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出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

(ページの作成:「そもそも論だが、WikiDharmaはNiftyのパソコン通信時代に、お世話になったマイコン坊主(筑後 誠隆)さんが、ブログで、ネット...」)
 
 
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「新作領解文」を読んだとき、これって「天台本覚法門」か?と思った。
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「本覚」とは『大乗起信論』に、煩悩に覆われて迷っている状態(不覚)にもかかわらず、本性として本来的にさとりの性質(因仏性)をもっていると説く。
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この本覚を、人は本(もと)から覚(さと)っていると拡大解釈したのが「天台本覚法門」である。
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 私の 煩悩と 仏のさとりは  本来一つゆえ
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  「そのまま 救う」が 弥陀のよび声
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などといふ発想は、いわゆる「天台本覚法門」の絶対一元論であり、浄土教の浄土と穢土の相対二元論とは絶対に相容れない思想である。
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御開山からすれば
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 「末代の道俗、近世の宗師、自性唯心に沈みて浄土の真証を貶す」 (註 209)
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といふ「自性唯心」である。
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昔の真宗の坊さんは仏教の基礎学として『大乗起信論』を読んだそうだ。御開山は孫引きを入れて『大乗起信論』から二文引文されておられる。
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ともあれ梯實圓和上は、本覚法門について
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 このようにして煩悩具足の凡夫が、我即真如なり、我即仏なりとおもえば真如であり、仏であるという本覚法門は、深い罪障にまつわられ、煩悩に狂わされて愛と憎しみのはざまを迷いながら生きるしか生きようのない凡夫の現実が全く無視されているといわねばならない。娑婆即寂光と理論的に理解したとしても、現実には娑婆の苦悩から解放されるわけではない。煩悩即菩提、生死即涅槃と思っても煩悩、生死の現実は少しもかわらないし、我即仏と信じても、浅ましい凡夫でありつづけるとすれば本覚法門とは、娑婆に生きる凡夫の現実を捨象した空論であり、抽象論に過ぎないときびしく批判していったのが法然の浄土教学であった。
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と、示して下さった。
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今回の「領解文騒動」について、浄土真宗(教団名)の坊さんは、手続き論や本山の宗教貴族を責めるのだが門徒の眼から見れば門主が一番悪い。
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「門主無答責」とはイギリス法を真似た「君主は、その行為について、誰に対しても政治上・法律上の責任を負わない、という原則」由来の思想である。
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門主は、「君臨すれど統治せず」といふ象徴(
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日本国憲法第第1条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、 主権の存する日本国民の総意に基く。)
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なのだろうが、本願力回向のなんまんだぶのご法義と一派の宗法をごっちゃにして語るとワケが判らなくなると思ふ。
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ともあれ「象徴」である門主が、
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 私の 煩悩と 仏のさとりは  本来一つゆえ
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 「そのまま 救う」が 弥陀のよび声
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などといふ「本覚法門」の消息を発布するから、門末は大混乱するのであった。
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ひょっとして、龍谷門主 釋専如って莫迦(moha)なの?
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そもそも論だが、WikiDharmaはNiftyのパソコン通信時代に、お世話になったマイコン坊主(筑後 誠隆)さんが、ブログで、ネット上に「フリー仏教百科事典を作りたいとつぶやいていたので、ふ~ん、じゃネット上で「共有知」を目指すと話題のWikiPediaと同じMediaWikiソフトをインスツールしたからお使い下さいと、WikiによるDharmaの表現といふことで作ったのが仏教の「共有知」を志向するWikiDharmaドメインの嚆矢である。この頃からネット上でのユニコード化が推進された。<br />
 
そもそも論だが、WikiDharmaはNiftyのパソコン通信時代に、お世話になったマイコン坊主(筑後 誠隆)さんが、ブログで、ネット上に「フリー仏教百科事典を作りたいとつぶやいていたので、ふ~ん、じゃネット上で「共有知」を目指すと話題のWikiPediaと同じMediaWikiソフトをインスツールしたからお使い下さいと、WikiによるDharmaの表現といふことで作ったのが仏教の「共有知」を志向するWikiDharmaドメインの嚆矢である。この頃からネット上でのユニコード化が推進された。<br />
 
「MediaWiki」<br />
 
「MediaWiki」<br />

2024年9月23日 (月) 16:42時点における最新版

「新作領解文」を読んだとき、これって「天台本覚法門」か?と思った。 「本覚」とは『大乗起信論』に、煩悩に覆われて迷っている状態(不覚)にもかかわらず、本性として本来的にさとりの性質(因仏性)をもっていると説く。 http://labo.wikidharma.org/index.php/%E5%A4%A7%E4%B9%97%E8%B5%B7%E4%BF%A1%E8%AB%96

この本覚を、人は本(もと)から覚(さと)っていると拡大解釈したのが「天台本覚法門」である。 https://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E6%9C%AC%E8%A6%9A%E6%80%9D%E6%83%B3  私の 煩悩と 仏のさとりは  本来一つゆえ   「そのまま 救う」が 弥陀のよび声 などといふ発想は、いわゆる「天台本覚法門」の絶対一元論であり、浄土教の浄土と穢土の相対二元論とは絶対に相容れない思想である。 御開山からすれば  「末代の道俗、近世の宗師、自性唯心に沈みて浄土の真証を貶す」 (註 209) といふ「自性唯心」である。 http://labo.wikidharma.org/index.php/%E8%87%AA%E6%80%A7%E5%94%AF%E5%BF%83

昔の真宗の坊さんは仏教の基礎学として『大乗起信論』を読んだそうだ。御開山は孫引きを入れて『大乗起信論』から二文引文されておられる。

ともあれ梯實圓和上は、本覚法門について

 このようにして煩悩具足の凡夫が、我即真如なり、我即仏なりとおもえば真如であり、仏であるという本覚法門は、深い罪障にまつわられ、煩悩に狂わされて愛と憎しみのはざまを迷いながら生きるしか生きようのない凡夫の現実が全く無視されているといわねばならない。娑婆即寂光と理論的に理解したとしても、現実には娑婆の苦悩から解放されるわけではない。煩悩即菩提、生死即涅槃と思っても煩悩、生死の現実は少しもかわらないし、我即仏と信じても、浅ましい凡夫でありつづけるとすれば本覚法門とは、娑婆に生きる凡夫の現実を捨象した空論であり、抽象論に過ぎないときびしく批判していったのが法然の浄土教学であった。 http://labo.wikidharma.org/index.php/%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82%AF:%E6%9C%AC%E8%A6%9A%E6%80%9D%E6%83%B3

と、示して下さった。 今回の「領解文騒動」について、浄土真宗(教団名)の坊さんは、手続き論や本山の宗教貴族を責めるのだが門徒の眼から見れば門主が一番悪い。 「門主無答責」とはイギリス法を真似た「君主は、その行為について、誰に対しても政治上・法律上の責任を負わない、という原則」由来の思想である。 門主は、「君臨すれど統治せず」といふ象徴( 日本国憲法第第1条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、 主権の存する日本国民の総意に基く。) なのだろうが、本願力回向のなんまんだぶのご法義と一派の宗法をごっちゃにして語るとワケが判らなくなると思ふ。 ともあれ「象徴」である門主が、  私の 煩悩と 仏のさとりは  本来一つゆえ  「そのまま 救う」が 弥陀のよび声 などといふ「本覚法門」の消息を発布するから、門末は大混乱するのであった。 ひょっとして、龍谷門主 釋専如って莫迦(moha)なの? http://labo.wikidharma.org/index.php/%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82%AF:%E9%A0%98%E8%A7%A3%E6%96%87

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

そもそも論だが、WikiDharmaはNiftyのパソコン通信時代に、お世話になったマイコン坊主(筑後 誠隆)さんが、ブログで、ネット上に「フリー仏教百科事典を作りたいとつぶやいていたので、ふ~ん、じゃネット上で「共有知」を目指すと話題のWikiPediaと同じMediaWikiソフトをインスツールしたからお使い下さいと、WikiによるDharmaの表現といふことで作ったのが仏教の「共有知」を志向するWikiDharmaドメインの嚆矢である。この頃からネット上でのユニコード化が推進された。
「MediaWiki」
https://www.mediawiki.org/wiki/MediaWiki

それまでhongwan.netといふドメインで別のWikiソフトを使って私的に真宗関連のTEXTをUPしていた。Wikiシステムは言葉について他のページへリンクを張ることが簡単に出来る(文字列を……で挟むだけでリンクが作成される)。要求されたリンク先の項目が存在しないと赤字表示になり、管理者は赤字解消に苦しむのであった(笑
http://labo.wikidharma.org/.../%E7%89%B9%E5%88%A5:%E5%AD...

ところでMediaWikiはソフトは巨大なのだがコンテンツデーターをすべてデーターベースに収めるので管理が楽であった。データとそのデータの表示は別であるからデーターベースをバックアップするだけで復旧ができる。
そこで、ふと気づいて浄土真宗聖典をデーターベース化してWikiで脚注を付けてクリックすれば脚注が表示されれば便利なんじゃなかろうかと思い立って、「浄土真宗聖典デジタル化プロジェクト」を思い立った。WikiArcがlabo.wikidharma.orgとlabo(実験室)となっているのはそのせいである。なお .org は、個人や非営利団体、非営利組織用のドメインである。
ここで著作権についての問題を解決するため、当時の浄土真宗教学研究所(現 浄土真宗総合研究所)と一年半の交渉を経て転載許可を得た。教学研究所としては、どこの馬の骨と判らない林遊といふ個人に転載許可を出すことに躊躇したのであろう。最後には地元の別院からの要求といふルートを使って転載許可を得た。少しく組織人に対する脅迫まがいの手も使ったけど林遊は順法主義者である(笑
「WikiArc:WikiArcについて」
http://labo.wikidharma.org/.../WikiArc:WikiArc%E3%81%AB...

WikiPediaはネット上の「共有知」を目指すプロジェクトであるが、WikiDharmaプロジェクトもまた、仏教上や浄土真宗での「共有知」を目指す目論見であった。しかしてメンバー登録するだけで発信しない者と、不正にメンバー登録をしてページを商品の宣伝広告をする為にページを書き換える事象が発生したためネット上での自由なメンバー登録は禁止した。現在は管理者にメールして管理者の許可を得た者だけが、WikiDharmaサイトに投稿/編集ができる。
そこで林遊は、真宗僧俗による「共有知」の構築をあきらめて、林遊個人の学びの場としてネットを使っている。
もっとも個人運営サイトであるため時々サーバーが落ちるし、サーバー管理者の林遊の年齢も古希(古来まれなり)を過ぎているので、この運営を案じたマイコン坊主さんが開設したグループがWikiDharmaであった。
その意味では、いつ廃止されるかわからないWikiArcのページをFBでリンクすることは反則かもなあ(笑
http://labo.wikidharma.org/.../WikiArc:%E6%B5%84%E5%9C%9F...

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ




前掲のyoutube の梯實圓和上の「法蔵菩薩論 その4 (4/4)」の内容はめちゃくちゃ難しいと思ふ。言葉のカルマ(術語の背景にある言語的意味のカルマ)と言われても意味を理解できない。そもそも『大乗起信論』って何のこっちゃである。
「大乗起信論」
http://hongwanriki.wikidharma.org/.../%E5%A4%A7%E4%B9%97...
で、講義中で突然イブヌ・ル・アラビーといふイスラム学者が出てくるのだが、『大乗起信論』や、大乗起信論を考察した、日本の言語学者、イスラーム学者、東洋思想研究者、神秘主義哲学者であった井筒俊彦氏(1914~1993)の『意識の形而上学』を読んでいないと意味不明かもである。
「意識の形而上学」
http://hongwanriki.wikidharma.org/.../%E6%84%8F%E8%AD%98...
梯實圓和上は伝統教学に腰を据えながら、常に新しい学識を参照して阿弥陀さまのご法義を顕正して下さった和上であった。
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ




