「如実修行相応」の版間の差分
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+ | *如実修行相応(実の如く修行して相応せん)<ref>如実修行相応。実の如く相応して修行せん。このように読む方が原義に親しいかも。作願門では、如実に奢摩他を修行せんと欲するがゆゑなり、とあり、観察門では、如実に毘婆舎那を修行せんと欲するがゆゑなり、とある。</ref> | ||
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+ | 不如実修行相応に対する語。[[真如]]の理にしたがって修行し、その'''信'''じるところ、'''修'''するところが[[真如]]にかなうこと。また、阿弥陀仏の[[本願]]に相応し、教のごとくに行じて法に<kana>違(たが)</kana>わないこと。『高僧和讃』には、 | ||
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− | + | 「をしへのごとく信ずるこころなり」の教えとは教行の意。<br /> | |
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− | + | *称彼如来名、如彼如来光明智相、如彼名義、欲如実修行相応故。 | |
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+ | :「かの如来の名を称す」とは、いはく、無礙光如来の名を称するなり。 | ||
+ | :「かの如来の光明智相のごとく」とは、仏の光明はこれ智慧の相なり。この光明は十方世界を照らしたまふに障礙あることなし。 よく十方衆生の無明の黒闇を除くこと、日・月・珠光のただ空穴のなかの闇をのみ破するがごときにはあらず。 | ||
+ | : 「かの名義のごとく、如実に修行して相応せんと欲す」とは、かの無礙光如来の名号は、よく衆生の一切の[[無明]]を破し、よく衆生の一切の[[志願]]を満てたまふ。 ([[浄土論註 (七祖)#P--103|論註 P.103]]) ([[信巻本#no9|信巻 P.214で引文]]) | ||
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+ | とされる。「[[信心正因]]」を論じる「信巻」では[[信楽]]を決釈して、 | ||
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:『論の註』にいはく、「'''[[如実修行相応]]'''と名づく。このゆゑに論主(天親)、<kana>建(はじ)</kana>めに〈我一心〉とのたまへり」と。([[信巻本#P--241|信巻 P.241]]) | :『論の註』にいはく、「'''[[如実修行相応]]'''と名づく。このゆゑに論主(天親)、<kana>建(はじ)</kana>めに〈我一心〉とのたまへり」と。([[信巻本#P--241|信巻 P.241]]) | ||
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+ | と、浄土真宗の信は、なんまんだぶを称え聞く「[[如実修行相応]]」の信心であった。なんまんだぶを称えることは、阿弥陀如来の仏徳を過不足なく如実に[[讃嘆]]することであり、それは'''「[[称名破満]]」'''という徳をもつ往生浄土の「[[業因]]」であった。 | ||
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2024年11月16日 (土) 18:24時点における最新版
にょじつしゅぎょうそうおう
【左訓】「をしへのごとく信ずるこころなり」(高僧 P.587)
真如の理にしたがって修行し、その信ずるところ、修するところが真如にかなうこと。また、阿弥陀仏の本願に相応し、教のごとくに修行して法に違(たが) わないこと。
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
- 如実修行相応(実の如く修行して相応せん)[1]
にょじつしゅぎょうそうおう
不如実修行相応に対する語。真如の理にしたがって修行し、その信じるところ、修するところが真如にかなうこと。また、阿弥陀仏の本願に相応し、教のごとくに行じて法に
- 決定の信をえざるゆゑ
- 信心不淳とのべたまふ
- 如実修行相応は
- 信心ひとつにさだめたり (高僧 P.587)
とあり、「文明本」左訓には「をしへのごとく信ずるこころなり」とある。 (浄土真宗辞典)
「をしへのごとく信ずるこころなり」の教えとは教行の意。
『論註』で『浄土論』の「長行」を引いて、
- 称彼如来名、如彼如来光明智相、如彼名義、欲如実修行相応故。
- かの如来の名を称するに、かの如来の光明智相のごとく、かの名義のごとく、如実に修行して相応せんと欲するがゆゑなり。
- 「かの如来の名を称す」とは、いはく、無礙光如来の名を称するなり。
- 「かの如来の光明智相のごとく」とは、仏の光明はこれ智慧の相なり。この光明は十方世界を照らしたまふに障礙あることなし。 よく十方衆生の無明の黒闇を除くこと、日・月・珠光のただ空穴のなかの闇をのみ破するがごときにはあらず。
- 「かの名義のごとく、如実に修行して相応せんと欲す」とは、かの無礙光如来の名号は、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。 (論註 P.103) (信巻 P.214で引文)
- 『論の註』にいはく、「如実修行相応と名づく。このゆゑに論主(天親)、
建 めに〈我一心〉とのたまへり」と。(信巻 P.241)
とされ、また至心・信楽・欲生の三信を結釈し、
- まことに知んぬ、至心・信楽・欲生、その言異なりといへども、その意これ一つなり。なにをもつてのゆゑに、三心すでに疑蓋雑はることなし、ゆゑに真実の一心なり。これを金剛の真心と名づく。金剛の真心、これを真実の信心と名づく。真実の信心はかならず名号を具す。名号はかならずしも願力の信心を具せざるなり。このゆゑに論主建めに「我一心」とのたまへり。また「如彼名義欲如実修行相応故」とのたまへり。 (信巻 P.245)
とされ、本願成就文を釈された「三心一心総結」として、
- ゆゑに知んぬ、一心これを如実修行相応と名づく。すなはちこれ正教なり、これ正義なり、これ正行なり、これ正解なり、これ正業なり、これ正智なり。
- 三心すなはち一心なり、一心すなはち金剛真心の義、答へをはんぬ、知るべしと。(信巻 P.253)
と、浄土真宗の信は、なんまんだぶを称え聞く「如実修行相応」の信心であった。なんまんだぶを称えることは、阿弥陀如来の仏徳を過不足なく如実に讃嘆することであり、それは「称名破満」という徳をもつ往生浄土の「業因」であった。
- ↑ 如実修行相応。実の如く相応して修行せん。このように読む方が原義に親しいかも。作願門では、如実に奢摩他を修行せんと欲するがゆゑなり、とあり、観察門では、如実に毘婆舎那を修行せんと欲するがゆゑなり、とある。