「称名報恩」の版間の差分
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2019年12月20日 (金) 17:41時点における版
しょうみょう-ほうおん
『大経』第十八願には、信心と称名念仏とが誓われているが、信心こそが往生成仏の正因であるから、称名念仏は行者の心持ちからいえば阿弥陀仏に摂取された感謝の思いの中で名号が声となってあらわれ出たものであるということ。 『正信偈』に、
- ただよくつねに如来の号を称して、大悲弘誓の恩を報ずべしといへり。(行巻 P.205)
『化身土文類』には、
- ここに久しく願海に入りて、深く仏恩を知れり。至徳を報謝せんがために、真宗の簡要を摭うて、恒常に不可思議の徳海を称念す。(化巻 P.413)
等とある。また、称名正因などの異安心に対して、安心論題に「称名報恩」が設けられている。 →信心正因(浄土真宗辞典)
「称名報恩説」は「信心正因説」と相反するものと受け取られた場合には、称名は「行者の心持ち」にすぎないのであるから、と、法の顕現である称名は二次的に受け取られることもある。→垂名示形、名体不二
覚如上人が信因称報説を主張されれたのは、当時非常に力を持ち始めた多念の称名を強調する鎮西浄土宗に対抗する為であった。当時の本願寺は知恩院の目と鼻の先にあり鎮西に圧迫されつつあった。そこで鎮西浄土宗との教義の違いを強調する必要があったのである。その為に称名に自力の称功を否定し信の一念を強調する論理が「称名報恩説」であった。そもそも「称名報恩説」は、行または信の一念に往生は定まるからその後の称名は不要であるという一念義系の者が称名の称功を否定する為の論理であった。この意図を正確に把握しないと御開山が示された信心正因を誤解するのである。信心正因説は「菩提心正因説」でもあるのだが、これを正確に理解しないと「行信不離」というご法義を誤解することになる。覚如上人の示されたように信心正因は御開山のお示しであるが、何を信ずるかといえば、その体は、「願作仏心」の、なんまんだぶの名号法である。→名体不二
御開山は、一念義系の者が、念仏往生と信ずる者は自力だから本当のお浄土へ生まれる事はできない、「本願を信ずる人は一念なり、しかれば五万返無益也、本願を信ぜざるなりと申す」(西方指南抄) というような一念義の者に論難された関東の門弟の問いに対して、
『御消息』で、
- 弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。信心ありとも、名号をとなへざらんは詮なく候ふ。また一向名号をとなふとも、信心あさくは往生しがたく候ふ。されば、念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなへんずるは、疑なき報土の往生にてあるべく候ふなり。(消息 P.785)
といわれておられた。
法然聖人は、
- 又云、一念・十念にて往生すといへばとて、念仏を疎相に申せば、信が行をさまたぐる也。念念不捨といへばとて、一念・十念を不定におもへば、行が信をさまたぐる也。かるがゆへに信をは一念にむまるととりて、行をは一形にはげむべし。
- 又云、一念を不定におもふものは、念念の念仏ごとに不信の念仏になる也。そのゆへは、阿弥陀仏は、一念に一度の往生をあてをき給へる願なれば、念念ごとに往生の業となる也。(『和語灯録』禅勝房にしめす御詞)
といわれていた。
その意味において「信心正因 称名報恩」の術語を誤解することは「信が行をさまたぐる」のであり、御開山の正確な意では「称名業因」「称名讃嘆」というべきであろう。ともあれ、「信心正因 称名報恩」の語に拘泥して、ありもしない称名抜きの信心を門徒に説かざるをえない真宗の坊さんは可哀想ではある。
という訳で、信因称報説を強調する為とはいえ、これはアカンやろと思ふこともある。→鏡御影の讃
本願の名号は正定の業(本願の名号は、正しく往生の決定する行業である)である。これを受け容れたことを信心正因というのであった。信心の対象は、なんまんだぶという耳に聞こえる阿弥陀仏の招喚なのであった。→信心正因
- 御開山のご影は珠数を持ち南無阿弥陀仏を称えている姿である。
鏡のご影 | 熊皮のご影 | 安城のご影 |
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