前掲の「法蔵菩薩論 その3 (3/4)」で、安養の説明で『讃阿弥陀仏偈』に論及しておられた。
「釈して…いふ」
http://labo.wikidharma.org/.../%E9%87%88%E3%81%97%E3%81...
御開山は
 釈名無量寿傍経 奉讃 亦曰安養
 (釈して無量寿と名づく、経に傍(そ)えて讃め奉(たてま)つる、また安養といふ。)
の文を、
 (釈して無量寿傍経と名づく。讃めたてまつりてまた安養といふ。)
と無量寿傍経と訓(よ)まれた。*訓読
御開山はこの『讃阿弥陀仏偈』を「経」であるとみておられたのであろう。
だから曇鸞大師の『讃阿弥陀仏偈』を翻訳(和讃)して「讃阿弥陀仏偈和讃」を作られたのであった。浄土真宗では和讃を「和語の聖教」とよぶのは、このような意もあるのだろう。(御開山の和讃はほとんどが経・論・釈からの引文取意である)
ともあれ「讃阿弥陀仏偈和讃」は漢文の曇鸞大師の『讃阿弥陀仏偈』の日本語化であった。御開山は「正信念仏偈」で、
 あまねく無量・無辺光、無碍・無対・光炎王、清浄・歓喜・智慧光、不断・難思・無称光、超日月光を放ちて塵刹を照らす。一切の群生、光照を蒙る。
と十二光仏を挙げておられ、ちょっと分かりにくいが「讃阿弥陀仏偈和讃」でも十二光を詠んでおられた。
http://labo.wikidharma.org/.../%E5%8D%81%E4%BA%8C%E5%85%89
 智慧の光明はかりなし 無量光
 解脱の光輪きはもなし 無辺光
 一切の有碍にさはりなし 無礙光 等々
「讃阿弥陀仏偈と浄土和讃」
http://labo.wikidharma.org/.../%E8%AE%83%E9%98%BF%E5%BC...
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
P.S.
正信念仏偈の「南無不可思議光」は、『讃阿弥陀仏偈』からである。(仏名経)




梯實圓和上は若い頃は『華厳経』をしばしば読んでおられたそうである。そこで講義はむちゃくちゃ難しい(笑
和上の千福寺での「法蔵菩薩論」は二年にわたっての講義であったが、二年目の講義を提示。難解な『唯信鈔文意』の「極楽無為涅槃界釈」よりの講義です。この釈から御開山がどのような仏身・仏土観をもたれていたかが窺えると思ふ。 
和上の「讃題」の文に少しく出入りがあるが、ここでは『唯信鈔文意』(正嘉本)(八月十九日本)からである。
この一如よりかたちをあらわして、方便法身とまふすその御すがたに、法蔵比丘となのりたまひて、不可思議の四十八の大誓願をおこしあらわしたまふなり。この誓願の中に、光明无量の本願、寿命无量の弘誓を本としてあらわれたまへる御かたちを、世親菩薩は尽十方无㝵光如来となづけたてまつりたまへり。この如来すなわち誓願の業因にむくひたまひて報身如来とまふすなり、すなわち阿弥陀如来とまふす也。
「唯信鈔文意(正嘉本)」
http://labo.wikidharma.org/.../%E5%94%AF%E4%BF%A1%E9%88...
「法蔵菩薩論 その3 (3/4)」
https://www.youtube.com/watch?v=uTBHcN0AyTw
「法蔵菩薩論 その4 (4/4)」
https://www.youtube.com/watch?v=tsxHXWJg-_4&t=184s
ちなみに、映像で偉そうに最前列の短髪白髪頭で和上の講義を受けている在家で輪袈裟を懸けて聴聞しているのは林游である。
なお林遊はノートをとらない。該当するお聖教にキーワードを書き込んでおけば、後にキーワード検索(grep)すれば出拠が判るからであった。しかし時々自分の書いた文字も読めないことがあるけど(笑
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ




草川廣江さんがリンクして下さった「トーク:一念多念証文」は梯實圓和上の安居の講本であるので、少しく難しいかもしれない。
浄土真宗の講録などをよんでいると能○・所○といふ言葉がたくさん出てくるのだが、「能詮の言教、所詮の法義」といわれても、はじめは何のこっちゃであった。
ようするに「能とは動作の主体、はたらきかける側をいい、所とは動作の客体、はたらきかけられる側をいう(浄土真宗辞典)のであった。
つまり「能詮の言教、所詮の法義」とは、詮はあらわすという意味で、「能詮の言教」とは言語によってあらわされた教え「所詮の法義」とは、その言語によってあらわされた内容をいうのであった。
「能所」
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E8%83%BD%E6%89%80
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ




浄土真宗の教えは難しいといわれる。
この難しいとは学べばわかる意味と違って、人間の常識的な考え方を越えているから難であった。通常の常識の「理」によって「解(げ)」すること(理解)と違う論理であった。
「信巻」三心結釈の大信嘆徳(四不十四非)に、
 おほよそ大信海を案ずれば、貴賤緇素を簡(えら)ばず、男女・老少をいはず、造罪の多少を問はず、修行の久近を論ぜず、行にあらず善にあらず、頓にあらず漸にあらず、定にあらず散にあらず、正観にあらず邪観にあらず、有念にあらず無念にあらず、尋常にあらず臨終にあらず、多念にあらず一念にあらず、ただこれ不可思議不可称不可説の信楽なり。たとへば阿伽陀薬のよく一切の毒を滅するがごとし。如来誓願の薬はよく智愚の毒を滅するなり。(信巻 p245)
現代語:
 総じて、この他力の信心についてうかがうと、身分の違いや出家・在家の違い、また、老少男女の別によってわけへだてがあるのでもなく、犯した罪の多い少ないや修行期間の長い短いなどが問われるのでもない。また、自ら行う行でもなく、自ら行う善でもない。速やかにさとろうとする教えでもなく、長い時を費やしてさとろうとする教えでもない。定善でもなく、散善でもない。正しい観法でもなく、よこしまな観法でもない。相を念じるのでもなく、想を離れて理を念じるのでもない。平生に限るのでもなく、臨終に限るのでもない。称名を多念に励むのでもなく、一念に限るのでもない。これはただ、思いはかることも、たたえ尽すことも、説き尽すこともできないすぐれた信楽である。たとえば、阿伽陀薬がすべての毒を滅するように、如来の誓願は、自力のはからいである智慧の毒も愚痴の毒も滅するのである。
http://labo.wikidharma.org/.../%E9%A1%95%E6%B5%84%E5%9C...
とあるように、対象を問わない人間の常識を越えた救済論であった。それは自業自得から大悲の必然への救済論の展開であった。
梯實圓和上は、それを「真仮論の救済論的意義」として示して下さったものである。
「真仮論の救済論的意義」
http://labo.wikidharma.org/.../%E7%9C%9F%E4%BB%AE%E8%AB...
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ




家内の好きな深川倫雄和上の法話に「柿羊羹」がある。
これは、丸形柿羊羹といって、一口サイズの羊羹がゴムの丸い袋に入っている。楊枝などで突き刺すと、ゴムの袋がピュッと割れて丸い羊羹があらわれるのであった。
「柿羊羹の中身は皆柿羊羹」
http://www.hongwan.net/.../%E4%BB%8F%E5%8A%9B%E3%82%92%E8...
これは深川倫雄和上の阿弥陀仏観から仰っているのであった。
柿羊羹の中身は皆柿羊羹であるように、本願の中身・材料は、みな林遊であった。念仏衆生摂取不捨(念仏の衆生をおさめ取って捨てず)の「摂取」とは、本願の内容が、なんまんだぶを称える林遊であった。
もちろん、口に なんまんだぶを称える人は、高田派伝持の国宝本和讃
十方微塵世界の
 念仏の衆生をみそなはし
 摂取してすてざれば
 阿弥陀となづけたてまつる
http://labo.wikidharma.org/.../%E6%B5%84%E5%9C%9F%E5%92...
の「摂取してすてざれば(摂取不捨)」の左訓に、
オサメトル ヒトタビトリテナガクステヌナリ セフハモノヽニグルヲオワエトルナリ セフハオサメトル
 摂(おさ)めとる。ひとたびとりて永く捨てぬなり。摂はものの逃ぐるを追はへ取るなり。摂はをさめとる、取は迎へとる。
とあるからである。稲城選恵和上はこれを、衆生と仏との対応関係ではなく逆対応と仰っていたものでる。
http://www.hongwan.net/.../%E4%BB%96%E5%8A%9B%E3%81%AE%E4...
ともあれ柿羊羹の中身はみな柿羊羹であるように、阿弥陀如来の本願の中身・材料は林游であることをお示し下さったことである。
「仏力を談ず」本願の中身
http://www.hongwan.net/.../%E4%BB%8F%E5%8A%9B%E3%82%92%E8...
梯實圓和上は質疑応答で、
法然聖人において、回心以前の大悲観と、回心以後の大悲観は異なるのでしょうか。
 そうですね、やはり異なっているのでしょう。それは自分自身が大悲に包まれて、そのなかで味わっていることと、大悲を外から味わっているというのとのと違いがあります。
どこが違うのかといいますと、お慈悲は私が知るものではなくして、私はお慈悲に見護られているということが味わえるようになっています。私は仏さまを知るものであり、お慈悲を知るものであると考えている間は、わからないことが苦になります。
しかし、私は知るものではなくて、常に知られているのものであり見護られているものであると気付けば、知らないことが苦にならず、忘れたことも苦にならず、また聞かせていただき、知らせていただくことを楽しむようになります。
こういった違いが出てくるかと思います。このことはとても大事なことでございますので、よく味わっていただきたいと思います。
http://blog.wikidharma.org/.../%e9%98%bf%e5%bc%a5%e9%99.../
とお示しであった。ありがたいこっちゃな。
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ




日本仏教は漢訳仏教である。
つまりシナから漢語による経典を導入し、その漢語を日本独自の訓読(訓点を付して日本語の文体に置き換えて読解すること。返り点、ヲコト点)してきた。
そのせいで仏教の術語(特定分野で、特に限定された意味で用いられる語。専門用語。テクニカルターム)は自ずから漢語になるので難しく感じる。
おまけに仏教語は呉音(シナの古代の発音)で発音するし、日本語では音(おん)を〔おと〕と読んだりするのでややこしい。林遊は教・行・信・証を教(おしえ)・行(おこない)・信(まこと)・証(あかし) などと読んでいたりする。
ともあれ浄土真宗の術語も漢語であり、漢語での信心は日本語では、まこと「信」のこころ「心」なのだが、漢字の信は仏教上の多義的な意味を持つので一筋縄ではいかない。
真宗学(教学)を学ぶには、真宗の術語の概念定義を学ぶことであるといわれる。まして浄土真宗では、たとえば「回向」のように通仏教(聖道仏教全般に共通する教理)と違う解釈をするので術語の概念定義を学ぶことは重要である。
本願寺派の「註釈版聖典」は語句についての脚注があるので術語の概念定義を学ぶには便利である。その点、大谷派は本願寺派のような宗義解釈の基本である「安心論題」もなく教学はバラバラ状態で、お東騒動よりこのかた門徒を扇動した「同朋会運動」の大谷派の坊主は左巻きの運動論者に成り下がったのであった。聞法の道場を「真宗本廟」として御開山の墓場にしてしまったのであった。
「廟堂」
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E5%BB%9F%E5%A0%82
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ




深川倫雄和上は、節談説教を真似て、
♪第十七願の酒蔵で~、醸(かも)し~作りた~この酒を~、♪
♪第十八願の盃で~、至心信楽と飲み干せば~欲生我国の舞を舞う~♪
を演じて下さって、このお領解は間違っています。
何が間違っているといえば、第十七願で名号が出来上がっているといふ領解が間違いですと仰っていたものだ。
そして、宗学院時代に先の節談のような意を示したら、大原和上に「深川君、衆生の称名になる前の名号は無いんだよ」と言われたそうである。
第十八願には「わが国に生ぜんと欲(おも)ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ」とある「乃至十念」は、林遊が口で称える〔なんまんだぶ〕が往生が決定する「業因」であった。林遊に称えられない名号といふものは無いのである。
◆以下聴聞の資料。
梵声猶雷震(ぼんしょう-ゆうらいしん)
http://labo.wikidharma.org/.../%E4%BB%8F%E8%AA%AC_%E7%84...
我建超世願 必至無上道
 われ超世の願を建つ、かならず無上道に至らん。
斯願不満足 誓不成正覚
 この願満足せずは、誓ひて正覚を成らじ。
我於無量劫 不為大施主
 われ無量劫において、大施主となりて、
普済諸貧苦 誓不成正覚
 あまねくもろもろの貧苦を済(すく)はずは、誓ひて正覚を成らじ。
我至成仏道 名声超十方
 われ仏道を成るに至りて、名声十方に超えん。
究竟靡所聞 誓不成正覚
 究竟して聞ゆるところなくは、誓ひて正覚を成らじ。
「漢文」
http://labo.wikidharma.org/.../%E4%BB%8F%E8%AA%AC_%E7%84...
「読み下し」
http://labo.wikidharma.org/.../%E4%BB%8F%E8%AA%AC_%E7%84...
深川倫雄和上は軍隊上がりで怖い和上であったが、在家の林遊には心遣いをして下さった有難い和上であった。
信心が欲しければ山口の俵山へ行けば手に入ります。木津西念寺支坊光摂坊の回りには、深川勧学和上の〔なんまんだぶ〕の法莚に座し僧俗が捨てた信心が山のように転がっているから拾えばよい。
とも記したことがあった。
「我至成仏道 名声超十方」
https://www.youtube.com/watch?v=upKP91crxUQ
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ




前掲の「親鸞聖人の仏身論」で、

 そのことを「方便と申すは、かたちをあらはし、御なをしめして、衆生にしらしめたまふを申すなり」といわれたのである。無相中に相を示現し、無名中に名号を垂れて、衆生を呼び覚ましていくことを方便というといわれているのである。これを垂名示形(すいみょう-じぎょう) といいならわしている。まさに「正直を方といふ、外己を便といふ」といわれた方便の釈そのままの姿であった。その相が南無阿弥陀仏であり、帰命尽十方無碍光如来であり、南無不可思議光仏だったのである。それはまさに一如が名号となって私どもの前に「如来」する相であった。

とある「かたちをあらはし、御なをしめして」の「垂名示形」のページへリンク。
http://labo.wikidharma.org/.../%E5%9E%82%E5%90%8D%E7%A4...
「方便」
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E6%96%B9%E4%BE%BF
「正直」
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E6%AD%A3%E7%9B%B4
「如来」
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E5%A6%82%E6%9D%A5

浄土真宗ではあまり「名号論」といふことを聞かないのだが以下にリンク。
「浄土系思想論─名号論 鈴木大拙」
http://hongwanriki.wikidharma.org/.../%E6%B5%84%E5%9C%9F...
「親鸞における「言葉」 大峯顕」
http://hongwanriki.wikidharma.org/.../%E8%A6%AA%E9%B8%9E...

http://labo.wikidharma.org/.../%E5%9E%82%E5%90%8D%E7%A4...

