操作

「観念法門 (七祖)」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

(結勧修行分)
(護念縁)
340行目: 340行目:
 
ば、この人、つねに六方恒河沙等の仏、ともに来りて[[護念]]したまふことを得。
 
ば、この人、つねに六方恒河沙等の仏、ともに来りて[[護念]]したまふことを得。
 
ゆゑに護念経と名づく」と。護念経の意は、またもろもろの[[悪鬼神]]をして[[便り]]
 
ゆゑに護念経と名づく」と。護念経の意は、またもろもろの[[悪鬼神]]をして[[便り]]
を得しめず、また[[横病、横死]]、横に厄難あることなく、一切の災障自然に消散
+
を得しめず、また[[横病横死|横病、横死]]、横に厄難あることなく、一切の災障自然に消散
 
す。至心ならざるを除く。これまたこれ現生護念増上縁なり。
 
す。至心ならざるを除く。これまたこれ現生護念増上縁なり。
  

2011年8月29日 (月) 14:03時点における版

 現存する善導大師の五部九巻の著作のうち、『観経疏』(「本疏」「解義分」)以外の4部(『法事讃』『観念法門』『往生礼讃』『般舟讃』)はいずれも浄土教の儀礼・実践を明らかにしたものであるので、「具疏」とも「行儀分」とも呼びならわされている。

 本書は、その首題に『観念阿弥陀仏相海三昧功徳法門』とあり、尾題にはこれに「経」の一字が付加されて『観念阿弥陀仏相海三昧功徳法門経』とあるが、一般には略して『観念法門』と称されている。阿弥陀仏の相好を観想する方法やその功徳について詳述した書で、全体は三昧行相分、五縁功徳分、結勧修行分の3段よりなっている。

 第1段の三昧行相分では、最初に『観経』『観仏三昧経』によって観仏三昧の法を明かし、次に『般舟三昧経』によって念仏三昧の法を説き、さらに諸経によって入道場念仏三昧の法や道場内懺悔発願の法について説き示している。第2段の五縁功徳分では、念仏行者が現世と来世に五種の利益を得ることを証明し、第3段の結勧修行分では、三つの問答を設けて信謗の損益や念仏の功徳、懺悔滅罪の方法について述べ、一部を結んでいる。

 なお、第2段の五縁功徳分については、その冒頭に「依経明五種増上縁義一巻(経によりて五種増上縁の義を明かす一巻)」という標題があることから、本来は独立した一巻の著作であり、流伝の過程で本書の中に収められたのではないかとする説がある。

観念法門

   観念阿弥陀仏相海三昧功徳法門 一巻

                           比丘善導集記


三昧行相分

【1】

『観経』によりて観仏三昧の法を明かす一。
『般舟経』によりて念仏三昧の法を明かす二。
によりて入道場念仏三昧の法を明かす三。
経によりて道場内懺悔発願の法を明かす四。

観仏三昧法

【2】 『観経』によりて観仏三昧の法を明かす。『観経』・『観仏三昧海経』に出でたり。

 阿弥陀仏の真金色の身、円光徹照し端正無比なるを観ずべし。行者等、一切 の時処、昼夜につねにこの想をなし、行住坐臥にもまたこの想をなせ。つね に意を住めて西に向かひて、かの聖衆、一切の雑宝荘厳等の相に及ぶまで、目 前に対するがごとくせよ、知るべし。

【3】 また行者、もし坐せんと欲せば、先づすべからく結跏趺坐すべし。左の 足、右のの上に安きてほかと斉しくし、右の足、左のの上に安きてほかと斉しくせよ。 右の手、左の手掌のなかに安きて、二大指の面あひ合せよ。次に身を端し正坐して、口を合し、眼を閉ぢよ。開くに似て開かず、合するに似て合せざれ。すなはち心眼をもつて、先づ仏の頂上の螺髻よりこれを観ぜよ。

頭皮は金色をなし、髪は紺青色をなす。一髪一螺巻きて頭上にあり。頭骨は雪色をなして内外明徹す。脳は玻瓈色のごとし。次に脳に十四の脈あり、一々の脈に十四道の光あり、髪根の孔よりほかに出でて髪螺を繞ること七匝して、還りて毛端の孔のなかより入ると想へ。 次に前の光二の眉の毛根の孔のなかより出でてほかに向かふと想へ。次に額広くして平正なる相を想へ。次に眉高くして長き相を想へ。なほ初月のごとし。次に眉間の白毫相を想へ。巻きて眉間にあり、その毛白く外実内虚にして金色の光を出し、毛端よりして出でてただちに自身を照らし来る。『観仏三昧経』(意)に説きたまふがごとし。

「もし人ありて一須臾のあひだも白毫相を観ずれば、もしは見、もしは見ざるも、すなはち九十六億那由他恒河沙微塵数劫の生死の重罪を除却す」と。つねにこの想をなせば、はなはだ障を除き罪を滅す。また無量の功徳を得て、諸仏歓喜した まふ。次に二の眼広長にして黒白分明なり、光明徹照すと想へ。次に鼻修く高く直きこと、鋳たる金鋌のごとしと想へ。次に面部平満にして[[唱あることなし]]と想へ。次に耳輪垂して孔に七毛あり、光毛内より出でてあまねく仏身を照らすと想へ。次に唇色赤好にして光明潤沢なりと想へ。次に歯白く斉密にして、白きこと珂月のごとくして内外映徹すと想へ。次に舌薄く広長にして柔軟なりと想へ。舌根の下に二の道あり、津液注ぎて咽筒に入りてただちに心王に入る。

仏心は紅蓮華のごとし、開して開せず、合して合せず。八万四千のあり、葉々あひ重なる。一々の葉に八万四千の脈あり、一々の脈に八万四千の光あり、一々の光百宝の蓮華をなす。一々の華の上に一の十地の菩薩あり、身みな金色なり、手に香華を持して心王を供養し、異口同音に心王を歌讃す。行者等この想をなす時、罪障を除滅し無量の功徳を得、諸仏・菩薩歓喜し、天神・鬼神も歓喜す。また心を抽きて上に向かひて、次に咽項の円かなる相、二の肩の円かなる相を想へ。次に両臂のく円かなる相を想へ。次に二の手掌平満にして千輻輪の相あり、十指繊長にして指間に網縵の相あり、甲赤銅の色をなせる相を想へ。また心を抽きて上に向かひて、次に仏の胸前平満の相 を想へ。万徳の字朗然なり。

次に腹平不現の相を想へ。次に臍円孔深の相を想へ。光明内外につねに照らす。次に陰蔵の相を想へ。平満にしてなほ十五日の夜の月のごとし、また腹背のごとく平処にして別なし。仏のたまはく、「もし男子・女人ありて多く色を貪欲するもの、すなはち如来の陰蔵の相を想へば、欲心すなはち止みて、罪障除滅し無量の功徳を得、諸仏歓喜し、天神・鬼神好 心をもつて影護して、長命安楽にして永く病痛なし」(観仏三昧経・意)と。次に両の、膝、膝骨円満なりと想へ。次に二の脛鹿王ののごとしと想へ。次に二の足跟象王の鼻のごとしと想へ。次に二の足趺高きこと亀王の背のごとしと想へ。次に足の十指長くして指間に網縵あり、甲赤銅の色をなすと想へ。次に仏の結跏趺坐の相を想へ。左の足、右のの上に安きてほかと斉しくし、右の足、左のの上に安きてほかと斉しと。次に二の足の下平らかにして千輻輪相あり、輻輞具足し、みな光明ありてあまねく十方のを照らすと想へ。頂上より下足の千輻輪相に至るこのかたを、名づけて「具足して仏の色身荘厳功徳を観ず」となす。これを順観と名づく。

【4】 また次に華座の法を想へ。次に華台の相を想へ。次に華葉を想へ。葉々 あひ重なりて八万四千重なり、一々の葉の上に百億の宝王ありて荘厳し、一々 の宝のなかに八万四千の光明ありて、上仏身を照らすと想へ。次に宝華の茎八 面にして、一々の方面に百千の衆宝をもつて荘厳し、大光明を放ちて上下とも に照らすと想へ。次に華の茎の下宝地により、地上の衆宝はみな八万四千の光 明を放ち、一々の光明は仏身を照らし、および十方の六道を照らすと想へ。ま た一切の光明、行者の自身を照触して来ると想へ。この想をなす時、罪障を除 滅し無量の功徳を得、諸仏・菩薩歓喜し、天神・鬼神もまた喜びて、日夜に身 に随ひて行者を影護す。行住坐臥につねに安穏を得、長命富楽にして永く病 痛なし。仏の教に準ずれば、浄土のなかの事を見ることを得。もし見ば、ただ みづから知りて人に向かひて説くことを得ざれ。すなはち大きに罪ありて、横 に悪病・短命の報を招く。もし教門に順ずれば、命終の時に臨みて阿弥陀仏 国に上品往生す。かくのごとく上下、前によりて十六遍観じて、しかして後 心を住めて眉間の白毫に向かひて、きはめてすべからく心を捉へて正しからし むべし。さらに雑乱することを得ざれ。すなはち定心を失して三昧成じがたし、 知るべし。これを観仏三昧の観法と名づく。一切の時中につねに回すれば浄土 に生ず。ただ『観経』の十三観によりて、安心してかならず疑はざることを得 よ。

