、則ちこれ大慈悲無くして専ら自利の為にして菩提の道を障(さ)ふ。 (『淨土十疑論』一疑)
と、浄土へ往生しようとする輩は、利他の大悲を忘れた自利の行者ではないのかとの疑いを出し、それに対して凡夫の菩薩道は衆生を済度する力を得る為に浄土へ往生するのだと答えている。参照→『淨土十疑論』
御開山は本願力回向による往生即成仏と還相の利他教化地の益をいわれるので少しく趣旨が違うのだが、先達の往生浄土に対する「還相の利益は利他の正意を顕すなり」(証巻 P.335) の考察を学ぶのも面白いものであろう。
なお、御開山は本願力回向の「願作仏心」「度衆生心」を横超の菩提心であるとされ、浄土真宗は願作仏心(往相)と度衆生心(還相)のご法義であるとされておられた。
(17)
(18)
(19)
- 信心すなはち一心なり
- 一心すなはち金剛心
- 金剛心は菩提心
- この心すなはち他力なり (高僧 P.581)
(20)
- 浄土の大菩提心は
- 願作仏心をすすめしむ
- すなはち願作仏心を
- 度衆生心となづけたり (正像 P.603)
(21)
- 度衆生心といふことは
- 弥陀智願の回向なり
- 回向の信楽うるひとは
- 大般涅槃をさとるなり (正像 P.603)