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ




「讃阿弥陀仏偈和讃」には、
(3)
弥陀成仏のこのかたは
 いまに十劫をへたまへり
 法身の光輪きはもなく
 世の盲冥をてらすなり
とあるのだが「大経讃」には、
(55)
弥陀成仏のこのかたは
 いまに十劫とときたれど
 塵点久遠劫よりも
 ひさしき仏とみえたまふ
http://labo.wikidharma.org/.../%E6%B5%84%E5%9C%9F%E5%92...
とある。「讃阿弥陀仏偈和讃」は曇鸞大師の「讃阿弥陀仏偈」を和讃されたから「讃阿弥陀仏偈」の「成仏已来歴十劫(成仏よりこのかた十劫を歴(へ)たまへり)」を和讃されたのである。
しかして「大経讃」では、いまに十劫とときたれど 塵点久遠劫よりも ひさしき仏とみえたまふ、とされておられる。
少しく矛盾するようだが「二種法身」といふ概念を知るとよく解る。(3)の和讃は方便法身、(55)は法性法身。
そこで「親鸞聖人の仏身論」を梯實圓和上の『一念多念文意講讃』から窺ってみた。
「親鸞聖人の仏身論」
http://labo.wikidharma.org/.../%E8%A6%AA%E9%B8%9E%E8%81...
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ




桜嵐坊って、youtubeのイロモノだったのだけど、ここにきて正統派を目指しているのかな。下衆はゲスだな(笑
https://www.youtube.com/watch?v=8wCt-cWlrFk
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ




ぐちゃぐちゃとややこしいことを書いているのだが少しく飽きた(笑
夏目漱石の『草枕』の冒頭には、
 智に働けば角(かど)が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/776_14941.html
と、世間に於ける人間のあいだの関係性をあらわす表現がある。これは、在野の門徒が教えの綱格(教学)を論じると、浄土真宗は学文ではなく愚か者の教えですと、理屈っぽい言い方に「智に働けば角(かど)が立つ」と非難する。
また江戸時代から伝承された芸能としての「節談説教」のような情念あふれる説教に対しては「情に棹させば流される」と、文明開化の明治期には「節談説教」は禁じられ疎(うと)んじられた。
そして、ある立場を明確にしてご法義を語ると「意地を通せば窮屈だ」の、自由に動きがとれない状態である窮屈に陥るのであろう。
「節談説教」
http://labo.wikidharma.org/.../%E7%AF%80%E8%AB%87%E8%AA...
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見聞一致(けんもん-いっち)

昔じいさんに聞いた見聞一致の話を昔話風にしてみた、

むかしむかし、ある所にお爺さんとお婆さんが住んでいました。
その頃、世間では物騒な事件が起きていて、各家々では戸締りを厳重にしていました。
そんなある晩の事でした。
夜中に台所でドスーンと大きな音がします。
この音に驚いて目が覚めたお婆さんは、隣に寝ているお爺さんを揺り起こし、
お爺さん、台所で物音がした、ひょっとしたら泥棒が来たのかも。
と、言いました。お爺さんは、
よし、ワシが見てくる、危ないからお前はここにじっとしておれ。と、言ってそばにあった箒を掴んで、そろそろと台所へむかいます。
お婆さんは布団の上で、こう思いました。
ひょっとして最近うわさの強盗じゃったらどうしよう。
お爺さんが、強盗に刃物で刺されたらどうしよう。
私も刃物で刺されて殺されるかもしれん。
こう考えると怖くてたまらず、布団の上でブルブルと震えていました。
その時、お爺さんの大きな声が聞こえました。
ネコじゃ、となりのドラ猫のトロが戸棚の上の鰹節の箱をひっくり返した音じゃ。
この声を聞いたとたん、お婆さんの震えは止まって、ホッっと安心しましたとさ。


家のじいさんは、この話をしてから、 布団の上の婆さんは、台所での猫の悪さを見ていないが、爺さんの声で安心する。
「見聞一致」というのは、これと同じで覚りの世界を仏さまが見て話す言葉を聞くのが聴聞だと言っていた。
見て知る事と聞いて知る事は同じ(見聞一致)だと常に言っていたものだ。
御開山は「真仏土巻」に『涅槃経』を引文して、「眼見」と「聞見」という事を仰っている。 衆生が、色もなければ形もない仏さまの世界を知らせてもらうのは聞見だとの仰せだ。
「信巻」でその聞見のお勧めを、

「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。

との仰せである。
浄土真宗は、阿弥陀様がいるのかいないのかを見て信じるご法義ではない。 ただただ、仏願の生起本末を聞くだけのご法義である。
信心に固執する僧俗は「本願成就文」の「仏願の生起本末」にうるさいのだが、仏願の生起本末とは阿弥陀仏の名号のいわれであって(浄土真宗辞典)、信心のいわれではないのであった。
「仏願の生起本末」
http://labo.wikidharma.org/.../%E4%BB%8F%E9%A1%98%E3%81...
ちなみに、如来よりたまわりたる「ご信心」は、林游の上にあるけれども林遊の物では無いから論じにくい。貰い物を自分の物のように語るほど林遊は恥知らずでも莫迦でもない。あえて言えば、源左さん風に、ようこそ、ようこそであろう。
越前の同行は、
 他力の中の自力とは いつも御恩がよろこべて びくとも動かぬ信心が 私の腹にあるという 凡夫のりきみを申すなり
と、云っていたものだが、西欧由来の自覚と仏教語の自覚といふ語を混淆(異質なものが入り混じること)したから、浄土真宗の信心は自覚と同義されて清沢満之師の提唱する自覚としての大谷派の往生浄土無き近代教学となっていくのであった。
「自覚」
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E8%87%AA%E8%A6%9A
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ここは、ほとんど林遊のブログ(webにおけるlog)状態なのだが、信心は仏心だといふことを記したことを思い出した。

>>
信心正因って?

先日の勉強会で坊さんとの雑談。
 
浄土真宗では信心正因っていうけど、正因って因、つまり原因の事だよな。
 
「そう」
 
じゃさ、その信心に対する果は何よ。
 
「それはお浄土で仏さまになるってことやろ」
 
うん、そうだけど言いたいのは、信心というものに対応するものが何かという事を言いたいんだけどな。
 
「う~ん」
 
信心に対応するのは仏心じゃないのかな。
 
「仏心って仏の心の仏心?」
 
そう、果において仏心であるような信心が往生成仏という目覚めた仏に成るという正因でしょ。
 
「う~ん………」
 
今日の講義の唯信鈔文意で、
 
<「涅槃」をば滅度といふ、無為といふ、安楽といふ、常楽といふ、実相といふ、法身といふ、法性といふ、真如といふ、一如といふ、仏性といふ。仏性すなはち如来なり。この如来、微塵世界にみちみちたまへり、すなはち一切群生海の心なり。この心に誓願を信楽するがゆゑに、この信心すなはち仏性なり、仏性すなはち法性なり、法性すなはち法身なり。法身はいろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず、ことばもたえたり。>
 
この如来、微塵世界にみちみちたまへり、すなはち一切群生海の心なり。この心に誓願を信楽するがゆゑに、この信心すなはち仏性なり、ってあるけど、「この」は、如来の心を指しているので衆生の心じゃないんでしょ。
 
だったら信心というものは仏心であるわけでしょ。
如来の仏心が十方微塵世界の林遊に至って、林遊をブッダにするという話だよ。
だから、人間が仏に成るなんてとんでもない話だけど、仏心が林遊に至り届いてこの仏心が往生して即成仏する事は何の不思議も無い訳だろ。賜りたる信心ってこういう事でしょ。
 
「う~ん………」
 
いつも思うけど、坊さんは「信心正因」ってあまり言わない方がいいと思うな。
 
それよりも、お念仏しましょう、なんまんだぶを称えましょう。
 
これは阿弥陀如来が選択して下さった、本願に順じた業因ですから称えましょうねっていう宣伝をすべきだと林遊は思うな。
 
と、こんな事ばっかり言うから林遊さんは煙たがられるのね (笑
「信心正因って?」
http://blog.wikidharma.org/.../%e4%bf%a1%e5%bf%83%e6%ad.../
>>

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ




浄土真宗では「信心正因」といふ。しかして、この正因といふ正しい因とは何の因かといふことを門徒に詳細に説かないので門徒は混乱しているのではないかと思ふ。
もちろん、往生浄土の真宗といわれるように、浄土へ往生することの因が信心であるわけだが、その往生とは御開山によれば「往生即成仏」である。
その意味では信心は成仏の仏因であった。
梯實圓和上は「真仏土巻」の「性功徳釈」の講録で、『論註』の「正道の大慈悲、出世の善根より生ず」を考察し解説されていた。この文に、林遊は梵声猶雷震(ぼんしょう-ゆうらいしん)〔梵声はなほ雷の震ふがごとし〕と雷にうたれたものである。
つまり、

 如来の浄土建立の正因と、衆生の往生の正因とが、まったく同じ大慈悲心のはたらきであるということを表しているのが本願力回向の法義だったのです。

の文である。こういふところは御開山の真如観の発揮なのだが「浄土真宗は大乗のなかの至極なり」なのであった。

>>引用開始
信心が仏因であることを顕す

こうして信心を転釈された後、その信心が仏道の正因であることを論証されるのが、

願海平等なるがゆゑに発心等し、発心等しきがゆゑに道等し、道等しきがゆゑに大慈悲等し、大慈悲はこれ仏道の正因なるがゆゑに。(『註釈版聖典』二五二頁)
といわれた文章です。

この文章は、『浄土論』の「正道大慈悲、出世善根生」という性功徳の文を註釈された『往生論註』上の、

「正道の大慈悲、出世の善根生」とは、平等の大道なり。平等の道を名づけて正道と為す所以は、平等は是諸法の体相なり。
諸法平等なるを以ての故に発心等し。発心等しきが故に道等し。道等しきが故に大慈悲等し。大慈悲は是仏道の正因なるが故に「正道大慈悲」と言へり。{中略}
大悲は即ち出世の善なり。安楽浄土は此の大悲より生ぜるが故なり。故に此の大悲を謂ひて浄土の根と為す。故に「出世善根生」と曰へり。 (『註釈版聖典』七祖篇六一~六二頁)
という文を転用されたものです。親鸞聖人は、この『往生論註』の文章を「真仏土文類」にそのまま引用して、浄土の体性を明らかにされています。しかしいまは、この文章を転用して信心が成仏の正因であることを顕されるわけです。しかし、それには深いわけがあったと考えられます。

 いま両方の文章を比べてみますと、『往生論註』では「諸法平等なるをもつてのゆゑに発心等し」といわれたものを、「信文類」では「願海平等なるがゆゑに発心等し」と変えられています。『往生論註』は、浄土が、平等なる一如法性の顕現した性起の世界であり、聖種性の菩薩であった法蔵菩薩の、法性にかなった誓願によって修起された正縁起の世界であることを表すために、浄土の性徳を論じられた釈文です。しかし「信文類」は、一切衆生を分け隔てなく救おうとする平等大悲の本願海より仏道の正因たる信心が与えられるという、如来回向の信徳を顕すための釈文に変えられているわけです。