念仏三昧法

【5】 またまうさく、行者浄土に生ぜんと欲せば、ただすべからく持戒・念仏 し、『弥陀経』を誦すべし。日別に十五遍すれば二年に一万を得、日別に三十 遍すれば一年に一万なり。日別に一万遍仏を念ぜよ。またすべからく時により て浄土の荘厳の事を礼讃すべし。大きにすべからく精進すべし。あるいは三 万・六万・十万を得るものは、みなこれ上品上生の人なり。自余の功徳もこ とごとく回して往生せよ、知るべし。以前は観仏三昧の法を明かす。

【6】 『般舟三昧経』の「請問品」(意)に、七日七夜入道場念仏三昧の法を明 かしたまふ。[『般舟三昧経』に出でたり。]  「仏、跋陀和に告げたまはく、〈三昧あり、十方諸仏悉在前立と名づく。よ くこの法を行ぜば、なんぢの所聞ことごとく得べし〉と。跋陀和、仏にまうさ く、〈願はくはためにこれを説きたまへ。過度するところ多くして十方を安穏 ならしめん。もろもろの衆生のために大明相を現じたまへ〉と。仏、跋陀和に 告げたまはく、〈三昧あり、定意と名づく。学者つねにまさに守りて習持して、 また余法に随ふことを得ざるべし。功徳のなかにもつとも第一なり〉」と。

【7】 次に「行品」(般舟三昧経・意)にのたまはく、「仏、跋陀和菩薩に告げた まはく、〈疾くこの定を得んと欲せば、つねに大信を立て法のごとくにこれを 行ぜばすなはち得べし。疑想、毛髪のごときばかりもあることなかれ。この定 意の法を、名づけて《菩薩の超衆行》となす。

一念を立して この法を信じ
所聞に随ひて その方を念じ
よろしく念を一にして 諸想を断ずべし
定信を立して 孤疑することなかれ
精進に行じて 懈怠することなかれ
想を有と無とに 起すことなかれ
進を念ずることなかれ 退を念ずることなかれ
前を念ずることなかれ 後を念ずることなかれ
左を念ずることなかれ 右を念ずることなかれ
無を念ずることなかれ 有を念ずることなかれ

遠を念ずることなかれ 近を念ずることなかれ
痛を念ずることなかれ 痒を念ずることなかれ
飢を念ずることなかれ 渇を念ずることなかれ
寒を念ずることなかれ 熱を念ずることなかれ
苦を念ずることなかれ 楽を念ずることなかれ
生を念ずることなかれ 老を念ずることなかれ
病を念ずることなかれ 死を念ずることなかれ
命を念ずることなかれ 寿を念ずることなかれ
貧を念ずることなかれ 富を念ずることなかれ
貴を念ずることなかれ 賤を念ずることなかれ
色を念ずることなかれ 欲を念ずることなかれ
小を念ずることなかれ 大を念ずることなかれ
長を念ずることなかれ 短を念ずることなかれ
好を念ずることなかれ 醜を念ずることなかれ
悪を念ずることなかれ 善を念ずることなかれ

瞋を念ずることなかれ 喜を念ずることなかれ
坐を念ずることなかれ 起を念ずることなかれ
行を念ずることなかれ 止を念ずることなかれ
経を念ずることなかれ 法を念ずることなかれ
是を念ずることなかれ 非を念ずることなかれ
捨を念ずることなかれ 取を念ずることなかれ
想を念ずることなかれ 識を念ずることなかれ
断を念ずることなかれ 着を念ずることなかれ
空を念ずることなかれ 実を念ずることなかれ
軽を念ずることなかれ 重を念ずることなかれ
難を念ずることなかれ 易を念ずることなかれ
深を念ずることなかれ 浅を念ずることなかれ
広を念ずることなかれ 狭を念ずることなかれ
父を念ずることなかれ 母を念ずることなかれ
妻を念ずることなかれ 子を念ずることなかれ

親を念ずることなかれ 疎を念ずることなかれ
憎を念ずることなかれ 愛を念ずることなかれ
得を念ずることなかれ 失を念ずることなかれ
成を念ずることなかれ 敗を念ずることなかれ
清を念ずることなかれ 濁を念ずることなかれ
諸念を断ちて 一期の念
意乱るることなかれ つねに精進にして
歳計することなかれ 日に倦むことなかれ
一念を立して 中忽することなかれ
睡眠を除きて その意を精にせよ
つねに独り処して 聚会することなかれ
悪人を避け 善友に近づき
明師に親しみて 視ること仏のごとくせよ
その志を執りて つねに柔弱なれ
平等を 一切に観ぜよ

郷里を避け 親族を遠ざけ
愛欲を棄てて 清浄を履み
無為を行じて 諸欲を断じ
乱意を捨てて 定行を習ひ
文慧を学すること かならず禅のごとくせよ
三穢を除き 六入を去れ
婬色を絶ち 衆愛を離るべし
財を貪じて 多く畜積することなかれ
知足を念じて 味を貪ることなかれ
衆生の命 つつしみて食することなかれ
衣は法のごとくにして 綺飾することなかれ
調戯することなかれ 驕慢することなかれ
自大することなかれ 貢高することなかれ
もし経を説かば まさに法のごとくすべし
身の本を了するに なほ幻のごとし

受陰することなかれ 入界することなかれ
は賊のごとし は蛇のごとし
無常となし 怳忽となす
常の主なし 本無なりと了す
因縁をもつて会し 因縁をもつて散ず
ことごとくこれを了するに 本無なりと知れども
慈哀を 一切に加へ
貧窮に施し 不還を済ふ
これを定となす 菩薩行の
至要の慧なり 衆行に超えたり〉と

【8】 仏、跋陀和に告げたまはく、〈この行法を持てばすなはち三昧を得て、 現在の諸仏ことごとく前にましまして立ちたまふ。それ比丘・比丘尼・優婆 塞・優婆夷ありて、法のごとく修行せんとせば、持戒まつたく具し、独り一処 に止まりて西方の阿弥陀仏を念ぜよ。いま現にかしこにまします。所聞に随ひ てまさに念ずべし。ここを去ること十万億の仏刹なり、その国を須摩提と名づ く。一心にこれを念ずること一日一夜、もしは七日七夜すべし。七日を過ぎを はりて後これを見たてまつらん。たとへば人の夢のうちに見るところのごとし。 昼夜を知らず、また内外を知らず。冥きなかにありて蔽礙するところあるがゆ ゑに見ざるがごとくにはあらず。跋陀和、四衆つねにこの念をなす時、諸仏の 境界のなかのもろもろの大山・須弥山、そのあらゆる幽冥の処、ことごとくた めに開避して蔽礙するところなし。この四衆は天眼を持ちて徹視するにあらず。 天耳を持ちて徹聴するにあらず、神足を持ちてその仏刹に到るにあらず、この 間において終りてかの間に生ずるにあらず、すなはちここにおいて坐してこれ を見る〉と。仏のたまはく、〈四衆この間の国土において阿弥陀仏を念ぜよ。 もつぱら念ずるがゆゑにこれを見たてまつることを得。すなはち問へ。《いか なる法を持ちてかこの国に生ずることを得る》と。阿弥陀仏報へてのたまはく、 《来生せんと欲せば、まさにわが名を念ずべし。休息することあることなくは、 すなはち来生することを得ん》〉と。仏のたまはく、〈専念するがゆゑに往生 を得。つねに、仏身には三十二相・八十種好ありて、巨億の光明徹照し、端正無比にして、菩薩僧のなかにましまして法を説きたまふことを念ずべし。色 を壊することなかれ。なにをもつてのゆゑに。色を壊せざるがゆゑに、仏の色 身を念ずるによるがゆゑに、この三昧を得〉」と。以上は念仏三昧の法を明か す。

