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Ⅰ 極めて短い時間。一瞬。六十刹那、九十刹那、あるいは一刹那を一念とするなどの説がある。→<kana>[[刹那]](せつな)</kana>。
 
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Ⅱ [[信の一念]]。信心を獲得したそのはじめ、つまり[[阿弥陀仏]]の[[本願]]のいわれを聞きひらいた最初の時をいう(<kana>時剋(じこく)</kana>の一念)。また、一心に阿弥陀仏をたのんで二心(ふたごころ)(疑心)のないことを指していう(信相の一念)。→[[補註7]]。([[信巻本#P--235|信巻 P.235]], [[一多#P--678|一多 P.678]],[[一代記#P--1242|一代記 P.1242]],[[三経往生文類#P--626|三経 P.626]],[[尊号真像銘文#P--672|尊号 P.672]])
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Ⅲ [[行の一念]]。念は[[称念]]の意で、一声の[[称名]][[念仏]]のこと。<kana>[[大行]](だいぎょう)</kana>が[[衆生]]の上にあらわれる初一声の称名をいう(遍数の一念)。また、ただ念仏して他の行をならべ修しないことをいう(行相の一念)。
  
 
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2024年7月8日 (月) 02:14時点における最新版

一念

Ⅰ 極めて短い時間。一瞬。六十刹那、九十刹那、あるいは一刹那を一念とするなどの説がある。→刹那(せつな)

Ⅱ 信の一念。信心を獲得したそのはじめ、つまり阿弥陀仏本願のいわれを聞きひらいた最初の時をいう(時剋(じこく)の一念)。また、一心に阿弥陀仏をたのんで二心(ふたごころ)のないことを指していう(信相の一念)。→補註7。(信巻 P.235, 一多 P.678,一代記 P.1242,三経 P.626,尊号 P.672)

Ⅲ 行の一念。念は称念の意で、一声の称名念仏のこと。大行(だいぎょう)衆生の上にあらわれる初一声の称名をいう(遍数の一念)。また、ただ念仏して他の行をならべ修しないことをいう(行相の一念)。

Ⅳ ひとおもい。少しの思い。(口伝鈔 P.875)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

いちねん 一念

Ⅰ 極めて短い時間、一瞬の意。また「念」は短い時間を示す単位。六十刹那、九十刹那、あるいは一刹那を一念とするなどの説がある。『論註』には
「百一の消滅を一刹那と名づく。六十の刹那を名づけて一念とす」 (信巻引文・註P.301)
とある。→刹那
Ⅱ 信の一念のこと。
Ⅲ 行の一念のこと。(浄土真宗辞典)

仏教語と世間語は言葉は同じだが意味が違うので誤まった解釈をしてはならない。世間語で一念といえば、心に深く思いこむこと。またその心をいふ(広辞苑)。また一念岩をも通す(強い信念をもって物事に当たれば、どんな事でも成し遂げることができる)、などと強い思い込みを一念ともいふ。

これに対して仏教での一念とは、梵語 eka-kṣaṇa(エーカクシャナ)、極めて短い時間(刹那)と eka-citta(エーカチッタ)、心のひとおもいの二義がある。この両義をそれぞれ漢訳したのが一念の語である。

御開山は「信一念釈」で、

それ真実の信楽を案ずるに、信楽に一念あり。一念とはこれ信楽開発の時剋の極促を顕し、広大難思の慶心を彰すなり。(信巻 P.250)

と、時剋とし信相をとされておられた。
『一念多念証文』には「本願成就文」を釈し、

「信心」は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり。
{乃至}
「一念」といふは、信心をうるときのきはまりをあらはすことばなり。 (一多 P.678)

とあり、時間を超えた「如来の御ちかひ」が、時間的存在てある林遊に「疑ふこころのなき」と信受される「信心をうるときのきはまり」を一念といふのであった。 ここには、「心に深く思いこむこと、またその心」といふ世間語での私の一念の意味は無い。何故なら本願力回向のご信心だからである。

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安心論題/信一念義
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