 ですから『往生論註』の「発心等し」は、一如にかなった、法蔵菩薩の願心(菩提心)の平等性を指していますが、「信文類」の「発心等し」は、善悪・賢愚の隔てなく救いたまう本願を疑いなく信受している信心の平等性を指していました。信心を発心といわれたのは、信心がおこることは、願作仏心・度衆生心の菩提心がおこっていることであると知らせるためです。次の「道等し」の道とは、菩提の訳語で智慧のことですから、「道等し」とは、自利の智慧の平等性をいい、「大慈悲等し」とは、利他の大慈悲の平等性を表しています。『往生論註』では、法蔵菩薩の大智と大悲のことでしたが、「信文類」では願生行者の信心の持つ智徳と悲徳を指していたというべきです。

 「大慈悲はこれ仏道の正因なるがゆゑに」(『註釈版聖典』二五二頁)という結びの言葉は、『往生論註』では、法蔵菩薩が阿弥陀仏となられた成仏の正因であり、浄土建立の正因であることを表しています。大智の必然の展開である無縁平等の大慈悲心を正因として、真仏・真土が成就していることを示すことが目的だったからです。しかし「信文類」では、私たちの往生成仏の正因が、仏の大慈悲心であるような、本願力回向の信心であることを顕そうとされています。すでにいくたびも指摘したように、信楽釈に「(如来の信楽であり、同時に衆生の信楽であるような)この心はすなはち如来の大悲心なるがゆゑに、かならず(衆生の)報土(往生)の正定の因となる」(『註釈版聖典』二三五頁)といわれていたものを裏付ける釈だったといえましょう。

 こうして、性徳(真如)の諸法平等と修徳(阿弥陀仏)の願海平等、法蔵菩薩の発願と願生者の信心(発心)、菩薩道の本体である悲智と信心の体徳である悲智というように、それぞれ対応させることによって、法蔵菩薩も信心の行者も、ともに無縁平等の大慈悲心を正因として仏道を成就していくという道理を明らかにされていったのです。このように阿弥陀如来の成仏の因果と、衆生の往生の因果との対応関係が成立するのは、生仏一如の性徳にかなっておこされた生仏一如の誓願によって回向成就された信心であるからです。いいかえれば、如来の浄土建立の正因と、衆生の往生の正因とが、まったく同じ大慈悲心のはたらきであるということを表しているのが本願力回向の法義だったのです。
http://labo.wikidharma.org/.../%E4%B8%80%E5%BF%B5%E8%BB...
>>引用終了

浄土真宗においては、本願力回向の信心とは、願作仏心・度衆生心の本願より発る他力の菩提心であった。頭のよい真宗の布教使はこれがワカラン(分・判・解)のです(笑

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記憶が定かではないのだが、西欧の哲学者が、宗教は決断(迷わずに意志を決めること。)である、と言ったそうである。
日本人は農耕民族であったから個の自由な選択といふことには否定的であった。特に稲作においては水は共有(総有)資源であり、集団で田植えの時の水の供給時期を決めた時期以外に田植えをすることは不可能であり、そもそも水が無ければ田植えが出来ない。
田んぼで田植えをしたこともない、意識高い系高等遊民は、それを「同調圧力」と否定的にいふのであろう。いわゆる「空気」であるが、山本七平の『空気の研究』は面白い考察であった。空気には水である。

しかして、浄土真宗では内面の宗教的「個の決断」として「廃立」を論ずる。これを先達は「安心(心を一処に安置して不動なこと。安定した心のこと。)は廃立にあり」と言われたのであった。
深川倫雄和上は、坊さんや法を伝えようとする門徒に、
 安心は廃立にあり、行化(修行と教化)はさもあらばあれ、
と「廃立」による自己の宗教的「決断」を仰っておられた。
「廃立」
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E5%BB%83%E7%AB%8B
「安心」 あんじん
http://labo.wikidharma.org/.../%E3%81%82%E3%82%93%E3%81...

浄土真宗のお説教とは、「決断」の「安心」を説くことなのだが、ここんとこの布教使の「廃立」が出来てないのかも、知らんけど。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ




浄土宗は、法然聖人滅後に四分五裂して各派に分かれた。これは法然聖人の教えが「往生之業 念仏為本(往生の業は念仏を本とす)」といふ実に単純明快な為に解釈に齟齬をきたし各種の派に分かれたのであろう。
「法然門下の異流」
http://jodoshuzensho.jp/.../%E6%B3%95%E7%84%B6%E9%96%80...
なお、現在まで残っているのは「鎮西浄土宗」、「西山浄土宗」と我が「浄土真宗」である。我々浄土真宗側からは、あまり「鎮西浄土宗」「西山浄土宗」の教えを知らないのだが、蓮如さんが盛んに説かれた「機法一体」や「平生業成」のご法語は、実は西山浄土宗で使われた言葉であった。
その意味では覚如上人は西山義に学んだこともあり「西山浄土宗」の教義の影響をうけているのであろう。そこで少しく法然門下の異流について学んでみよう。
「法然聖人の他力思想」
http://labo.wikidharma.org/.../%E6%B3%95%E7%84%B6%E8%81...
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ




このWikiDharmaグループは、wikidharma.org ドメインが落ちまくるので監視し情報交換するグループであった。
wikidharma.orgのサーバーは、いわゆる自サバであり、林遊がすべての費用を持つ条件で某別院に置いてある。(当時は、光ファイバーが林遊の在所まで来ていなかった為)
2016年のサーバークラッシュの時は、サーバーメンテナンスに疲れてサーバーの運営を止めようと思った。しかし家内が、自分のネット上の勉強部屋が無くなったらさみしいでしょというので、今一度、新しいサーバーマシンを購入してデーターをサルベージしようと思いたったのであった。
レンタルサーバーといふ手もあるのだろうが、いま少しく費用と効果に納得がいかないのでパスしている。林遊は貧乏だし(笑
「サーバを復活してみた」
http://blog.wikidharma.org/.../%e3%82%b5%e3%83%bc%e3%83.../
そんなこんなでの 、WikiDharmaであった。
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『論註』において衆生往生の因果は阿弥陀仏の本願力によることを、
 覈(まこと)に其の本を求むれば、阿弥陀如来を増上縁とするなり。(論註 P.155)
とされて、
 他利と利他と、談ずるに左右あり。(論註 P.155),(行巻 P.192)
とある。
「覈求其本釈」
http://labo.wikidharma.org/.../%E8%A6%88%E6%B1%82%E5%85...
「他利利他の深義」
http://labo.wikidharma.org/.../%E4%BB%96%E5%88%A9%E5%88...
これらを前提に、梯實圓和上の、
「親鸞聖人の他力観」
http://labo.wikidharma.org/.../%E8%A6%AA%E9%B8%9E%E8%81...
を拝読すると、他力の他は利他力(仏・菩薩が衆生(他)を利益する力)の対象である「私」だといふことが理解できると思ふ。他力の他は私なのである。
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そもそも「念」といふ漢字のなりたちは、
 形声。心と、音符今(キム、コム)→(デム、ネム)から成る。心にかたくとめておく意を表す。「漢字ペディア Kanji Pedia」
https://www.kanjipedia.jp/kanji/0005486400
とあるように声ではなく心の働きであった。
ところで善導大師は第十八願の、

 たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽して、わが国に生ぜんと欲(おも)ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ。(無量寿経 p.19)

の文を、

 もしわれ成仏せんに、十方の衆生、わが名号を称すること下十声に至るまで、もし生ぜずは、正覚を取らじ。(往生礼讃 P.711)

と、乃至十念の「念」を、下十声に至るまで(下至十声)と「声」とされておられた。
これは『観経』下品下生の、

 〈なんぢもし念ずるあたはずは、まさに無量寿仏〔の名〕を称すべし〉と。かくのごとく心を至して、声をして絶えざらしめて、十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ。

とある「至心令声不絶 具足十念 称南無阿弥陀仏(心を至して、声をして絶えざらしめて、十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ)」と『無量寿経』の「乃至十念(すなわち十念に至るまで)」を会合(えごう:本来は別であるものを相互に照らし合わせて解釈すること)されたからであった。
『選択本願念仏集』では、この「念」と「声」の関係について、

 問ひていはく、『経』(大経)には「十念」といふ、〔善導の〕釈には「十声」といふ。念・声の義いかん。
答へていはく、念・声は是一なり。なにをもつてか知ることを得る。『観経』の下品下生にのたまはく、「声をして絶えざらしめて、十念を具足して、〈南無阿弥陀仏〉と称せば、仏の名を称するがゆゑに、念々のうちにおいて八十億劫の生死の罪を除く」と。
いまこの文によるに、声はこれ念なり、念はすなはちこれ声なり。その意明らけし。{中略} ゆゑに知りぬ、念はすなはちこれ唱なりと。(選択本集P.1212)

と、問答を設けて解釈されておられた。これを「念声是一釈」といふ。
ところが、この「念声是一釈」に対して法然聖人示寂の後に公開された『選択本願念仏集』を読んでボロクソに非難したのが、御開山と同い年であった明恵高弁であった。
御開山は、法然聖人の遺弟として、この明恵上人の論難に対する為に、第十八願の「乃至十念」は声による讃嘆であることを、「第十七願」の十方世界の無量の諸仏の「称我名者 不取正覚(わが名を称せずは、正覚を取らじ)」の文によって『無量寿経』の乃至十念は衆生の声の称名の意を顕されたのであった。
これは明らかに覚如・蓮師の信後の行者の心もちによる「称名報恩説」と違った『論註』の讃歎門による論理であった。「信心正因 称名報恩」の義に固執する人はこれが判らんのです。
「念声是一」
http://labo.wikidharma.org/.../%E5%BF%B5%E5%A3%B0%E6%98...
「トーク:念声是一」
http://labo.wikidharma.org/.../%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82...

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ




宗教離れと言われて久しいのだが、実はよく使う日本語には仏教由来のものが少なくない。
だから世間語となった言葉の意味から仏教語を理解しようとすると錯覚と誤解を生じかねないこともあると思ふ。その意味では言葉としての出拠を押さえておくことは大切だと思ふ。── ともあれWikiArcは他者の為ではなく全く林游個人の自己完結の試みでもあるから、人の為ではなく自分の備忘録であった。最近ボケてきてるから(笑 ──
例として仏教語でいえば、たとえば「玄関」といふ言葉は、禅宗でよく使われた言葉であり、「玄妙(げんみょう)な仏道に入る関門」といふ意味で、仏道に入る玄・関であった。
「玄関 (げんかん)」
http://www.hongwan.net/.../%E7%8E%84%E9%96%A2_(%E3%81%92...
言葉は時代を経るによって元来の意味が拡散し本来の意味が失われることもある。いわゆる「宗教言語(仏教語)」の言葉の本来の意味が喪失されると本体の宗教そのものも解らなくなるのであろう。
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ




「宗教言語」といふ表現がある。これは世俗語に対する言葉のことです。例えば辞書を引いても別に仏教語といふ項目があるように、世俗語の言葉と基本概念が違うと同時に、その顕そうとする内容も違うから「宗教言語」といふのでした。
その「宗教言語」で表現されているのが「聖典」といわれるものでしょう。
言葉や思考の基本的な約束事に自同律と矛盾律と排中律とがあるのだが、梯實圓和上は『聖典による学び』(1990)で、この「宗教言語」としての『聖典』とは何を説いているのかとを示して下さっていた。

>>>引用開始
 ところで、私どもがものを考える時に必ず従わねばならない基本的な法則がありますね。思考の法則があるでしょう。ギリシャ以来、私達がものを考える時には、必ずその思考が守らねばならない法則があります。自明の法則があります。それは、AはAである(A=A)という、いわゆる自同律ですね。

 AはAである、従ってAはAでないものではない、Aは非Aではないという矛盾律が成立します。そしてAと非Aとの間に中間は存在しないという排中律と合わせますと三つの法則になりますが、中心は自同律と矛盾律でしょうね。それは私は私であるという事と、私は私でないという事と、これは矛盾します。ですから、AはAであるということ、これは守らねばならない約束事です。

 とにかくAはAである。Aは非Aでないというと、これはものを考えるときには必ず守らねばならない法則です。このAと非Aを「有る」と「無い」といってもいいですね。「有」と「無」これは決して両立しない事柄です。ところで悟りの境地は、一切の束縛から解放された境地であるというので「解脱」の境地ともいいますが、「和讃」にはその境地を

解脱の光輪きはもなし
 光触かぶるものはみな
 有無をはなるとのべたまふ
 平等覚に帰命せよ

 というような言葉で讃嘆されています。それは「有無」をはなれた境地であるというのです。

 「有」というのは「有る」であり、「無」というのは「無い」であって、判断でいえば、「・・・・である」という肯定と「・・・・でない」という否定ですね。これの両者を超えている、これが解脱とか、悟りというものだ、こう言われているわけです。

 だからどうゆう事かといいますとそこではAはAであるという形でものを考えないということです。しかしそれではものが考えられないじゃないかといわれるでしょうが、実は本当に具体的な存在は「AはAである」という考え方では捉えられないということを顕しているわけです。