入道場法

【9】 三昧の道場に入らんと欲する時は、もつぱら仏教の方法によれ。先づす べからく道場を料理し、尊像を安置して、香湯をもつて掃灑すべし。もし仏堂 なきも、浄房あらばまた得たり。掃灑すること法のごとくし、一の仏像を取り て西の壁に安置せよ。行者等、月の一日より八日に至り、あるいは八日より十 五日に至り、あるいは十五日より二十三日に至り、あるいは二十三日より三十 日に至るまで、月を四時に別つはなり。行者等みづから家業の軽重を量り、 この時のうちにおいて浄に入りて道を行ぜよ。もしは一日よりすなはち七日に 至るまで、ことごとく浄衣を須ゐ、鞋靺もまた新浄なるを須ゐよ。七日のうち みな、一食長斎を須ゐよ。軟餠・粗飯、随時の醤菜は倹素節量すべし。道場の なかにおいて、昼夜に心を束ね、相続して専心に阿弥陀仏を念ぜよ。心と声と 相続して、ただ坐し、ただ立し、七日のあひだ睡眠することを得ざれ。また時 によりて仏を礼し、経を誦すべからず。数珠もまた捉るべからず。ただ合掌し て仏を念ずと知り、念々に見仏の想をなせ。仏のたまはく、「阿弥陀仏の真金 色の身、光明徹照し、端正無比にして、心眼の前にましますと想念せよ」と。 まさしく仏を念ずる時、もし立せばすなはち立して一万・二万を念じ、もし坐 せばすなはち坐して一万・二万を念ぜよ。道場のうちにおいては、頭を交へて ひそかに語ることを得ざれ。

【10】 昼夜あるいは三時・六時に、諸仏、一切の賢聖天曹・地府、一切の業道に表白して、一生よりこのかた身口意業の所造の衆罪を発露懺悔せよ。事、 実によりて懺悔しをはりて、また法によりて仏を念ぜよ。所見の境界はたやす く説くことを得ず。善ならばみづから知り、悪ならば懺悔せよ。酒・肉・五辛 は、誓ひて願を発して手に捉らざれ、口に喫らはざれ。もしこの語に違せば、 すなはち身口にともに悪瘡を着けんと願ぜよ。あるいは『阿弥陀経』を誦する こと十万遍を満たさんと願ぜよ。日別に仏を念ずること一万遍、経を誦するこ と日別に十五遍、あるいは誦すること二十遍・三十遍、力の多少に任すべし。 浄土に生ずることを誓ひ、仏の摂受を願ぜよ。

臨終行儀

【11】 また行者等もしは病み、病まざるも、命終せんと欲する時、もつぱら 上の念仏三昧の法によりて、身心を正当にして、面を回らして西に向かへて、 心もまた専注して阿弥陀仏を観想し、心口相応して声々絶ゆることなく、決 定して往生の想、華台の聖衆来りて迎接する想をなせ。病人もし前の境を見ば、 すなはち看病の人に向かひて説け。すでに説くを聞きをはらば、すなはち説に よりて録記せよ。また病人もし語ることあたはずは、看病の人かならずすべか らくしばしば病人に問ふべし、いかなる境界をか見たると。もし罪相を説かば、 傍人すなはちために念仏し、助けて同じく懺悔してかならず罪滅せしめよ。も し罪滅することを得ば、華台の聖衆念に応じて現前したまはん。前に準じて抄 記すべし。また行者等、眷属六親もし来りて看病せば、酒・肉・五辛を食せる 人をあらしむることなかれ。もしあらば、かならず病人の辺に向かふことを得 ざれ。すなはち正念を失ひ、鬼神交乱し、病人狂死して三悪道に堕せん。願 はくは行者等よくみづからつつしみて仏教を奉持し、同じく見仏の因縁をなせ。 以前はこれ入道場および看病人の法用なり。

五縁功徳分

【12】 経によりて五種増上縁の義を明かす一巻。

『無量寿経』による一。

十六観経』による二。
四紙阿弥陀経』による三。
『般舟三昧経』による四。
『十往生経』による五。
『浄土三昧経』による六。

述意

【13】 つつしみて釈迦仏の教、六部の往生経等によりて、阿弥陀仏を称念し て浄土に生ぜんと願ずるもの、現生にすなはち延年転寿を得て、九横の難に遭 はざることを顕明す。一々つぶさには下の五縁義のなかに説くがごとし。  問ひていはく、仏、一切の衆生に菩提心を発して西方の阿弥陀仏国に生ぜん と願ぜよと勧めたまふ。また阿弥陀の像を造りて称揚・礼拝し、香華供養し、 日夜観想して絶えざれと勧めたまふ。またもつぱら弥陀仏の名を念ぜよと勧め たまふに、一万・二万・三万・五万、乃至十万するものあり、あるいは『弥陀 経』を誦せよと勧めたまふに、十五・二十・三十・五十、乃至一百して、十万 遍を満つるものあり。現生になんの功徳をか得る。百年捨報の以後、なんの利 益かある。浄土に生ずることを得やいなや。答へていはく、現生および捨報に 決定して大功徳利益あり。  仏教に准依して五種の増上利益の因縁を顕明せん。一には滅罪増上縁、二には護念得長命増上縁、三には見仏増上縁、四には摂生増上縁、五には証生増上縁なり。

滅罪縁

【14】 滅罪増上縁といふは、すなはち『観経』の下品上生の人のごときは、 一生つぶさに十悪の重罪を造る。その人病を得て死せんと欲するに、善知識の、 教へて弥陀仏を称すること一声せしむるに遇ふ。すなはち五十億劫の生死の重 罪を除滅す。すなはちこれ現生滅罪増上縁なり。  また下品中生の人のごときは、一生つぶさに仏法のなかの罪を造る。斎を破し戒を破し、仏法僧物を食用して懺愧を生ぜず。その人病を得て死せんと欲するに、地獄の衆火一時にともに至る。善知識の、ために弥陀仏の身相功徳、国土の荘厳を説くに遇ふ。罪人聞きをはりてすなはち八十億劫の生死の罪を除き、地獄すなはち滅す。またこれ現生滅罪増上縁なり。

 また下品下生の人のごときは、一生つぶさに五逆極重の罪を造る。地獄を 経歴して苦を受くること窮まりなし。罪人病を得て死せんと欲するに、善知 識の、教へて弥陀仏の名を称すること十声せしむるに遇ふ。声々のうちにお いて八十億劫の生死の重罪を除滅す。これまたこれ現生滅罪増上縁なり。

【15】 またもし人ありて、『観経』等によりて浄土荘厳の変を画造して、日夜 に宝地を観想すれば、現生に念々に八十億劫の生死の罪を除滅す。  また経によりて変を画き、宝樹・宝池・宝楼の荘厳を観想すれば、現生に無 量億阿僧祇劫の生死の罪を除滅す。  また華座荘厳観によりて、日夜に観想すれば、現生に念々に五十億劫の生死 の罪を除滅す。  また経によりて像観真身観観音・勢至等の観を観想すれば、現生に念々 のうちにおいて無量億劫の生死の罪を除滅す。上の所引のごときは、ならびに これ現生滅罪増上縁なり。

護念縁

【16】 また護念増上縁といふは、すなはち第十二の観(観経・意)のなかに説き てのたまふがごとし。「もし人ありて、一切の時処、日夜に心を至して弥陀の 浄土の二報荘厳を観想し、もしは見、見ざるも、無量寿仏無数の化仏を化作し、 観音・大勢至また無数の化身をなして、つねにこの行人の所に来至したまふ」 と。またこれ現生護念増上縁なり。  また『観経』(意)の下の文のごとし。「もし人ありて、心を至してつねに阿 弥陀仏および二菩薩を念ずれば、観音・勢至つねに行人のために勝友知識とな りて随逐影護したまふ」と。これまたこれ現生護念増上縁なり。  また第九の真身観(同・意)に説きてのたまふがごとし。「弥陀仏は金色の身 なり。毫相の光明あまねく十方の衆生を照らす。身の毛孔の光またあまねく衆 生を照らす。円光またあまねく衆生を照らす。八万四千の相好等の光またあま ねく衆生を照らす。また前のごとき身相等の光、一々にあまねく十方世界を照 らすに、ただもつぱら阿弥陀仏を念ずる衆生のみありて、かの仏の心光つねに この人を照らして、摂護して捨てたまはず」と。総じて余の雑業の行者を照摂 することを論ぜず。これまたこれ現生護念増上縁なり。

【17】 また『十往生経』(意)に説きたまふがごとし。「仏、山海慧菩薩およ び阿難に告げたまはく、〈もし人ありてもつぱら西方の阿弥陀仏を念じて往生 を願ずれば、われいまより以去、つねに二十五の菩薩をして行者を影護せしめ て、悪鬼・悪神をして行者を悩乱せしめず、日夜につねに安穏なることを得し む〉」と。これまたこれ現生護念増上縁なり。

