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− | [[無疑心]]とは、<kana>[[信楽]](しんぎょう)</kanaのことで、疑心なく[[本願]]の<kana>[[名号]](みょうごう)</kana>を領受した心で、疑い心の無いことである。[[不疑心]] | + | [[無疑心]]とは、<kana>[[信楽]](しんぎょう)</kanaのことで、疑心なく[[本願]]の<kana>[[名号]](みょうごう)</kana>を領受した心で、疑い心の無いことである。[[不疑心]]といふ疑わない私の作る心の意ではない。<br /> |
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2024年7月22日 (月) 07:23時点における最新版
むぎしん
無疑心とは、
御開山は「本願成就文」で、
然経 言聞者 衆生聞仏願生起本末 無有疑心 是曰聞也。 言信心者 則本願力廻向之信心也。
と、疑心あることなし(無有疑心)とされておられた。如来の本願は衆生を済度することに疑いなき仏心であるから、その仏心を回向された本願力回向のご信心には疑いが無いのである。これを機受でいえば無疑心といふのである。→疑蓋
『一念多念証文』には、「本願成就文」を釈し、
と「疑ふこころなき」(無疑心)とある。(無二疑心一)
『唯信鈔文意』では、本願を領受した「機受」の無疑心を「うたがひなきこころ」と表現し、
- 「信」はうたがひなきこころなり、すなはちこれ真実の信心なり、虚仮はなれたるこころなり。虚はむなしといふ、仮はかりなるといふことなり、虚は実ならぬをいふ、仮は真ならぬをいふなり。本願他力をたのみて自力をはなれたる、これを「唯信」といふ。 (唯文 P.699)
と、虚仮の自らのはからいを離れ「本願他力をたのみて自力をはなれた」ことを「唯信」とされておられた。
- 「三心すでに疑蓋雑(まじ)はることなし、ゆゑに真実の一心なり。これを金剛の真心と名づく。金剛の真心、これを真実の信心と名づく。(三心已疑蓋無雑 故真実一心 是名金剛真心 金剛真心 是名真実信心。)」(信巻 P.245)
と、
この無疑心とは、疑ふこころなきで、疑いがない心があることではない。無疑心とは無い状態を示す語である。では、何があるかといえば法があるのである。法が機にあることを信心(信楽)というのであった。