 「AはAである」ということは、具体的には「私は私である」という事でしょうね。これは言葉でいいますと「私」は「私」であるといったら同語反復のようです。ところが少し違う、我々が具体的に「私は私である」といった時には、「私」は「私」以外の者ではないと強調しようとしているわけです。

 だからどうしたのだといったら、「私」は人とは違った「私しか生きられない私の人生を生きるのだ」といいたいわけでしょう。ここで「私は私である」といった時には、「私は私でないものではない」ということを通して、だから、「私は私である」といった時には、この初めの「私」(主語)と後の「私」(述語)とでは自覚内容が違っております。

 そうすると「私」は「私」であるといった時には、ただ同語反復しているのではないのです。だから「私」は誰の生き方でもない「私」の生き方をするのだ、という自覚と自立を顕わしています。

 そうしますと初めの「私」は自覚以前の「私」、それを「私である」といった時の後の「私」は自覚し自立している「私」ですから明らかに「私」の内容が違っています。そうすると初めの私(A)と後の私(A)とは違いますよ、つまり「私でないもの」(非A)を媒介とする以前の私(A)と、私でない(非A)というものを否定的に媒介して成立した後のAとではAの内容が違うということになりましょう。

 違うとすれば、Aは非Aであるということになりましょう。これが現実にあるものの姿なのです。つまり現実に有るのは、AはAであるというだけでは表せない内容を持っているということになります。そうするとAはAであって、非Aではないと云う論理は崩れていくということになりますね。すこしややこしくなってきました。

 お釈迦さまがおさとりになった境地というものは、AはAであって、決して非Aではないという論理では表せない領域であったのです。その意味では不思議といわねばなりませんが、実はそれが、もっとも具体的な、もののあるがままの姿を見極めておられたのだといわれています。

 そこでその境地を真如(本当にあるがままのありよう)とも実相(まことのすがた)ともいわれているのです。
http://labo.wikidharma.org/.../%E8%81%96%E5%85%B8%E3%81...
>>>引用終了

『聖典による学び』は知人の坊さんから貰ったテキストなのだが、この『聖典による学び』を読んで、痺れて和上にネットに掲載してもよろしいかと印刷した文書を同封した手紙を出したら、和上は電話をかけて下さって「いいよ」と仰って添削したワープロ文書を送って下さったものである。この時に電話をとって少しくあたふたした記憶がある(笑
『聖典による学び』
http://labo.wikidharma.org/.../%E8%81%96%E5%85%B8%E3%81...

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ




草川廣江さんが、金魚掬いの話をリンクしていたので梯實圓和上の《道場》を思い出した。
 「人生は 如来にあわせていただく 道場である」- 梯實圓
 The life is a dojo where we meet Tathagata.
この言葉は好きな言葉である。『維摩経』には、道場について32種を挙げている。この中に「諸煩惱是道場知如實故(諸の煩悩は、これ道場なり、如実に知るが故に)」とか、「三界是道場無所趣故(三界は、これ道場なり、趣く所なきが故に」等とある語に依られたのであろう。
生きるということは煩悩に苛(さいま)まされ、人生は何が起こるか判らない不安で難儀なことであるが、自己の人生を修行する道場であると受け取るところに、生きることに仏道としての新しい意味がもたらされる。これを浄土真宗では「おてまわし」とか「お育て」などと呼称してきた。あらゆるものの中に、私を如来に遇わせていただく機縁であると受け取ることで生と死の意味が転じられていくのであった。
と、いふ訳で(どんな訳やろ)、梯實圓和上の「在家仏教ということ」へリンク。
「在家仏教ということ」
http://www.hongwan.net/.../%E5%9C%A8%E5%AE%B6%E4%BB%8F%E6...
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ




今日は安倍さんの国葬儀で各人各様の弔辞が読まれたことであろう。
稲城選恵和上は、日本人にとって最高の弔辞は「白骨の御文章」です、と仰っておられたものである。先立つ者が身をとおして「後生の一大事」を告げるのが「白骨の御文章」であった。
「白骨」
http://labo.wikidharma.org/.../%E5%BE%A1%E6%96%87%E7%AB...
「といへり」
http://labo.wikidharma.org/.../%E3%81%A8%E3%81%84%E3%81...
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ




日本には「香道」といふ文化がある。家内は一時アロマテラピーに嵌っていた(笑
それは香りを楽しむ道なのだが、発展して香りの材料をあてるゲームにもなった。これを聞香(もんこう)といふ。聞香とは己の意思を働かせるのではなく、ふと庭から香ってくるキンモクセイ(金木犀)の香りのようなものである。自らの造作の意味ではなく「聞」とは「聞こえる」と訓ずるように、私が主体として香りに接するのではなかった。空間の向こう側から私に香るものであり、自己の意思を働かせなくとも自然に届くから「聞」といふのであろう。
越前の門徒は「聴聞」といふ語句を「聴」と「聞」にわけて、聴けば聞こえる阿弥陀さまのご法義といっていたものである。
「聴聞」
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E8%81%B4%E8%81%9E
ともあれフレンドの投稿に「染香人」とあったのでWikiArcの「染香人」の項目に追記してみた、
「染香人」
http://labo.wikidharma.org/.../%E6%9F%93%E9%A6%99%E4%BA%BA
「首楞厳経」
http://labo.wikidharma.org/.../%E9%A6%96%E6%A5%9E%E5%8E...
御開山は、法然聖人を智慧をあらわす勢至菩薩とみておられたようである。
御開山の奥方であった恵信尼さまの手紙(恵信尼消息)でも、
 あのひかりばかりにてわたらせたまふは、あれこそ法然上人にてわたらせたまへ。勢至菩薩にてわたらせたまふぞかし」と申せば  (p.812)
とあるから、当時は法然聖人の「本地」は「智慧」をつかさどる勢至菩薩と思われていたのであろう。御開山は「智慧の念仏(なんまんだぶ)」といふ表現をなさるが、念仏は「智慧」の顕現なのであった。
智慧の念仏うることは
 法蔵願力のなせるなり
 信心の智慧なかりせば
 いかでか涅槃をさとらまし
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ




草川廣江さんが藤原正遠師の文を挙げておられたので、「四分六分の道」といふ法話(テレホン法話)を思い出した。藤原正遠師にお会いしたのが50年ほど前であった。
デジタル化といふことで最近は0と1のいわゆる白黒論理になるのだが、アナログ論理なら一分から十分(寸)の目盛りである。だから日本語では、勝負は五分五分とか腹八分目とか一寸の虫にも五分の魂などといふ表現がある。
ちなみに西山派では、他力を「全分他力」といふ表現をする。しかし鎮西派では、聖道門は「自は強く他は弱し」とし、浄土門は「他は強く自は弱き」とし、自力と他力が相俟(ま)って救済が成立するとして、浄土真宗のような本願力回向による全分他力説をとらない。『選択伝弘決疑鈔』
「トーク:宿善」
http://labo.wikidharma.org/.../%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82...
で、他力説とは違うのだが、凡夫の心は揺れ動いているものだから、自分で勝手に性急に結論を出さないように、といふ藤原正遠師の法話。
「四分六分の道」
http://www.hongwan.net/.../%E5%9B%9B%E5%88%86%E5%85%AD%E5...
相手の言葉に腹が立った時、あの人の心の目盛りが五分のラインを越えたのであって四分は違うのだなと受け取ると、幾分腹立ちもおさまるようである、知らんけど。
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ




これはどこかで書いたが、昔、大谷派の教学者が主催するBBSで自著の解説をされていた。この教学者は「真仏土文類」で、『涅槃経』の引文、
 以是義故。如來実不畢竟涅槃。
は、「この義をもつてのゆゑに、如来は実に畢竟涅槃せず」と読むべきなのだが、「この義をもつてのゆゑに、如来は実に畢竟涅槃にあらざる」と読んでいるので、この部分は「如来は実は究極的な涅槃ではない」といふ意味になって訳がワカランと言われていた。
その時に、本願寺派の脚注では、
  如来は絶えず生死の迷いの世界で活動されるから、涅槃にとどまらないという意。(真巻 P.348)
とありあますよん、と書き込んだのだが、それは本願寺派の解釈!!と言われて却下されたことがあった。
そのことから、後にWikiArcの「畢竟涅槃にあらざる」の脚注に追記したものである。
「畢竟涅槃にあらざる」
http://labo.wikidharma.org/.../%E7%95%A2%E7%AB%9F%E6%B6...
御開山は「無住処涅槃」といふ語は使われておられないのだが、「如来は実に畢竟涅槃にあらざる、これを菩薩と名づく」とは涅槃からの還相の菩薩を顕そうとされたのであろう。
「無住処涅槃」
http://labo.wikidharma.org/.../%E7%84%A1%E4%BD%8F%E5%87...
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ




『教行証文類』には、

つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり。往相の回向について真実の教行信証あり。(教巻 P.135)

と浄土真宗という宗義であらわされ、『浄土文類聚鈔』では、

本願力の回向に二種の相あり。一つには往相、二つには還相なり。往相について大行あり、また浄信あり。(浄文 P.478)

と本願力回向という法義であらわされておられるように、浄土真宗は「往相」と「還相」の本願力回向のご法義である。
信心を強調する覚如上人や蓮如さんは、救いを強調して、あまり還相といふことを論じられないのだが、御開山の教えは「往相」と「還相」の二回向のご法義であった。
我々門徒は、何故、西方仏国に往生しなければならないか? といふ意味や意義を喪失している。本来の浄土教の意義は、衆生済度の能力を獲る為に浄土に往生することを期するのであった。しかして法を説く坊主が、あの還相の淵源である「無住処涅槃」の浄土を持たないから浄土の還相を説き切らんのだろうな。
家内は、私は難しいことは判らないし頭も悪いからよく判らないけど、お浄土から還ってきたら千年杉のようになるわ。人々や動物の為の日陰となり、雨の降る時の木陰になるの、と言っていたものだ。ちなみに林遊の還相は「蚊」が希望でありボウフラの時に駆除されて、浄土の八功徳水は酒の味だというのでいかにして浄土へ還るかを工夫するであろう(笑

御開山は『歎異抄』第4条で

 一 慈悲に聖道・浄土のかはりめあり。聖道の慈悲といふは、ものをあはれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもふがごとくたすけとぐること、きはめてありがたし。浄土の慈悲といふは、念仏して、いそぎ仏に成りて、大慈大悲心をもつて、おもふがごとく衆生を利益するをいふべきなり。今生に、いかにいとほし不便とおもふとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。 しかれば、念仏申すのみぞ、すゑとほりたる大慈悲心にて候ふべきと[云々]。(p.837)

「浄土の慈悲といふは、念仏して、いそぎ仏に成りて、大慈大悲心をもつて、おもふがごとく衆生を利益するをいふべきなり」

とされておられた。御開山は引文されたおられないのだが、『往生要集』の菩提心釈で、

知りぬべし、念仏・修善を業因となし、往生極楽を華報となし、証大菩提を果報となし、利益衆生を本懐となす。 たとへば、世間に木を植うれば華を開き、華によりて菓を結び、菓を得て餐受するがごとし。
http://labo.wikidharma.org/.../%E5%BE%80%E7%94%9F%E8%A6...

と、「業因」、「華報」、「果報」の「本懐」は利益衆生だとされたいたのであった。
ちなみに、ここで引用されている『浄土十疑論』はWikiArcにUPしてある。林遊の適当な読み下しも載せているが、諸兄の校正を乞う。
http://labo.wikidharma.org/.../%E6%B5%84%E5%9C%9F%E5%8D...

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

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草川廣江さんの示して下さった高田派の真慧上人述の『顕正流義鈔』では、

 鸞聖人は、「これ行者のわがおこし行ずるに にたりといへども、往相回向の大行・往相回向の大信、まさしく他力なり」と『教行証』に判じたまへり。
http://labo.wikidharma.org/.../%E9%A1%95%E6%AD%A3%E6%B5...
と大行・大信を説く『教行証』とされている。すこぶる穏当な解釈だと思える。

御開山は法然聖人の説かれた教えを、聖道門の「教行証」に対して浄土門の「教行証」として対抗されたのでした。それが『顕浄土真実教行証文類〕の「教行証」でした。この教行証といふ名目を、他流(鎮西派)からは、親鸞は聖道門の体系である「教行証」で浄土宗を語るのはケシカランといわれた事もあったそうです。(出拠未確認)
WikiArcで引用している「仏教学辞典」では、

③ 親鸞は聖道門(この世でさとりをひらく教え)の教行証に対して浄土門(浄土へ生まれ、そこでさとりをひらく教え)の教行証を示し、行とはさとりの果へ至らせる因であるから衆生が修(おさ)める自力の行ではなく、衆生をして信じさせ称えさせるはたらきとしての名号そのものであり、衆生はその大行を信じさせられる一念に往生が定まるから信が往生の因であるとして、行を分けて行と信の二とし、教行信証の四法を立てる。
http://labo.wikidharma.org/.../%E6%95%99%E8%A1%8C%E8%A8%BC

とあります。
別の言い方をすれば、「教行証」とは浄土門を知らない者に対してであり、その浄土門に入った人に対して行から信(浄土の菩提心)を別開して「教行信証」といふ信を顕されたのだと思ひます。
「総序」では、
 真宗の教行証を敬信して、ことに如来の恩徳の深きことを知んぬ。
http://labo.wikidharma.org/.../%E9%A1%95%E6%B5%84%E5%9C...
とあり、「教文類」では、
 つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり。往相の回向について真実の教行信証あり。
http://labo.wikidharma.org/.../%E9%A1%95%E6%B5%84%E5%9C...