【18】 また『弥陀経』(意)に説きたまふがごとし。「もし男子・女人ありて、 七日七夜および一生を尽して、一心にもつぱら阿弥陀仏を念じて往生を願ずれ ば、この人、つねに六方恒河沙等の仏、ともに来りて護念したまふことを得。 ゆゑに護念経と名づく」と。護念経の意は、またもろもろの悪鬼神をして便り を得しめず、また横病、横死、横に厄難あることなく、一切の災障自然に消散 す。至心ならざるを除く。これまたこれ現生護念増上縁なり。

【19】 また『般舟三昧経』の「行品」(意)のなかに説きてのたまふがごとし。 「仏、跋陀和に告げたまはく、〈もし人ありて、七日七夜道場のうちにありて、 諸縁の事を捨て、睡臥を除去し、一心にもつぱら阿弥陀仏の真金色の身を念じ て、あるいは一日・三日・七日、あるいは二七日・五・六・七七日、あるいは 百日に至り、あるいは一生を尽して、心を至して観仏し、および口称心念すれ ば、仏すなはち摂受したまふ〉」と。すでに摂受を蒙る。さだめて知りぬ、罪 滅して浄土に生ずることを得。「仏のたまはく、〈もし人もつぱらこの念弥陀 仏三昧を行ずれば、つねに一切の諸天および四天大王・竜神八部の随逐影護し、 愛楽相見することを得て、永くもろもろの悪鬼神、災障・厄難をもつて横に悩 乱を加ふることなし〉」(般舟三昧経・意)と。つぶさに「護持品」のなかに説き たまふがごとし。これまたこれ現生護念増上縁なり。

【20】 また『灌頂経』によるに、第三巻(意)に説きてのたまはく、「もし人 三帰五戒を受持すれば、仏、天帝に勅したまはく、〈なんぢ、天神六十一人を 差はして日夜年月に受戒の人を随逐し守護して、もろもろの悪鬼神をして横に あひ悩害することを獲しむることなかれ〉」と。これまたこれ現生護念増上縁 なり。

【21】 また『浄度三昧経』に説きてのたまふがごとし。「仏、瓶沙(頻婆娑羅) 大王に告げたまはく、〈もし男子・女人ありて、月々の六斎日および八王日に おいて、天曹・地府、一切の業道に向かひて、しばしば過を首して斎戒を受持 すれば、仏、六欲天王に勅したまはく、《おのおの二十五の善神を差はして、 つねに来りて持戒の人を随逐し守護せしむ。またもろもろの悪鬼神の横に来り て悩害することあらしめず。また横病・死亡・災障なく、つねに安穏を得し む》〉」と。これまたこれ現生護念増上縁なり。

【22】 またもろもろの行者にまうさく、ただ今生に日夜相続してもつぱら弥陀 仏を念じ、もつぱら『弥陀経』を誦し、浄土の聖衆・荘厳を称揚礼讃して生 ずることを願ぜんと欲するものにして、日別に経を誦すること十五遍、二十・ 三十遍以上のもの、あるいは誦すること四十・五十・百遍以上のものは、願じ て十万遍を満たせ。また弥陀の浄土の依正二報の荘厳を称揚し礼讃し、また三 昧の道場に入るを除きて、日別に弥陀仏を念ずること一万して、畢命相続する ものは、すなはち弥陀の加念を蒙りて罪障を除くことを得。また仏、聖衆とつ ねに来りて護念したまふことを蒙る。すでに護念を蒙りぬれば、すなはち延年転寿、長命安楽なることを得。因縁の一々つぶさには『譬喩経』・『惟無三昧 経』・『浄度三昧経』等に説きたまふがごとし。これまたこれ現生護念増上縁な り。

見仏縁

【23】 また見仏三昧増上縁といふは、すなはち『観経』(意)に説きてのたまふがごとし。「摩竭提国王の夫人を韋提希と名づく。つねに宮内にありて、つね に仏(釈尊)を見たてまつらんと願じて、はるかに耆闍崛山に向かひて、悲泣 して敬礼す。仏はるかに念を知りて、すなはち耆山より没して王宮に出現した まふ。夫人すでに頭を挙げてすなはち世尊を見たてまつるに、身紫金色にして 宝蓮華に坐したまひ、目連・阿難左右に立侍し、釈・梵空に臨みて華を散じて 供養す。夫人、仏を見たてまつりて、身を挙げて地に投げ、号泣して仏に向か ひて哀れみを求めて懺悔す。〈ただ願はくは如来(釈尊)、われを教へて清浄業処を観ぜしめたまへ〉」と。またこの経証のごときは、ただ夫人のみ心至りて 見仏するにあらず、また未来の凡夫のために教を起せり。ただ心に見たてまつ らんと願ずるものありて、もつぱら夫人によりて心を至して仏を憶すれば、さ だめて見たてまつること疑なし。これすなはちこれ弥陀仏の三念願力ほかに加 するがゆゑに見仏せしめたまふことを得。三力といふは、すなはち『般舟三昧 経』(意)に説きてのたまふがごとし。「一には大誓願力をもつて念を加したま ふがゆゑに見仏することを得。二には三昧定力をもつて念を加したまふがゆゑ に見仏することを得。三には本功徳力をもつて念を加したまふがゆゑに見仏す ることを得」と。以下の見仏縁のなかも、この義に例同す。ゆゑに見仏三昧増 上縁と名づく。

【24】 問ひていはく、夫人は福力強勝にして、仏の加念を蒙るがゆゑに見仏す。 末法の衆生は[[罪]]深重なり、なにによりてか夫人と同例することを得ん。また この義は甚深広大なり。一々につぶさに仏経を引きてもつて明証となせ。答 へていはく、仏はこれ三達の聖人六通無障なり。機を観じて教を備へ、浅深 を択びたまはず。ただまことに帰すれば、なんぞ見たてまつらざることを疑は ん。すなはち『観経』(意)の下に説きてのたまふがごとし。「仏、韋提を讃じ たまはく、〈快くこの事を問へり。阿難、受持して広く多衆のために仏語を宣 説すべし。如来(釈尊)いま韋提希および未来世の一切衆生を教へて西方極楽 世界を観ぜしむ。仏願力をもつてのゆゑにかの国土を見ること、明鏡を執り てみづから面像を見るがごとくならん〉」と。またこの経をもつて証す。また これ弥陀仏の三力ほかに加するがゆゑに見仏することを得。ゆゑに見仏浄土三 昧増上縁と名づく。

【25】 また下の『経』(同・意)にのたまふがごとし。「仏、韋提に告げたまは く、〈なんぢはこれ凡夫にして心想また劣なり、遠く見ることあたはず。諸仏 如来に善方便ましまして、なんぢらをして見しむることを致す〉と。夫人、仏 にまうしてまうさく、〈われいま仏力によるがゆゑにかの国土を見たてまつる。 仏滅後のもろもろの衆生等のごときは、濁悪不善にして五苦に逼めらる。いか んが極楽世界を見ることを得ん〉と。仏すなはち告げてのたまはく、〈韋提、 なんぢおよび衆生、専心に念を計けて、西方の瑠璃地下の一切の宝幢、地上の 衆宝、室内の荘厳等を想ふべし〉」と。専心に意を注むれば、また上の夫人に 同じて見ることを得べし。すなはちのたまはく(観経・意)、「一々にこれを観 じてきはめて了々ならしめよ。閉目開目にみな見ることを得しむ。かくのご とく想ふものを名づけて粗見となす。これを覚想中の見といふ。ゆゑに粗見と いふ。もし定心三昧および口称三昧を得れば、心眼すなはち開けてかの浄土の 一切の荘厳を見ること、説くとも窮尽することなし」と。またこの経をもつて 証す。一切の凡夫ただ心を傾くれば、さだめて見の義あり、知るべし。たとひ 見聞のものありとも、驚怪するを須ゐず。なにをもつてのゆゑに。すなはち弥 陀仏の三昧力ほかに加するによるがゆゑに見ることを得。ゆゑに見仏浄土三昧 増上縁と名づく。

【26】 また下の華座観(同・意)のなかに説きてのたまふがごとし。「仏、阿 難・韋提に告げたまはく、〈仏まさになんぢがために苦悩を除く法を説くべし。 なんぢまさに広く大衆のために分別し解説すべし〉と。この語を説きたまふ時、 無量寿仏、観音・勢至声に応じて来現して空中に住立したまふ。韋提見たて まつりてすなはち礼す。礼しをはりて釈迦仏にまうしてまうさく、〈われいま 仏力によるがゆゑに無量寿仏および二菩薩を見たてまつることを得たり。仏滅 後のもろもろの衆生等のごときは、いかんが阿弥陀仏および二菩薩を観見した てまつるべき〉と。仏すなはち告げてのたまはく、〈なんぢおよび衆生かの仏 を観たてまつらんと欲せば、まさに想念を起すべし。七宝の地の上に蓮華の想 をなせ。華想成じをはりなば、次にまさに仏(阿弥陀仏)を想ふべし。仏を想ふ 時、この心すなはち三十二相になると想へ。頂上より下跏趺坐に至るこのか た、一々の身分またみなこれを想へ。心想に随ひて、時に仏身すなはち現ず〉」 と。これはこれ弥陀の三力ほかに加してすなはち見仏することを得。また見仏 三昧増上縁と名づく。

