摂取不捨
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
(摂取して捨てたまはずから転送)せっしゅふしゃ
『観経』の真身観に説かれている。阿弥陀仏が、念仏の行者を
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
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- 摂取不捨(
摂 め取って捨てず)。
『観経』真身観で、無量寿仏(阿弥陀仏)の光明を讃嘆し、
- 一一光明 遍照十方世界 念仏衆生摂取不捨。
- 一々の光明は、あまねく十方世界を照らし、念仏の衆生を摂取して捨てたまはず。 (観経 P.102)
と、阿弥陀仏は念仏の衆生を、その光明(智慧)の中に摂(おさ)め取って決して捨てないと説かれている。 御開山は『尊号真像銘文』で、
と、摂取不捨であるから正定聚に定まるとされておられた。
御開山は『観経』に隠顕をみられるのだが、
- またこの『経』(観経)に真実あり。これすなはち金剛の真心を開きて、摂取不捨を顕さんと欲す。(化巻 P.393)
と、金剛の真心と摂取不捨を真実であるとみておられた。
また、「弥陀経讃」で、
とされて、摂取して捨てないから阿弥陀仏と名づけると讃詠されておられる。阿弥陀仏とは摂取不捨であるから阿弥陀仏という名義なのである。
このご和讃は、善導大師が『阿弥陀経』の、
- かの仏の光明無量にして、十方の国を照らすに障碍するところなし。このゆゑに号して阿弥陀とす。(小経 P.123)
の文と『観経』の
- 一一光明 遍照十方世界 念仏衆生摂取不捨。
- 一々の光明は、あまねく十方世界を照らし、念仏の衆生を摂取して捨てたまはず。(観経 P.102)
の文を『往生礼讃』で、
- 問ひていはく、なんがゆゑぞ阿弥陀と号(なづ)けたてまつる。答へていはく、『弥陀経』および『観経』にのたまはく、「かの仏の光明は無量にして十方国を照らすに障礙するところなし」
- ただ念仏の衆生を観(み)そなはして、摂取して捨てたまはざるがゆゑに阿弥陀と名づけたてまつる。(往生礼讃 P.662)
と、『阿弥陀経』と『観経』の意を合わせて引かれた文によっている。 なお高田派の国宝本同和讃の「摂取してすてざれば」の左訓には、
- オサメトル ヒトタビトリテナガクステヌナリ セフハモノヽニグルヲオワエトルナリ セフハオサメトル
- 摂(おさ)めとる。ひとたびとりて永く捨てぬなり。摂はものの逃ぐるを追はへ取るなり。摂はをさめとる、取は迎へとる。→摂取してすてざれば
とされておられる。普通に宗教とは、汝と我の対応関係上に成立するのだが、本願力の回向によって浄土でさとりが完成する浄土真宗では、「ものの逃ぐるを追はへ取る」という全分他力の逆対応のご法義であった。
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