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ほんがん
梵語プラニダーナ(praņidhāna)またはプールヴァ・プラニダーナ(pūrva-praņidhāna)の漢訳で、以前からの願いという意。菩薩が因位の時におこした衆生救済の誓いをいう。また衆生救済のためのまさしく根本となる願。阿弥陀仏の四十八願中、とくに第十八願を本願と称する。→願、弘誓、誓願、(補註17本願)
ここでは、来迎引接を誓った第十九願のこと。 (要集 P.856)
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
ほんがん 本願
梵語プールヴァ・プラニダーナ (pūrva-praṇidhāna) の意訳。仏が因位の菩薩であった時におこした因本の願いという意。この願いは、それが完成しなければ仏にならないという誓いをともなっているので誓願といわれる。また、衆生救済のための根本となる願の意で、阿弥陀仏の四十八願中、とくに第十八願を指していう。法然は『選択集』「本願章」の冒頭に
- 「弥陀如来、余行をもつて往生の本願となさず、ただ念仏をもつて往生の本願となしたまへる文」(七祖 1201)
と述べ、阿弥陀仏の本願の意義を明らかにし、選択本願の念仏を主張した。→願、四十八願(浄土真宗辞典)
- →四弘誓願
- →補註17
- →七祖-補註12
- インクルード補注
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- 17本願(ほんがん)
本願の意味には因本の願と根本の願の二つがあるといわれている。因本の願とは、因位のときにおこされた願いということである。この願いには、それが完成しなければ仏に成らぬという誓いをともなっているので誓願といわれる。
この因本の願には、総願と別願とがある。総願とは、すべての菩薩が共通しておこすものであり、「無辺の衆生を救済しようという願い、無数の煩悩を断とうという願い、無尽の法門を知ろうという願い、無上の仏道を成就しようという願い」のいわゆる四弘誓願として知られている。
次に別願とは、それぞれの菩薩に特有なものであり、これによってそれぞれの仏の性格が異なってくる。阿弥陀仏が因位のときにおこされた四十八願は、この別願である。『大経』(上)には、法蔵菩薩が世自在王仏のもとで二百一十億の諸仏の浄土のなかより、粗悪なものを選び捨てて、善妙なものを選び取り四十八願を建立したと説かれてある。
根本の願いとは、この四十八願は第十八願を根本とし、余の四十七願は第十八願を開いた枝末の願とみることをいう。そこで法然上人は、第十八願を本願中の王といい、第十八願の念仏を難劣な諸行を選び捨てて、選びとられた勝易具足の行であるというので、これを選択本願念仏といわれた。
第十八願には、「たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ。ただ五逆と誹謗正法とをば除く」とある。
親鸞聖人はここに誓われてある行(=十念)、信(=至心信楽欲生)、証(=衆生の往生)、真仏土(=阿弥陀仏の成仏)をそれぞれ、第十七・十八・十一・十二・十三願に配当される。
この五願は真実五願といわれ、『教行信証』の各巻の冒頭にかかげられている。これによって浄土真宗の法門は、総じていえば第十八願、開いていえば真実五願によって成就され回向されたものであることを知らしめられたのである。
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
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外部リンク
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