とされておられます。
ちなみに、この「教行信証」の体系を結釈されるのは「証文類」です。
http://labo.wikidharma.org/.../%E9%A1%95%E6%B5%84%E5%9C...

この結釈まで読んで「教行信証」の体系が判るのだと思ふ。
ところが「信心正因」といふ語に幻惑されて僧俗ともに「信文類」の記述を極端に重視するのですが、星野元豊師は、『親鸞 教行信証 「原典日本仏教の思想』の解説で、

 親鸞は『往生論註』を引用して還相廻向の論理を展開しているが、それはまさしく真宗の救済成立の根拠の論証である。従って証巻こそは『教行信証』の中心をなすものといえるであろう。読者は心をひそめて、この点に注目して読んで頂きたいと思う。
http://hongwanriki.wikidharma.org/.../%E3%80%8E%E6%95%99...

と言われていた。大乗仏教は因位の法蔵菩薩がそうであったように、「上求菩提・下化衆生」であった。
浄土真宗の救いとは、往生決定の安心(あんじん)であるが、それはまた御開山が「証文類」で、

 還相の利益は利他の正意を顕すなり。
http://labo.wikidharma.org/.../%E9%A1%95%E6%B5%84%E5%9C...

とされたように、仏果を得て後の衆生済度の利他の楽しみであった。
深川倫雄和上は、

 今まさに私の五体の上に、名号功徳が合掌礼拝という姿であらわれ、称名という姿があらわれているのです。やがて息がとまったら西方極楽への往生という事実があらわれ、大般涅槃をさとるという事実があらわれ、還相の菩薩としてはたらく事があらわれます。そのことが「今」決まっているのです。

と仰っていたものである。ありがたいこっちゃ。

なんんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ




橋本 潤一さんが、
>お念仏に遇うということが阿弥陀様に遇うということですね。
と、投稿して下さったので人格神(仏)としての仏と法としての仏について想起した。
このWikiDharmaの画像にもあるように、初期仏教では人格としての釈尊の像(仏像)ではなく「法輪」が仏法のシンボルとして使われました。
我田引水ですが、御開山も人格を想起する仏像ではなく、「法」としての名号法を尊崇されたのだと思ふ。もちろん高森親鸞会のような極端な主張は勘違い(間違って思い込むこと)の間違いですけど(笑
「名号画像」
http://labo.wikidharma.org/.../%E5%90%8D%E5%8F%B7%E7%94...
そのような意味では、御開山は阿弥陀如来を人格仏ではなく法の顕現と見ておられたのでしょう。
浄土真宗では名体不二(名と体は二ではない)といいますが、「名」とは南無阿弥陀仏の名号、「体」とは阿弥陀仏という仏体のことで、両者は一つであって異なるものではないといいます。
「名体不二」
http://labo.wikidharma.org/.../%E5%90%8D%E4%BD%93%E4%B8...
本願寺派の「浄土真宗の教章」には、
 本尊
  阿弥陀如来(南無阿弥陀仏)
とあるのも名体不二の意でした。〔 括弧外せ(笑 〕
梯實圓和上は、
 お念仏は私の前に届いた仏様であり、私の前に届いたお浄土なのです。浄土が念仏となって私の上に顕現しているのだ。仏様は念仏となって私の上に実現しているのだ。
だから念仏は大利無上というのだという事です。だからお念仏を頂いているという事が仏様を頂いている事です、阿弥陀仏のお徳の全体を頂いている事であり、お浄土の徳の全てを頂いている事です。
「トーク:真実の利」
http://labo.wikidharma.org/.../%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82...
と、仰っていたものです。
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ 有難いこっちゃなぁ




順彼仏願故(じゅんぴ-ぶつがんこ)
法然聖人は、仏教史上で初めて阿弥陀仏の本願の念仏(なんまんだぶ)により浄土へ往生する《浄土宗》を建立された。
それまでは聖道諸宗の寓宗(ぐうしゅう:独立しておらず他宗に属しながらその属する宗旨と別の教えを立てる宗)でしかなかった浄土教を独立した一宗として創宗されたのであった。浄土宗では法然聖人の回心の承安5年(1175)を開宗だとしている。
この法然聖人の回心の原点は、善導大師の『観経疏』の文「順彼仏願故(彼の仏願に順ずるが故に)」であった。
若い頃から仏道の修行に励みながら、その結果を得られなくて懊悩していた43歳の法然聖人がなげきなげき経蔵に入り経・論・疏(釈)を拝読し「順彼仏願故」の文によって回心されたのであった。
「法然上人の回心」
>>>
されは出離の心ざしいたりてふかかりしあいだ、もろもろの教法を信じて、もろもろの行業を修す。およそ仏教おほしといへども、詮ずるところ、戒定慧の三学をばすぎず。いはゆる小乗の戒定慧、大乗の戒定慧、顕教の戒定慧、密教の戒定慧なり。しかるにわがこの身は、戒行において一戒をもたもたず、禅定において一もこれをえず。智恵において断惑証果の正智をえず。
{─中略─}
かなしきかな、かなしきかな、いかがせんいかがせん。ここにわがごときは、すでに戒定慧の三学のうつは物にあらず。この三学のほかに、わが心に相応する法門ありや、わが身にたへたる修行やあると、よろづの智者にもとめ、もろもろの学者にとぶらふしに、おしふる人もなく、しめすともがらもなし。
しかるあひだ、なげきなげき経蔵にいり、かなしみかなしみ聖教にむかひて、てづからみづからひらきて見しに、善導和尚の『観経の疏』{散善義}にいはく、「一心専念弥陀名号、行住坐臥不問時節久近、念念不捨者、是名正定之業、順彼仏願故(一心にもつぱら弥陀の名号を念じて、行住坐臥に時節の久近を問はず念々に捨てざるは、これを正定の業と名づく、かの仏の願に順ずるがゆゑなり。)」といふ文を見得てのち、われらがごとくの无智の身は、ひとへにこの文をあふぎ、もはらこのことはりをたのみて、念念不捨の称名を修して、决定往生の業因にそなふべし。
ただ善導の遺教を信ずるのみにあらず、又あつく弥陀の弘願に順ぜり。「順彼仏願故」の文ふかくたましゐにそみ、心にととめたる也。
『和語灯録』諸人伝説の詞
http://labo.wikidharma.org/.../%E5%92%8C%E8%AA%9E%E7%81...
>>>
「順彼仏願故」の文ふかくたましゐにそみ、心にととめたる也。であった。
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ




浄土真宗のご法義を「信心正因 称名報恩」としたのは覚如上人から始まるのだが、現代の坊さんも定説への疑問を全面的に論ずるのは困難なのかなあ。
「論題「称名報恩」(2021年6月21日) 今年の本願寺派の安居論題。昨年よりご一緒に学んできましたが、今回はそのまとめで」
https://www.youtube.com/watch?v=_lgloM-OOWA
「鏡の御影」の讃名の改竄はアカンわなぁ
http://labo.wikidharma.org/.../%E9%8F%A1%E3%81%AE%E5%BE...
「讃嘆門」
http://labo.wikidharma.org/.../%E8%AE%83%E5%98%86%E9%96%80
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ




渡邊 幸司さんが、梯和上が「仏をほめたてまつるになるとなり」と讃嘆のお徳をお話し下さったのを思い出しました。ナモ!
と、投稿して下さったので、註釈版の「仏をほめたてまつるになる」の脚注に追記したことを思い出した。御開山は『尊号真像銘文』の「すなはち南無阿弥陀仏をとなふるは仏をほめたてまつるになるとなり。」と、「なるなり」ではなく「なるとなり」といふ表現をなさっていることの考察である。
「仏をほめたてまつるになる」
http://labo.wikidharma.org/.../%E4%BB%8F%E3%82%92%E3%81...
「トーク:仏をほめたてまつるになる」
http://labo.wikidharma.org/.../%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82...
「教行証文類のこころ」
http://labo.wikidharma.org/.../%E6%95%99%E8%A1%8C%E8%A8...
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ




業因
浄土真宗では「信心正因」「称名報恩」といふ。蓮如さんは、
 この信心を獲得せずは極楽には往生せずして、無間地獄に堕在すべきものなり。(p.1110)
とおっしゃるものだから、門徒は信心を獲ようと聴聞に励む。
しかして説教では、その信心の対象をあまり説かないので門徒は求道地獄に陥る。まじめな人ほどこの信心の求道地獄へ堕ちて、信心に惑うてなかなか這い上がることができないのであろう。

ともあれ真宗学では「業因」といふことをいふ。たとえばWikiArcにUPしてある灘本和上の『やさしい 安心論題の話』では、

>>
 「正因」とは、正当の因ということで、信楽一心が仏果を得べき正当の因であるという意味であります。これを逆にいえば、信心以外は正当の因でないということであります。
 ここで、宗学の上でいう業因(ごういん)と正因(しょういん)との別について述べますと、「業因」は果を得べき行徳を意味し、法の力用(ちから・はたらき)をあらわす語であります。したがって、仏果を得べき業因は本願成就の名号であります。
 「正因」というのは、個々の人の上に往生成仏の果を得べき因が決定することをあらわします。衆生を往生成仏せしめる業因たる名号はすでに成就されているけれども、これを信受しなければわたくしの往生は決定しません。名号を信受することによって、わたくしどもの上に往生成仏の果を得べき因が決定するのです。これが信心正因であります。
 船に乗ることによって向う岸に渡り、薬をのむことによって病が治ります。この場合、船と薬とは名号業因にたとえられ、「乗る」と「のむ」とは信心正因にたとえられます。もっとも、このたとえでは「乗る」「のむ」はわたくしの行いであって、船や薬のはたらきとは別でありますが、ご法義の上では、衆生に信受させることは名号願力のはたらきであります。

 なぜ信心が正因になるのかという理由をうかがいますと、阿弥陀仏がすでに衆生の往生成仏すべき願と行、智慧と慈悲、自利利他の徳をまどかに成就せられ、これを名号としてわたくしどもに与えてくださっているから、これをいただく信心一つで、往生成仏の果を得べき因徳が、わたくしの上にそなわるのであります。つまり、本願成就の名号が往生成仏の業因であるから、これを信受するのみで仏となるべき身に定まるのであります。
「安心論題/信心正因」
http://labo.wikidharma.org/.../%E4%BF%A1%E5%BF%83%E6%AD...
>>
つまり「信心正因」とは「法」と「機」を時間の前後関係で述べた「機受」を表現する言葉であった。ともあれ「信心正因」と「称名報恩」をワンセットで説くから、門徒は称名は報恩の意味でしか捉えられないのであった。深川倫雄和上は、「称名報恩」を骨頂する人に、あんたがたの仏さまは救うてやるから礼を言えというのか? と仰っていたものである。
御開山は なんまんだぶを『論註』の五念門の一である讃歎門、
 「かの如来の名を称す」とは、いはく、無礙光如来の名を称するなり。(七祖 p.103)
から、
 大行とはすなはち無碍光如来の名(みな)を称するなり。(註 p.141)
とされたのは、なんまんだぶは「讃歎門」であると押さえておられたからである。
今の布教使さんは『浄土論註』を読まないから「称名報恩」だけで、なんまんだぶを捉えているので五念門の「讃歎門」のなんまんだぶの意義を説けないのであろう。
「業因」
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E6%A5%AD%E5%9B%A0

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ




日本では自己を修練することを「道」といふ。
仏道の道はもちろんだが、古くから茶道・華道・香道といわれた。新しくは剣道・柔道などの武道でも道といふ。
これは形から入って究極的には心といふ精神の世界の充足を目指すから道といふのであろう。形而下といふ形から、形の上である形而上への道をあらわしているのかもである。
かって『無量寿経』を読んでいて、「出世本懐」に、

 世に出興するゆゑは、道教を光闡して群萌を拯ひ、恵むに真実の利をもつてせんと欲してなり。(註 p.9)

と「道教」とあるので、なんでシナのタオイズム(道教)が出てくるのか不思議なので調べたことがあった。要するに『無量寿経』はシナの格義仏教(異なる国の異質の文化を受容する場合、自国の文化のもつ思想の義を格(きまり、ようす、規格)に合わせて比較し理解することを格義という。)の頃に翻訳されたから格義の影響を受けているのであろう。また『無量寿経』の自然といふ表現も老荘思想(道教)からであろう。
「格義」
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E6%A0%BC%E7%BE%A9

要するに「道」とは種々に論じられるが、『論註』では阿耨多羅三藐三菩提を、
 「阿」は無に名づく、「耨多羅」は上に名づく、「三藐」は正に名づく、「三」は遍に名づく、「菩提」は道に名づく。
http://labo.wikidharma.org/.../%E9%A1%95%E6%B5%84%E5%9C...