【27】 また下の『経』(観経・意)にのたまふがごとし。「かの仏を想ふものは、 先づまさに像を想ふべし。一の金像を見るに、かの華上に坐したまへり。すで に想見しをはりて、心眼すなはち開き、了々分明にかの国の一切の荘厳を見 るに及ぶ」と。これまたこれ弥陀の三力ほかに加するがゆゑに見仏す。ゆゑに 見仏三昧増上縁と名づく。  また下の『経』(観経・意)にのたまふがごとし。「次に二菩薩(観音・勢至) およびもろもろの光明を想へ。了々として見る。この事を見る時、行者すな はち三昧定中において、まさに水流・光明・荘厳等の説法の声を聞くべし。 出定・入定に、行者つねに妙法を聞く」と。これまたこれ弥陀仏の三力ほか に加するがゆゑに見仏す。ゆゑに見仏三昧増上縁と名づく。

【28】 また下の真身観(同・意)のなかに説きてのたまふがごとし。「仏、阿難 に告げたまはく、〈像観成じをはりて、次にさらに無量寿仏の身の真金色、眉 間の毫相円光の化仏および相好等の光を観ずべし。ただまさに憶想して、心 眼をもつて見たてまつらしむべし。見をはりて、すなはち十方一切の諸仏を見 たてまつる。ゆゑに念仏三昧と名づく〉」と。この文をもつて証す。またこれ 弥陀仏の三力ほかに加するがゆゑに見仏す。ゆゑに見仏三昧増上縁と名づく。  また下の『経』(同・意)にのたまふがごとし。「仏のたまはく、〈このゆゑ に智者一心にあきらかに無量寿仏を観ぜば、一の相好より入れ。ただ眉間の白 毫を観じてきはめて明了ならしむれば、八万四千の相好自然にこれを見る。 見をはりて、すなはち十方一切の諸仏を見たてまつる。諸仏の前において次第 に授記せらる〉」と。またこの経をもつて証す。またこれ弥陀仏の三力ほかに 加するがゆゑに、凡夫をして専心に想はしむることを得れば、さだめて見仏す ることを得。また見仏三昧増上縁と名づく。

【29】 また観音・勢至・普・雑等の観、および下の九品の人のごとし。「一生 起行しすなはち七日・一日、十声・一声等に至るまで、命終らんと欲する時仏 を見たてまつらんと願ずるもの、もしは現生にすなはち善知識に遇ひ、行人み づからよく心口に弥陀仏を称念すれば、仏、すなはち聖衆・華台と来現したま ふ。行人、仏を見たてまつり、また聖衆・華台等を見ん」(観経・意)と。また この経をもつて証す。またこれ弥陀仏の三力ほかに加するがゆゑに見仏するこ とを得。ゆゑに見仏三昧増上縁と名づく。

【30】 また下の『経』(同・意)にのたまふがごとし。「仏、阿難に告げたまは く、〈この経を観極楽国土無量寿仏及観世音大勢至菩薩経と名づく。なんぢま さに受持して忘失せしむることなかるべし。この三昧を行ずるものは、現身に 無量寿仏および二菩薩を見たてまつることを得〉」と。またこの経をもつて証 す。またこれ弥陀仏の三力ほかに加して、凡夫の念ずるものをして自の三心力 に乗ずるがゆゑに見仏することを得しむることを致す。至誠心・信心・願心を 内因となし、また弥陀の三種の願力を藉りてもつて外縁となす。外内の因縁和 合するがゆゑにすなはち見仏することを得。ゆゑに見仏三昧増上縁と名づく。

【31】 また『般舟三昧経』(意)にのたまふがごとし。「仏、跋陀和菩薩に告げ たまはく、〈三昧あり、十方諸仏悉在前立と名づく。もし疾くこの三昧を得ん と欲するものは、つねにまさに守りて習持して疑想毛髪のごときばかりもある ことを得ざるべし。もし比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷この三昧を行学せんと 欲するものは、七日七夜睡眠を除去して、もろもろの乱想を捨て、独り一処に 止まりて、西方の阿弥陀仏の身、真金色にして三十二相あり、光明徹照して 端正無比なるを念ずべし〉と。一心に観想して心念口称し、念々に絶えざるも のは、仏のたまはく、〈七日以後にこれを見る〉と。たとへば人ありて夜星宿 を観るがごとし。一星すなはちこれ一仏なり。もし四衆ありてこの観をなさば、 一切の星を見るがごとく、すなはち一切の仏を見たてまつらん」と。またこの 経をもつて証す。またこれ弥陀仏の三力ほかに加するがゆゑに見仏す。「三昧」 といふは、すなはちこれ念仏の行人心口に称念してさらに雑想なく、念々心を 住め声々相続すれば、心眼すなはち開けて、かの仏了然として現じたまふを 見たてまつることを得。すなはち名づけて定となし、また三昧と名づく。まさ しく見仏する時、また聖衆およびもろもろの荘厳を見る。ゆゑに見仏浄土三昧 増上縁と名づく。

【32】 また『月灯三昧経』にのたまふがごとし。「仏の相好および徳行を念じ て、よく諸根をして乱動せざらしめ、心に迷惑なく法と合して聞くことを得れ ば、知を得ること大海のごとし。智者この三昧に住して、念を摂して行ずれば、 経行の所においてよく千億のもろもろの如来を見たてまつり、また無量恒沙 の仏に遇ひたてまつる」と。またこの経をもつて証す。またこれ見仏三昧増上 縁なり。

【33】 また『文殊波若経』(意)にのたまふがごとし。「文殊、仏にまうしてま うさく、〈いかんが一行三昧と名づくる〉と。仏のたまはく、〈もし男子・女 人空閑の処にありて、もろもろの乱意を捨て、仏の方所に随ひて身を端し正向 して、相貌を取らずもつぱら仏名を称して、念休息することなければ、すなは ち念のうちにおいてよく過・現・未来の三世の諸仏を見たてまつる〉」と。ま たこの経をもつて証す。すなはちこれ諸仏同体の大悲、念力加備して見しめた まふ。これまたこれ凡夫の見仏三昧増上縁なり。

摂生縁

【34】 また摂生増上縁といふは、すなはち『無量寿経』(上・意)の四十八願のなかに説きたまふがごとし。「仏のたまはく、〈もしわれ成仏せんに、十方 の衆生、わが国に生ぜんと願じて、わが名字を称すること、下十声に至るまで、 わが願力に乗じて、もし生ぜずは、正覚を取らじ〉」(第十八願)と。これすなは ちこれ往生を願ずる行人、命終らんと欲する時、願力摂して往生を得しむ。ゆ ゑに摂生増上縁と名づく。  またこの『経』(大経)の上巻(意)にのたまはく、「もし衆生ありて西方の 無量寿仏国に生ずることを得るものは、みな弥陀仏の大願等の業力に乗じて増 上縁となす」と。すなはち証となす。またこれ摂生増上縁なり。  またこの『経』(同)の下巻(意)の初めにのたまはく、「仏説きたまはく、 〈一切衆生の根性不同にして上・中・下あり。その根性に随ひて、仏(釈尊)、 みな勧めてもつぱら無量寿仏の名を念ぜしめたまふ。その人、命終らんと欲す る時、仏(阿弥陀仏)、聖衆とみづから来りて迎接して、ことごとく往生を得 しむ〉」と。これまたこれ摂生増上縁なり。

【35】 また『観経』の第十一観および下の九品のごとし。みなこれ仏の自説な り。定散二行を修する人、命終の時、一々にことごとくこれ弥陀世尊、みづ から聖衆・華台とともに授手迎接して、往生せしめたまふ。これまたこれ摂 生増上縁なり。

【36】 また『四紙弥陀経』(意)のなかに説きたまふがごとし。「仏のたまはく、 〈もし男子・女人ありて、あるいは一日七日、一心にもつぱら弥陀仏の名を念 ずれば、その人、命終らんと欲する時、阿弥陀仏、もろもろの聖衆とみづから 来り迎接して、すなはち西方極楽世界に往生することを得しめたまふ〉と。釈 迦仏のたまはく、〈われこの利を見るがゆゑにこの言を説く〉」と。すなはち証 となす。これまたこれ摂生増上縁なり。