と、仏道においては道とは「菩提」の翻訳であるとされておられた。
「道」
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E9%81%93

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ




我が家のじじばばは、近隣でも有名な「後生の一大事」の解決を目指す後生願いであった。
そのせいか、ご信心は若い時にもらえもらえとうるさかった。「わかきとき仏法はたしなめと候ふ」(註 1252)であろう。で、ご信心って何や?と聴聞したり仏書を読んだのだがサッパリ解らんので抛っておいた。
そんな時、家内が深川倫雄和上の中国残留孤児の法話のテープを聞いていて、旦那さま、このお坊さんはちょっと違うよ、といふので一緒にテープを聞いた。
「親探し」
http://blog.wikidharma.org/.../%e8%a6%aa%e6%8e%a2%e3%81%97/

かなり痺れた。
知人の坊さんが、その和上さんなら今度 出雲路派の本山毫摂寺の夏安居においでになるよ、といふので毫摂寺の坊さんの研修会に家内ともぐりこんだのであった。
ともあれ、この二日間の深川節に痺れて深川倫雄和上の説かれる〔なんまんだぶ〕の道に入らせてもらったものである。

で、ある時の深川倫雄和上の法話の要約。
>>
阿弥陀様は私になんまんだぶつを称えさせて浄土へ迎えようと誓われました。
それならば、こちらは訳が解からずとも念仏を称えることが私の仏道です。今はもう弥陀の目的を生きているだけなのです。
「我々の宗教の目的は何か」ではなく、今が目的なのです。すでに弥陀の目的の中だった、これが大切です。すぐ「何のために…」と問う人がいるけれど、それは下の下です。

子供が砂場で遊んでいます。砂山をこしらえたりトンネルを作ったり壊したりして遊んでいます。壊すなら作らなければ良いのに、意味が無いのにと思うのは傍観者の論理。砂場で遊んでいる子供にとっては砂山を作ったり壊したりするのが目的なのです。

今まさに私の五体の上に、名号功徳が合掌礼拝という姿であらわれ、称名という姿があらわれているのです。やがて息がとまったら西方極楽への往生という事実があらわれ、大般涅槃をさとるという事実があらわれ、還相の菩薩としてはたらく事があらわれます。そのことが「今」決まっているのです。
http://blog.wikidharma.org/.../%e4%bb%8a%e3%81%8c%e7%9b.../
>>

欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚(わたしの国に生れたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。)

の「第十八願」であった。
http://labo.wikidharma.org/.../%E7%AC%AC%E5%8D%81%E5%85...

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

追記
御開山の特徴は自己を語らないといふことだが、このような自己を語る表現は要注意である、




浄土真宗といふ読み方に二つの読み方があるといわれる。
浄土が真の宗である、と、浄土を真の宗とするの二つである。
浄土が真の宗であるとの表現は、〔往生〕浄土だけが真実の宗教であるといふ意味になり、他宗から批判されることになりやすい。〔往生〕浄土を真実の宗教とする、といふ表現は自己の選びであるから他宗からの非難は少ない。
日本語では「が」と「を」で微妙に意味が変化するのだが、ここいいらは日本語のややこしさであり諸兄の意見をお聞きしたいところである。
御開山は仏教を真・仮・偽といふ三分類法で顕して下さった。いわゆる真実五巻(教・行・信・証・真仏土)と化巻上(仮)、化巻下(偽)である。
「真・仮・偽」
http://labo.wikidharma.org/.../%E7%9C%9F%E3%83%BB%E4%BB...

御開山は、是か非か、本物か偽物かといふ二分類法ではなく三分類法を使われておられるので判りにくい。『選択集』は帰納法の二分類法なので判りやすい(ホントは難しいけど)。
ともあれ、御開山はこれが正しいといふ表現ではなく、阿弥陀如来の本願が真実(利他真実)といふ立場なので、他宗との間で正しいか正しくないかの論議は成立しないのだと思ふ。

前掲の「浄土の機縁」の、生活意識と行動意識でいえば、我は正なりとの発想は行動意識から出るものであろう。
ともあれ、昨今のマスゴミや意識高い系のコメンテーターが他者を叩きまくるのだが、金子大栄師の「浄土の機縁」の、
>>
 私は、『歎異抄』の十三章を読むたびに思うのでありますが、そこに宿業の例としてでてくるのは、野山に猪を狩る猟師と、海河に綱をひく漁夫、商いをする商人と、百姓の四つがあげられています。これは唯円房がはじめてあげた例ではなくして、親鸞聖人のお書きになったもののなかにも、「具縛の凡愚、屠沽(とこ)の下類」(「信巻」)という、この「屠沽」という解釈に、漁夫や商人があげられてあります。なぜにそれをもっと拡張して、報道人となり人の内幕をあばくもの、政治家となってたえず反対党の落度を見出すこともみな同じことである、あさましい生活であると書いてないのであろうか。そういうことを一度いうてみたいような感じもするんでありますが、いよいよとなるとなにか気狂いじみているように思うのであります。とすれば、そういうことができないわけがあるのであろうと、ということも、いろいろに考えられます。あるいはそういうふうな人々の行動も、生活にはちがいないが、しかし生活意識よりも行動意識が主となるからでありましょうか。
>>
とあるように、行動意識が主となるからであろう。また金のためであり、あさましいことである。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ




20代後半に、じいさん(父親)の本箱から引っ張り出して箱入りの『親鸞の世界』といふ本を読んだ。これは、親鸞聖人の七百回忌を記念して、鈴木大拙師、曾我量深師、金子大榮師の鼎談を西谷啓治師が司会された本である。(最近復刊されたらしい)
この本を読んで、浄土真宗といふ宗教の深みを知った。で、何故か一番興味を持ったのが当時大谷大学で教鞭をとっておられた禅門の鈴木大拙師で、しばらく「さとり」といふことに関心を持ち禅書を読んでいたものである。
鈴木大拙師は門外漢であるので少しく御開山の思想への誤解もあるが、『浄土系思想論』や『日本的霊性』や門徒対象に説かれた『禅とは何か』などを読むと「信心」といふ閉じられた世界からの解放が感じられるかもである。ともあれ、林遊は大谷派では浄土を説く金子大榮師の論調が好きである。
http://hongwanriki.wikidharma.org/.../%E6%B5%84%E5%9C%9F...
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ




ぐちゃぐちゃとややこしいことを記述しているのだが、浄土真宗は〔なんまんだぶ〕を称えるご法義である。称には、となえるの他に、たたえる・かなう・はかる・ほめる・あげる等の意味がある。
原理と現象(過去の投稿に若干追記)
かなり昔だが、パソコン通信をしていた時に、浄土真宗は山のごとき高き教学と、底辺の愚鈍な門徒の総体である、というようなことを言われたことがあった。
底辺の愚直な門徒である林遊はブチキレたのだが、抗弁のしようが無かったので悶々としていた記憶がある。
何の間違いか、不惑を過ぎてお聖教というものを披いて学び、よくよく考えてみたら逆であった。たとえば原理と現象とか理論と実践ということが言われるが、自動車工学の大学教授より街中のタクシードライバーの方が自動車の運転は上手であろう。同じように、教学の論理を説く教学者の坊さんよりも、「本願を信じ念仏を申せば仏に成る」、と愚直に〔なんまんだぶ〕を称える阿弥陀如来の本願の行を実践している門徒の方が正確に浄土真宗のご法義を正受しているのであろう。
その意味において、ただ〔なんまんだぶ〕を称えるだけの門徒の実践や現象を、底辺で支えている原理や理論が浄土真宗の教学であった。
もっとも、現在の真宗学は、かっての阿毘達磨のごとき煩瑣教学の様相を示しているので、もう少し林遊のような在野の門徒にも判るような学びの体系が必要なのではなかろうか。
そのような意味において、浄土真宗の坊さんは門徒の「行信」を支える為にもっと勉強して成果をネットなどに公開してもらいたいと思っていたりする。
こんな事を書いてるから坊さんに敬遠されるんだろうな、どうでもいいけど(笑
「城の石垣」
http://blog.wikidharma.org/.../%e8%81%b4%e8%81%9e%e9%9b.../
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なんか間違えて消してしまったみたい。
「本覚」
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E6%9C%AC%E8%A6%9A...
「絶対の真理〈天台〉抜書」
http://hongwanriki.wikidharma.org/.../%E4%BB%8F%E6%95%99...
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『大乗起信論』を読むアプローチとして、井筒俊彦氏(1914~1993)の『意識の形而上学』が面白かったので、「Ⅲ「真如」という仮名」の一節をUP。仮名(けみょう)という概念は、『論註』などでも、実体のないものに仮につけた名、という意で使われるのだが、判りにくい概念である。
「Ⅲ「真如」という仮名」
http://hongwanriki.wikidharma.org/.../%E6%84%8F%E8%AD%98...
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仮名人
若い頃に読んだ記事の話。
浄土真宗の坊さんに、そもそも仏教は「無我」といふそうだが往生するのは何が往生するのですかと聞いたそうである。すると坊さんがこの世の仮名人とか浄土の仮名人とか縁起といふのでサッパリ判らなかったと書いていた。
当時の林遊もサッパリ訳が判らかったのだが、後年『教行証文類』を読んでいて、これのことかあと判ったものであった。
「願生問答」
http://labo.wikidharma.org/.../%E9%A1%95%E6%B5%84%E5%9C...
この「願生問答」は『浄土論』に、
 世尊我一心 帰命尽十方
 無礙光如来 願生安楽国
と、願生安楽国(安楽国に生ぜんと願ず)といふ意を曇鸞大師が『論註』で解釈される一段である。読み下し文では少しく判りにくいので「現代語版」から引用する。
>>引用開始
 <安楽国に生れようと願う>とは、この一句は作願門である。天親菩薩の帰命のおこころである。(中略)
 問うていう。大乗の経典や論書の中には処々に<衆生は究極のところ無生であって虚空のようである>と説かれている。それなのにどうして、天親菩薩は<生れようと願う>といわれているのであろうか。
 答えていう。<衆生は無生で虚空のようである>と説くのには、二つの意味がある。一つには、凡夫が思っている実体としての衆生や、凡夫が考えている実体としての生死のように、凡夫が実体と思い、考えているような衆生や生死というものは、本来存在しない。それは、亀についている藻を見誤って亀の毛というようなものであって、実体がなく、虚空のようだということである。
二つには、あらゆるものは因縁によって生じるのであるから、もとより実体として生じるのではなく、そのように実体のないことが、あたかも虚空のようであるというのである。いま天親菩薩が<生れようと願う>といわれるのは、因縁によって生じるのであるから仮に<生れる>というのであって、凡夫の考えるように実体としての衆生がいて、実体として生れたり死んだりするということではない。
 問うていう。どういう意味で往生と説くのか。
 答えていう。この世界で仮に人と名づけられるものが五念門を修める場合、前後は因果相続する。この世界の仮に人と名づけられるものと、浄土の仮に人と名づけられるものとは、まったく同じであるということも、まったく異なっているということもできない。往生する前の心と往生した後の心との関係もまた同じである。なぜかといえば、もしまったく同じであるなら、因果の別がないことになり、また、まったく異なっているなら、相続していないことになる。天親菩薩が往生ということを説かれているのは、この「不一不異」の道理に立つものである。この道理は論の中に詳しく述べられている。
>>引用終了
「仮名」
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E4%BB%AE%E5%90%8D
「仮名人」
http://labo.wikidharma.org/.../%E4%BB%AE%E5%90%8D%E4%BA%BA
「縁起」
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E7%B8%81%E8%B5%B7
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時々FBへの投稿が表示されなくなるので何のこっちゃと思っていた。
で調べたら広告ブロッカーが働いていたせいであった(笑
なんまんだぶ なんまんだぶ



霊感商法、霊感商法って煩いのだがマスゴミや立憲民主党って莫迦なの?
「2018年改正消費者契約法の概要とポイント」(安倍元総理の時改正)
https://www.kokusen.go.jp/wko/pdf/wko-201909_05.pdf
「534回 統一教会と自民党の関係について」
https://www.youtube.com/watch?v=fEkDms0-uTw
なお、お布施(寄付)は契約ではなく「単独行為」だから消費者契約法の範疇に入らない。だから消費者契約法のように一律に取り消しは出来ない。
ともあれ一般の宗教といふものは信心の名で自己の心を拘束するのだが、浄土真宗の御信心(ごしんじん)とは「如来よりたまはりたる信心」(註 852)であるから自己の心の中に信を見ずに阿弥陀仏の信を仰ぐ「仰信」であるので、自己の妄念の心からの解放といえるであろう。
「仰信」
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E4%BB%B0%E4%BF%A1
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『大乗起信論』といふ書物がある。
大乗仏教の中心思想を理論と実践の両面から説き真如縁起を主張する。短編ではあるが、仏教史上極めて重要な書物で、華厳・天台・禅・浄土・真言等の大乗仏教の主要な宗派に大きな影響を与えた。(「浄土真宗辞典」より)
とあるのだがめちゃくちゃ難しい(笑
『大乗起信論』
http://labo.wikidharma.org/.../%E3%80%8E%E5%A4%A7%E4%B9...
御開山は、この『大乗起信論』から二文引文されておられる。一文は化巻末での、
「外道の所有の三昧」
http://labo.wikidharma.org/.../%E9%A1%95%E6%B5%84%E5%9C...
もうひとつは、真仏土巻末尾の飛錫の『念仏三昧宝王論』での引文である。
「起信論』の文(飛錫『念仏三昧宝王論』による)」
http://labo.wikidharma.org/.../%E9%A1%95%E6%B5%84%E5%9C...
で、ここはややこしいので註釈版の脚注に追記してみた。
「能説の…知るを」
http://labo.wikidharma.org/.../%E8%83%BD%E8%AA%AC%E3%81...
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マスゴミや世間では朝鮮カルトの話題で五月蝿い。そもそも糞やごみにたかるのがマスゴミだから仕方のないことである。
ところでTVのコメンテータや似非学者先生は、そもそも無宗教者であるから宗教を論ずる資格は無いのであった。宗教的痴呆者がどうして宗教を論じられるのであろうか? ギャグである。
そもそも宗教とは、仏教のもろもろの教えといふ意味であって文鮮明の朝鮮キリストカルトは宗教では無い。
「宗教」http://labo.wikidharma.org/index.php/%E5%AE%97%E6%95%99
通常、カルト批判には、教えの内容が間違っているから批難されてるのではなく、その行為が問題なのだと言われる。
それは憲法、
第二十条 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
の内面の自由を享けているからである。
心の内面では何を思っていてもよいのだが、それが世間で行為される時、公共の福祉や公の秩序又は善良の風俗を害する場合は罰を受けるのであった。
ところで我が浄土教初期には坊主四人の死罪、主なメンバーは流罪(死刑の次に重い罪)といふ「うきめ、憂き目(つらいこと。苦しい体験。)」にあった経緯から一人ひとりの内面の自由について考察すべきであろう。
キリスト教は「信仰のみ」と信心を強調するのだだが、虚仮不実の信心は暴走するのであり、卑近な例では高森親鸞会の本山占拠であった。
http://blog.wikidharma.org/.../files/2010/08/suwarikomi2.jpg
http://blog.wikidharma.org/.../files/2010/08/suwarikomi.jpg
まさに教義ではなく行為によって自己の主張を通そうとしたのが高森親鸞会であった。ちなみに林遊も高森親鸞会の弁護士事務所から、SNSメンバーがUPしていた「高森親鸞会短冊教学聖典」引用は著作権違反であると警告を受けたこともあった。
最近ではスラップといふそうだが、いわゆる高森親鸞会の弁護士事務所の訴訟恫喝で脅された真宗寺院は多い。本山の顧問弁護士は何してたの?
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インターネット黎明期を少し過ぎた2000年頃、教区の若手の坊さんに、あんたぁ無料でHPを作れるとこもあるさけ、お寺と布教使としての自分の宣伝をしたらぁ? と尋ねたことがあった。
若年の彼いわく、林遊さん、坊主の世界では目立ってはダメなんです、出る杭は打たれるといふように目立つと叩かれるんです、と言っていた。
これは、右を見て左を見て自分は飛び出ていないか確認する萎縮なのだが、寺族社会といふ社会で生きていくには仕方のないことでもあったと思ふ。
越前の寺族社会は、寺が多いだけに寺同士の婚姻によって結びついた血縁社会である。外部からこの寺族社会に参加した人は、林遊さん、こんなに血が濃くて遺伝的に大丈夫なんでしょうか?と言っていた。
例えばダム工事に於いて水を止めるのに凸凹のダムが出来た場合、一番低い凹の所から水か漏れてしまい貯水が出来ない。だから、出る杭は打たれるとは、一番低いところに自らの身をあわせなさいといふ寺族社会の同調圧力であったのだろう。
で、何が言いたいかといへば、知らぬ間にWikiDharmaのメンバーが270人を越えていた。この中には莫迦の林遊と違って「真宗学」に明るい坊さんもおられると思ふのだが、発言(投稿)せずに沈黙を守ることは、『香樹院語録』の、
 法話を聞く僧に盗人あり、また俗にも盗人あり、其の故は、高座の傍に居ながら、信心の方をおしのけて、面白き言葉あれば、我が身法談の得分にしようとかかる。是れ盗人なり。
http://nenbutsuji.info/index.html/koujuin/
の盗人(ぬすっと)なのかもなあ。林遊の傲慢(笑
なお、蓮如さんは『蓮如上人御一代記聞書』で、
(86)
一 蓮如上人仰せられ候ふ。物をいへいへと仰せられ候ふ。物を申さぬものはおそろしきと仰せられ候ふ。信不信ともに、ただ物をいへと仰せられ候ふ。物を申せば心底もきこえ、また人にも直さるるなり。ただ物を申せと仰せられ候ふ。
と「物を申さぬものはおそろしき」とおっしゃっておられたものだ。往生浄土の真宗を現世のこころ教として説く坊さんはこれがわからんのです
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浄土真宗本願委派のインターネットへの取り組みは、2006・2007年に築地本願寺で行われた「東京坊主コレクション(TOKYO BOUZ COLLECTION)」が嚆矢かな。
https://www.youtube.com/watch?v=w4UbCkRsy3c
もちろん、それに先立つパソコン通信での門徒との対話を心掛けたのだが、いかんせんスタッフに宗教的知識がないので頓挫した当時の林遊はROMであった(笑
パソコン通信ではニフティのFBUDといふマイコン坊主(筑後)さん主催のフォーラムが丁々発止の会話ができて面白かった。
阿弥陀仏の実在を信じる林遊は、龍樹菩薩の『中観』の、「有るのでは無く、無いのでもなく、有るでもなく無いのでもない」を説く御仁にはだいぶイジメられた。それで『中観』を学んだ(笑
「四句」
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E5%9B%9B%E5%8F%A5
真摯に求道する者の難に「七地沈空の難」といふ難があるのだが、これを先人は病に譬えて「空病」といっていたものである。
「七地沈空の難」
http://labo.wikidharma.org/.../%E4%B8%83%E5%9C%B0%E6%B2...
で、何が言いたいかといへば、かって築地本願寺が満を持して数千万円を突っ込んで構築したengi.jpのサイトは関東の業者や文化人に騙されたのであった。林遊はパブリックで提供されている同じソフトを500円/月で出来ることを運営するメンバーに示したものだ。ようするに当時の田舎育ちの築地本願寺の輪番は、都会の空気に舞い上がって関東の文化人と業者に騙されたのであった。ここで500円/月で林遊が聞いたSNSでは学生時代や築地本願寺時代の現門主の結婚前のあれこれの近親者の交友関係暴露の話は面白かった(笑
ともあれ思い出の彼方に過ぎ去った事象であった。
なお、林遊が運営していた築地本願のSNSと同じプログラムのSNSでメンバーに以下のリンクを示したら、傍にいてこれを視聴した子供が、なんまんだぶのオバさんや、と言ったそうである。有難いこっちゃ
「真誠念佛」
https://www.youtube.com/watch?v=VlqvaXZ2jj8
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リンクした『改邪鈔』の「因果の道理での、
 いま報土得生の機にあたへまします仏智の一念は、すなはち仏因なり。
の「仏智の一念」で幸西大徳を想起した。
「幸西成覚房」
http://labo.wikidharma.org/.../%E5%B9%B8%E8%A5%BF%E6%88...
法然聖人のなんまんだぶから御開山の本願力回向のご信心といふ経路が判らなかった。しかし梯實圓和上の『玄義分抄講述』─幸西大徳の浄土教─を読んで、行から信へといふミッシングリンクを発見したように思ったものである。
『玄義分抄講述』は安居の講本であるから林遊のような愚昧な門徒には漢文だらけで判りにくいのだが適宜読み下したものだ。──なおこの時の本講は深川倫雄和上であり副講は梯實圓和上であった。──
以下『玄義分抄講述』より抜粋。
>>
 ところで『源流章』は、幸西の一念義を紹介し終って次のように論述を結んでいる。{以下漢文は漢文の判らない林游が適当に読みした}
念仏往生 具周(つぶさにあまねく)成立することは、必ず信心と彼の仏智一念の心と相応契会するに由る。この事成立すれば、任運に往生す、時節の久近早晩、念修の多少、事業の浅深には由らず。『略料簡』に云く、仏心と相応する時に業成す。時節の早晩を問ふこと無し 已上。彼の所立の義を一念義と名くるは、専ら是の如き所成の旨帰に由る。『略料簡』にまた云く、命終らんと欲する時 仏来現す。心に従ては生ぜず、彼の願に依れ 已上。 行者、彼(かしこ) に生ずることは、唯願力に由る、凡夫の自身自力に由るには非ず、罪障の凡夫、煩悩垢重にして、如来の報土懸(はる)かに分を絶つが故なり。唯仏願を仰ぎ、直(ただち)に成就するが故に。是の如き等の義、幸西の所立なり。
 これによれば、幸西が信心と仏智一念の相応契会を強調したのは、念仏往生の法義が具周成立する根拠を明らかにする為であったことがわかる。すなわち念仏による往生が成立するのは、念仏修行の長短、称名の数量の多少、称名するときの行者の心の浅深といった、行者のがわの条件によるのではなく、その念仏が仏心と相応し、本願に契っているか否かに依るのである。『略料簡』に、「心に従っては生ぜず、彼の願に依れ」というように、凡夫の自力心によって報土に往生することは不可能であって、ただ仏願力に身をまかせる以外にない。そのことの信知が肝要なのである。そのために幸西は、仏智願力と相応し、仏智願力に乗託した信智唯一の信心を強調しているというのである。したがって「能所無二、信智唯一、念々相続、決定往生」というときの、信とは、願力に乗託している念仏の心相であり、このような念仏の相続によって往生するというのであろう。
 このようにして幸西の一念義は、信心を重視することはいうまでもないが、しかし念仏往生を否定したり、称名相続を否定するものではなく、どこまでも念仏往生の教法の枠内での論議であったといわねばならない。なお前引の『略料簡』に「仏心と相応する時に業成す。時節の早晩を問うことなし」といっているものは、業成の「時」を問題にし、信智相応の時に業成するという平生における業成、すなわち現生不退説を立てるところは、まさに親鸞の信一念の義に通ずる教説であったことがわかる。
「幸西大徳の一念義」
http://hongwanriki.wikidharma.org/.../%E5%B9%B8%E8%A5%BF...
>>
と示しておられた。
ともあれ浄土真宗の「ご信心」は、仏心であり私の上にあるけれどわたくしのものでは無いのであった。卑近な例(たとえ)だが、わたくしのものでは無いものを私のもののように説く布教使は信心の地獄におちるもかもである(笑
 本願を信じ念仏を申さば仏に成る
これが、浄土真宗の「行信」であった。
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ




世間では霊感商法(悪徳商法の一。この品を買えば悪霊が取り除かれる、運が開けるなどと信じ込ませて不当に高額な品を売りつけるやり方。:デジタル大辞泉)について煩いのだが、これは仏教における因果論や宿善論を悪用した手法であろう。
高森親鸞会でも盛んに因果の道理や信を獲るための善をを説くのだが、これは金集めや人集めの手段であった。
「因果の道理」
http://labo.wikidharma.org/.../%E5%9B%A0%E6%9E%9C%E6%92...
「宿善」
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E5%AE%BF%E5%96%84
ご法義の言葉には重層的な意味があるので立体的に理解する必要があると思っていたりする。
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ




「三大諍論」の語でググルと、高森親鸞会のページがヒットする。これは高森顕徹氏がいわゆるカルト的な信を説くことによって騙された会員のページであろう。
今も高森親鸞会の脱会者が、真宗の坊主として教団にもぐりこんで真宗の内部に潜んでカルト的な信を説きネットで金儲けをするのだが、頭の悪い坊さんはこれに騙されるのであった(笑
「原典批判」といふことが言われるのだが、御開山以後の書物は注意して読むべきだと思ふ。
「三大諍論」
http://labo.wikidharma.org/.../%E4%B8%89%E5%A4%A7%E8%AB...
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