【37】 また四十八願(大経・上意)のなかに説きてのたまふがごとし。「たとひ われ仏を得たらんに、十方の衆生、菩提心を発し、もろもろの功徳を修し、心 を至して発願してわが国に生ぜんと欲せん。命終の時に臨みて、われ大衆と その前に現ぜずは、正覚を取らじ」(第十九願)と。これまたこれ摂生増上縁 なり。  また下の願(大経・上意)にのたまふがごとし。「たとひわれ仏を得たらんに、 十方の衆生、わが名号を聞きて、念をわが国に計け、心を至して回向してわが 国に生ぜんと願ぜん。果遂せずは、正覚を取らじ」(第二十願)と。これまたこ れ摂生増上縁なり。  また下の願(同・上意)にのたまふがごとし。「たとひわれ仏を得たらんに、 十方世界に、それ女人ありて、わが名字を聞きて、歓喜信楽し、菩提心を発し て、女身を厭悪せん。命終の後に、また女身とならば、正覚を取らじ」(第三 十五願)と。義にいはく、すなはち弥陀の本願力によるがゆゑに、女人、仏の 名号を称すれば、まさしく命終の時すなはち女身を転じて男子となることを 得。弥陀手を接し、菩薩身を扶けて宝華の上に坐せしむ。仏に随ひて往生し、 仏の大会に入りて無生を証悟す。また一切の女人もし弥陀の名願力によらずは、 千劫・万劫・恒河沙等の劫にも、つひに女身を転ずることを得べからず、知る べし。いまあるいは道俗ありて、女人浄土に生ずることを得ずといはば、これ はこれ妄説なり、信ずべからず。またこの経をもつて証す。またこれ摂生増 上縁なり。

証生縁

【38】 また証生増上縁といふは、問ひていはく、いますでに弥陀の四十八願、 一切衆生を摂して浄土に生ずることを得しむといはば、いまだ知らず、なんら の衆生を摂してか生ずることを得しむる。またこれ何人か得生を保証するや。 答へていはく、すなはち『観経』(意)に説きてのたまふがごとし。「仏、韋提 に告げたまはく、〈なんぢいま知るやいなや。阿弥陀仏、ここを去りたまふこ と遠からず。なんぢまさに念を計けてあきらかにかの国を観ずべし。浄業成 ずるものなり。また未来世の一切の凡夫をして、西方極楽国土に生ずることを 得しめん〉」と。いまこの経をもつて証す。ただこれ仏滅後の凡夫、仏願力に 乗じてさだめて往生を得。すなはちこれ証生増上縁なり。

【39】 また問ひていはく、釈迦教を説きて衆生を示悟したまふ。なんがゆゑぞ 一種の仏法にすなはち信不信ありて、ともにあひ譏毀するはなんの所以かある。 答へていはく、凡夫の機性にその二種あり。一には善性人、二には悪性人なり。 その善性人とは、一には聞きてすなはち悪を捨てて善を行ずる善人、二には邪 を捨てて正を行ずる善人、三には虚を捨てて実を行ずる善人、四には非を捨て て是を行ずる善人、五には偽を捨てて真を行ずる善人なり。この五種の人もし よく仏に帰すれば、すなはちよく自利利他す。家にありては孝を行じ、ほかに ありてはまた他人を利し、望にありては信を行じ、朝にありては君子と名づけ、 君に事へてはよく忠節を尽す。ゆゑに自性善人と名づくるなり。悪性人といふ は、一にはすなはち真を謗じて偽を行ずる悪人、二には正を謗じて邪を行ずる 悪人、三には是を謗じて非を行ずる悪人、四には実を謗じて虚を行ずる悪人、 五には善を謗じて悪を行ずる悪人なり。またこの五種の人もし願じて仏に帰せ んと欲するも、自利することあたはず、また他人を利せず。また家にありては 不孝、望にありては信なく、朝にありては小児と名づけ、君に事へてはすなは ちつねに諂佞を懐く。これを不忠といふ。またこの人等、他の賢徳善人の身の 上において、ただよく是を敗り非を成じ、ただ他の悪のみを見る。ゆゑに自性 悪人と名づくるなり。また上は諸仏・賢聖より、人天・六道一切の良善に至る まで、これらの悪人をば譏りて恥辱するところなり、もろもろの有智のもの、 知るべし。いま一々につぶさに善悪二性の人を引く。道理顕然なり。上の問に 答へをはりぬ。

【40】 また下の『経』(観経・意)にのたまはく、「仏、韋提に告げたまはく、 〈なんぢおよび衆生、専心に念を一処に計けて、西方の地下の金幢、地上の衆 宝荘厳を想ふべし〉」と。下十三観に至るこのかたは、総じて上の韋提の二請 に答へ、もつて明証となす。〔釈尊は〕善悪の凡夫をして回心し起行して、こ とごとく往生を得しめんと欲す。これまたこれ証生増上縁なり。  また下の『経』(同・意)にのたまふがごとし。「衆宝国土に五百億の宝楼あ り。その楼閣のなかに無量の天人ありて、天の伎楽をなす。この衆音のなかに、 みな仏法僧を念ずることを説く。この想成じをはれば、命終らんと欲する時、 さだめてかの国に生ず」と。またこの経をもつて証す。またこれ証生増上縁 なり。  また下の『経』(同・意)にのたまふがごとし。「仏、阿難に告げたまはく、 〈かくのごとき妙華はこれ本法蔵比丘の願力の所成なり。もしかの仏を念ぜん と欲せば、まさに先づこの華座の想をなすべし。一々にこれを観じてみな分 明ならしめよ。この想成ずるものは、必定してまさに極楽世界に生ずべし〉」 と。またこの経をもつて証す。またこれ証生増上縁なり。

【41】 また『無量寿経』(下・意)にのたまふがごとし。「仏、阿難に告げたま はく、〈それ衆生ありてかの国に生ずるものは、みなことごとく正定の聚に住 す。十方の諸仏みなともにかの仏を讃歎したまふ。もし衆生ありて、その名号 を聞きて、信心歓喜し、すなはち一念に至るまでせん。かの国に生ぜんと願ず れば、すなはち往生を得て不退転に住す〉」と。またこの経をもつて証す。ま たこれ証生増上縁なり。

【42】 また『観経』の九品にのたまふがごとし。一々の品のなかに告ぐるとこ ろの衆生は、みなこれもしは仏の在世、もしは仏滅後の五濁の凡夫なり。善知 識の、勧めて信を生ぜしむるに遇ひて、持戒・念仏し、誦経礼讃して決定し て往生す。仏願力をもつてことごとく往生を得。これまたこれ証生増上縁な り。

【43】 また『弥陀経』(意)にのたまふがごとし。「六方におのおの恒河沙等の 諸仏ましまして、みな舌を舒べてあまねく三千世界に覆ひて、誠実の言を説き たまはく、〈もしは仏(釈尊)の在世、もしは仏滅後の一切の造罪の凡夫、た だ心を回らして阿弥陀仏を念じて、浄土に生ぜんと願ずれば、上百年を尽し、 下七日・一日、十声・三声・一声等に至るまで、命終らんと欲する時、仏、聖 衆とみづから来り迎接して、すなはち往生を得しむ〉」と。上の六方等の仏の 舒舌のごときは、さだめて凡夫のために証をなしたまふ。罪滅して生ずること を得と。もしこの証によりて生ずることを得ずは、六方諸仏の舒舌、一たび口 より出でて以後、つひに口に還り入らずして、自然に壊爛せん。これまたこれ 証生増上縁なり。

【44】 また敬ひて一切の往生人等にまうす。もしこの語を聞かば、すなはち声 に応じて悲しみて涙を雨らし、連劫累劫に身を粉にし骨を砕きて仏恩の由来を 報謝して、本心に称ふべし。あにあへてさらに毛髪も憚る心あらんや。またも ろもろの行人等にまうす。一切罪悪の凡夫すらなほ罪滅を蒙り、摂して生ずる ことを得しむと証す、いかにいはんや聖人生ぜんと願じて去くことを得ざら んや。上来総じて前の問に、「なんらの衆生を摂してか浄土に生ずることを得 しむる」といふことに答ふ。五種増上縁の義竟りぬ。

結勧修行分

【45】 問ひていはく、釈迦出現して五濁の凡夫を度せんがために、すなはち慈 悲をもつて、十悪の因、三塗の苦を報果することを開示したまひ、また平等の 智慧をもつて、人天回して弥陀仏国に生ずることを悟入せしめたまふ。諸経に 頓教の文義歴然なり。いますなはち人ありて公然として信ぜず、ともにあひ誹毀するものは、いまだ知らず、この人現生および死後になんの罪報をか得る。 つぶさに仏経を引きて、それがために証をなして改悔を生じ、仏の大乗を信じ、 回して浄土に生ぜしめて、すなはち利益をなせ。答へていはく、仏経によりて 答ふれば、またこの悪人は上の五悪性分のなかにすでに説きをはるがごとし。 いまただちに仏経を引きてもつて明証となさん。すなはち『十往生経』(意) にのたまふがごとし。「仏、山海慧菩薩に告げたまはく、〈なんぢいま一切衆 生を度せんがために、まさにこの経を受持すべし〉と。仏、また山海慧に告げ たまはく、〈この経を名づけて観阿弥陀仏色身正念解脱三昧経となす。また度諸有流生死八難有縁衆生経と名づく。かくのごとく受持すべし。衆生のいま だ念仏三昧の縁あらざるものには、この経よくために大三昧門を開することを なす。この経よく衆生のために地獄の門を閉づ。この経よく衆生のために人を 害する悪鬼を除き殄滅して、四向ことごとくみな安穏なり〉と。仏、山海慧に 告げたまはく、〈わが所説のごときは、その義かくのごとし〉と。山海慧、仏 にまうしてまうさく、〈未来の衆生多く誹謗することあらん。かくのごとき人、 後においていかん〉と。仏のたまはく、〈後において閻浮提に、あるいは比丘・ 比丘尼、もしは男、もしは女ありて、この経を読誦することあるを見て、ある いはあひ瞋恚し、心に誹謗を懐かん。この謗正法によるがゆゑに、この人現身 にもろもろの悪重病を得て、身根具せず。あるいは聾病・盲病・失陰病・鬼 魅・邪狂・風冷・熱痔・水腫・失心を得ん。かくのごとき等のもろもろの悪重 病、世々に身にあらん。かくのごとく苦を受けて、坐臥安からず。大小便利ま たみな通ぜず。生を求め、死を求むるに得ず。この経を謗ずるがゆゑに、苦を 受くることかくのごとし。ある時は死して後に地獄に堕して八万劫のうちに大 苦悩を受け、百千万世にもいまだかつて水食の名を聞かざらん。この経を謗ず るがゆゑに、罪を得ることかくのごとし。ある時は出づることを得て、生れて 人中にあるも、牛・馬・猪・羊となりて、人のために殺されて大苦悩を受けん。 この経を謗ずるがためのゆゑなり。後に人身を得るも、つねに下賤に生じて百 千万世にも自在を得ず、百千万世にも三宝の名字を見ざらん。この経を謗ずる がためのゆゑに、苦を受くることかくのごとし。このゆゑに無智の人のなかに してこの経を説くことなかれ。正観・正念なるかくのごとき人には、しかして 後にために説け。彼此この経を敬はざれば、地獄に堕す。彼此敬重すれば、 正解脱を得て阿弥陀仏国に往生す〉」と。いままたこの経をもつて証す。ゆゑ に知りぬ、毀敬のもの、仏記の損益虚しからず、知るべし。つぶさに前の問に 答へをはりぬ。

【46】 また問ふ。もし仏滅後の一切善悪の凡夫、菩提心を発して弥陀仏国に生 ぜんと願ずるものは、日夜に心を計けてこの一生を畢るまで、称・観・礼・讃 し、香華をもつて阿弥陀仏および観音聖衆、浄土の荘厳を供養し、念々に観想 して、三昧あるいは成じ、いまだ成ぜざるものも、現生になんの功徳をか得る。 つぶさに仏経を引きてもつて明証となせ。修学の行人をして歓喜愛楽し、信 受奉行せしめんと欲す。答へていはく、快くこの義を問へり。すなはちこれ六 道生死の因行を閉絶して、永く常楽浄土の要門を開く。ただ弥陀の願に称ふ のみにあらず、またすなはち諸仏あまねくみな同じく慶びたまふ。いま経によ りてつぶさに答ふれば、すなはち『般舟三昧経』(意)に説きたまふがごとし。 「仏、跋陀和菩薩に告げたまはく、〈この念仏三昧のなかにおいて、四事の供 養あり。飲食・衣服・臥具・湯薬なり。それを助けて歓喜せしめよ。過去の諸 仏もこの念阿弥陀仏三昧を持ちて、四事をもつて助けて歓喜せしめてみな成仏 を得たまへり。現在十方の諸仏もまたこの念仏三昧を持ちて、四事をもつて助 けて歓喜せしめてみな作仏を得たまへり。未来の諸仏もまたこの念仏三昧を持 ちて、四事をもつて助けて歓喜せしめてみな作仏を得たまふ〉と。仏、跋陀和 に告げたまはく、〈この念阿弥陀仏三昧四事助歓喜は、われこの三昧のなかに おいて、その少喩を説きて念仏の功徳に比校せん。たとへば人寿百歳ならん、 また生れてよりすなはちよく行走すること老に至るまで疾風に過ぎたるがごと し。人ありてよくその道里を計るやいなや〉と。跋陀和まうさく、〈よく計る ものなし〉と。仏のたまはく、〈われさらになんぢおよびもろもろの菩薩等に 語る。もし善男子・女人、この人の行処、なかに著満せる珍宝を取りてもつて 布施するに、得るところの功徳は、人ありてこの念阿弥陀仏三昧を聞きて、四 事をもつて供養して助けて歓喜せしむる功徳にはしかず。上の布施するものに 過ぎたること千万億倍なり。また比校にあらず〉と。仏のたまはく、〈乃往久 遠、不可計阿僧祇劫に仏ましましき、号して私訶提といひ、国を跋陀和と名づ く。転輪王あり、名づけて斯琴といふ。仏所に往至したてまつる。仏、王の意 を知りて、すなはちためにこの念仏三昧四事助歓喜を説きたまふ。王聞きて歓 喜して、すなはち種々の珍宝を持ちてもつて仏の上に散ず。王みづから願じて まうさく、《この功徳を持ちて、十方の人天をしてみな安穏を得しめん》〉と。 仏のたまはく、〈その王終りて後、またみづからその家に生れて太子となる。 梵摩達と名づく。時に比丘あり、名づけて珍宝といふ。つねに四部の弟子のた めにこの念仏三昧を説く。時に王これを聞きて四事をもつて助けて歓喜せしむ、 すなはち宝物をもつて比丘の上に散ず。また衣服を持ちてもつてこれを供養す。 王、千人と比丘の所において出家して、この念仏三昧を学することを求めて、 つねに千人とともにその師に承事す。八千歳を経て日夜に懈ることなし。ただ 一度この念仏三昧を聞くことを得て、すなはち高明智に入り、かへりて後さら に六万八千の諸仏を見たてまつる。一々の仏所においてみなこの念仏三昧を聞 きて仏果を成ずることを得たり〉と。仏のたまはく、〈もし人百里・千里・四 千里なるも、この念仏三昧を聞かんと欲せばかならず往きてこれを求むべし。 いかにいはんや近くして学を求めざらんものをや〉」と。またもろもろの往生 人等にまうす。上来所引の仏教をもつて明証となすものなり。一々つぶさに は「四事供養功徳品」のなかに説きたまふがごとし。

【47】 問ひていはく、仏教に准依して精勤苦行して、日夜六時に礼念行道・ 観想・転誦し、斎戒して一心に生死を厭患し、三塗の苦を畏れて、この一形を 畢へて浄土の弥陀仏国に生ぜんと誓ふもの、またおそらくは残殃尽きずして、 現に十悪と相応せん。この障ありと覚せば、いかんが除滅せん。つぶさに仏経 を引きてその方法を示せ。答へていはく、仏経によりて答ふれば、すなはち 『観仏三昧海経』(意)に説きたまふがごとし。「仏、父王およびもろもろの大 衆のために説きたまふ。〈過去に仏ましましき、名づけて空王といふ。像法住 世の時四比丘あり、戒を破しを犯す。時に空王仏、夜空中において声を出し て四比丘に告げてのたまはく、《なんぢの犯すところを不可救と名づく。罪を 滅せんと欲せば、わが塔中に入りてわが形像を観じて、心を至して懺悔すべし、 この罪を滅すべし》と。時に四比丘万事ともに捨てて、一心に教を奉けて塔に 入り、仏像の前においてみづから撲ち懺悔すること太山の崩るるがごとく、地 に婉転して号哭して、仏(空王仏)に向かひて日夜相続して死に至るを期とな す。捨命以後、空王仏国に生ずることを得たり〉」と。いまこの経をもつて証 す。行者等、懺悔せんと欲する時、またこの教の法門によれ。「仏のたまはく、 〈もしわが滅後の仏のもろもろの弟子、諸悪を捨離し少語の法を楽ひて、日夜 六時に、よく一時において分ちて少時となして、少分のうち、須臾のあひだに おいても仏の白毫を念ずるものは、もしは見ずとも、かくのごとき等の人九十 六億那由他恒河沙微塵劫の生死の罪を除却せん。もしまた人ありてこの白毫を 聞きて、心驚疑せず歓喜信受せば、この人また八十億劫の生死の罪を除かん。 もしはもろもろの比丘・比丘尼、もしは男・女人、四の根本・十悪等の罪、五 逆罪および謗大乗を犯さん。かくのごとき諸人もしよく懺悔すること日夜六時 に身心息まず、五体地に投ずること太山の崩るるがごとく、号泣して涙を雨ら し、合掌して仏に向かひて、仏の眉間の白毫相の光を念ずること一日より七日 に至らば、前の四種の罪軽微なることを得べし。白毫を観ずるに、闇くして見 えずは、塔中に入りて眉間の白毫を観ずべし。一日より三日に至るまで合掌し て啼泣せよ。またしばらく聞くも、また三劫の罪を除く〉と。仏、父王に告げ、 および阿難に勅したまはく、〈われいまなんぢがためにことごとく身相・光明 を現ず。もしは不善心あるもの、もしは仏の禁戒を毀るもの、仏を見たてまつ ることおのおの不同なり〉と。時に五百の釈子、仏の色身を見たてまつること なほ灰人のごとし。比丘千人、仏を見たてまつることなほ赤土のごとし。十六 の居士、二十四の女人、仏を見たてまつること純黒なり。もろもろの比丘尼、 仏を見たてまつること銀色のごとし。時にもろもろの四衆、仏にまうさく、 〈われいま仏の妙色を見たてまつらず〉と。みづから頭髪を抜き、身を挙げ地 に投じて、啼泣して涙を雨らし、みづから撲ち婉転す。仏のたまはく、〈善男 子、如来の出現はまさしくなんぢらが罪咎を除滅せんがためなり。なんぢいま 過去の七仏を称し、仏のために礼をなすべし。なんぢが先世邪見の罪を説かん。 なんぢまさにもろもろの大徳僧衆に向かひて発露悔過し、仏語に随順して、仏 法衆のなかにおいて五体地に投ずること太山の崩るるがごとく、仏に向かひて 懺悔すべし。すでに懺悔しをはらば、心眼開くることを得て、仏の色身を見た てまつりて、心大きに歓喜せん〉と。仏、もろもろの比丘に告げたまはく、 〈なんぢら先世無量劫の時、邪見にして師を疑ひ、無戒にして虚しく信施を受 けたり。この因縁をもつてのゆゑに、餓鬼・地獄に堕して八万歳苦を受け、い ま出づることを得といへども、無量世において諸仏を見たてまつらず、ただ仏 の名を聞くのみ。いま仏身を見たてまつること赤土色のごとし、まさしく長五 尺なり〉と。仏、語を説きをはりたまふに、千の比丘等仏に向かひて懺悔し、 五体地に投ずること太山の崩るるがごとく、悲号して涙を雨らすに、なほ風吹 きて重雲四もに散ずるがごとくにして、金顔を顕発す。すでに仏を見たてまつ りをはりて、比丘歓喜し菩提心を発す。仏、父王に告げたまはく、〈この千の 比丘慇懃に法を求めて、心に懈息なし。仏、授記を与へて、同じく南無光照如 来と号す〉」(意)と。以前の懺悔の法は『観仏三昧海経』の第二・第三巻に出 でたり。

【48】 『仏説観仏三昧海経』「密行品」第十二巻第十(意)にのたまはく、「仏、 阿難に告げたまはく、〈未来の衆生、それこの念仏三昧を得んとするもの、仏 のもろもろの相好を観ぜんとするもの、諸仏現前三昧を得んとするものあらば、 まさにこの人に教ふべし。身口意を密にして邪命を起すことなかれ。貢高を生 ずることなかれ。もし邪命および貢高の法を起さば、まさに知るべし、この人 はこれ増上慢なり。仏法を破滅し、多く衆生をして不善心を起さしむ。和合僧 を乱して、を顕し衆を惑はす。これ悪魔の伴なり。かくのごとき悪人また念 仏すといへども、甘露の味はひを失す。この人の生処は貢高をもつてのゆゑに、 身つねに卑小にして下賤の家に生ず。貧窮諸衰にして無量の悪業をもつて厳飾 となす。かくのごとき種々衆多の悪事まさにみづから防護して、永く生ぜざら しむべし。もしかくのごとき邪命の業を起さば、この邪命の業はなほ狂象の蓮 華の池を壊するがごとく、この邪命の業もまたかくのごとく善根を壊敗せん〉 と。仏、阿難に告げたまはく、〈念仏することあるものは、まさにみづから防 護して、放逸せしむることなかるべし。念仏三昧の人もし防護せずして貢高を 生ぜば、邪命の悪風驕慢の火を吹きて善法を焼滅せん。善法とはいはゆる一切 無量の禅定、もろもろの念仏の法にして、心想より生ず。これを功徳蔵と名づ く〉と。仏、阿難に告げたまはく、〈この経を繋想不動と名づく。かくのごと く受持すべし。また観仏白毫相と名づく。かくのごとく受持すべし。また逆順観如来身分と名づけ、また一々毛孔分別如来身分と名づけ、また観三十二相八十随形好諸智慧光明と名づけ、また観仏三昧海と名づけ、また念仏三昧門と 名づけ、また諸仏妙華荘厳色身経と名づく。なんぢよく受持して、つつしみ て忘失することなかれ〉」と。

【49】 また『大集経』の「済竜品」(意)に説きたまふがごとし。「時に娑伽羅 竜王、仏を請じて宮に入れたてまつりて、供を設く。仏、竜の請を受けたまふ。 仏、聖衆と食しをはりたまへり。時に大竜王、また説法を請ふ。時に竜王の太 子あり、名づけて華面といふ。みづから仏前に起ち四支を地に布きて、悲声を もつて懺悔す。〈過去になんの罪業を作りてかこの竜身を受けたる〉」と。また この経をもつて証す。またこれ懺悔至誠の方法なり、知るべし。一切の経内に みなこの文あり。広く録すべからず。いま三部の経を略抄して、もつて後学 に示す。至心ならざるを除く。なすものはみな知れ。仏は虚言したまはず。

【50】 また『木槵経』(意)に説きたまふがごとし。「時に難陀国の王あり、波 瑠璃と名づく。使ひをして仏所に来到せしむ。仏足を頂礼して、仏にまうして まうさく、〈世尊、わが国辺小にして頻歳寇賊あり。五穀踊貴し疫疾流行して 人民困苦す。われつねに安臥することを得ず。如来の法蔵は多く、ことごとく 深広なり。われ憂務ありて修行することを得ず。ただ願はくは世尊、ことに慈愍を垂れてわれに要法を賜ひ、われをして日夜に易く修行することを得、未来 世のなかに衆苦を遠離せしめたまへ〉と。仏、使ひに告げてのたまはく、〈な んぢが大王に語れ。もし煩悩障・報障を滅せんと欲せば、まさに木槵子一百八 を貫きて、もつてつねにみづから随ふべし。もしは行、もしは坐、もしは臥に、 つねにまさに心を至して分散の意なく、口に仏陀・達磨・僧伽の名を称してす なはち一の木槵子を過ぐるべし。かくのごとくもしは十、もしは二十、もしは 百、もしは千、乃至百千万せよ。もしよく二十万遍を満てて身心乱れずしても ろもろの諂曲なくは、捨命して第三の炎摩天に生ずることを得て、衣食自然に してつねに安楽を受けん。百八の結業を除断することを得て、生死の流に背き 涅槃の道に趣きて、無上の果を獲ん〉と。使ひ還りて王にまうす。王大きに歓 喜して、頭面をもつて仏を礼してはるかに世尊にまうさく、〈尊教を頂受して、 われまさに奉行すべし〉と。すなはち吏民に勅して木槵子を営弁して、もつて 千具となし、六親国戚にみな一具を与ふ。王つねに誦念して、軍旅に親しむと いへどもまた廃捨せず。またこの念をなす。〈世尊の大慈あまねく一切に応ず。 もしわれこの善をもつて長く苦海に淪むことを免るることを得ば、如来まさに 現じてわがために法を説きたまふべし〉と。王、願楽をもつて心を逼めて三日 食せず。仏すなはち身を現じて、もろもろの聖衆と宮内に来入して、王のため に法を説きたまふ」と。またこれをもつて証す。ただこれ王の心真実なれば、 念々に障除こり、仏、罪滅を知りたまひて、念に応じて現じたまふ、知るべし。





観念阿弥陀仏相海三昧功徳法門経 一巻