安心論題/即得往生
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(23)即得往生
一
往生浄土ということは、人間の寿命が尽きて来世に浄土に往き生まれることであります。でも、それだけであれば、浄土教は未来世の救いであって、この世の救いではないといわれましょう。阿弥陀仏の救いは、死後にはじめて利益を得るのではありません。願力を聞いて信じ喜ぶ初一念に、如来の功徳を身にいただいて
けれども、この「即得往生」の意味を誤って、信心を獲得すれば浄土の往生を得たのであって、信後の世界がすなわち浄土であるというふうに理解しますと、宗祖の思召しに違背することになりましょう。
そこで、宗祖聖人の「
二
『大経』の本願成就文に(真聖全二―七一引用)、
- 諸有衆生、聞其名号、信心歓喜、乃至一念、至心廻向、願生彼国、即得往生、住不退転。
- (あらゆる衆生、その名号を聞きて信心歓喜せんこと乃至一念せん。至心に廻向したまえり。かの国に生ぜんと願すれば、すなわち往生をえ、不退転に住せん。)(*)
とあります。右の「即得往生、住不退転」とあるのが今の論題の出拠であります。
成就文というのは、阿弥陀仏のおこされた因願がその通り成就されていることを釈迦仏がお述べになる文でありますから、成就文はその因願と対応します。
いまの成就文の「即得往生」は、因願に「もし生まれなかったら私は仏にならぬ」(若不生者不取正覚)とある文に対応しますから、本願の信をえた者が命終わって浄土に往生することを示されたものとみるのが、経文の当分であります。したがって七祖相承の上にあっても、この成就文の「即得往生」は次の生に浄土に往生することとされています。
ところが、宗祖聖人は、この「即得往生、住不退転」を、信一念のときに得る現生の益と見て解釈されました。これは宗義を顕わすために示された宗祖独自の発揮であります。
すでに⑻「信一念義」の論題で窺った通り、宗祖は本願成就文の「一念」を、「信楽開発の時剋の極促」(信心のおこった最初の時)とされ、今の「即得往生」の「即」は信一念のときと同時であることをあらわすものとされます。ですから、
三
「即得往生」を現生の益とされるについて、宗祖には二通りの釈相が見られます。一つは、「往生」の二字は命終時の報土往生とし、「即得」の二字で現生の信一念同時に報土往生の因が決定することとされるもの。二つには、「即得往生」の四字をもって現生正定聚に住する意味に解釈されるものであります。
まず「往生」は命終時、「即得」は現生とされるご解釈というのは、『教行信証』の行巻の六字釈に(真聖全二―二二)、
- 「必得往生」(玄義分)というは、不退の位にいたることをうることをあらわすなり。経(本願成就文)には「即得」といえり、釈(易行品)には「必定」といえり。「即」の言は、願力を聞くによって報土の真因決定する時剋の極促を光闡するなり。(*)
等と解釈されています。「願力を聞くによって」というのは「聞其名号信心歓喜」のことであり、「報土の真因決定する」というのは報土往生の因が決定するといわれるのですから、この報土往生は命終時の往生(難思議往生)を意味します。「時剋の極促」というのは時間の最初ということですから、「即得往生」とは報土往生の因が信一念のとき決定することであると仰せられるのです。これが「往生」は命終時の報土往生、「即得」は現生の信一念同時に因が決定することとされる解釈であります。
次に「即得往生」の四字で、現生に正定聚不退に住することと解釈されるものは、『二巻鈔』に(真聖全二―四六〇)、
- 本願を信受するは前念命終なり。「すなはち正定聚の数に入る」(論註)といえり。即得往生は後念即生なり。「即のとき必定に入る」といえり、また「必定の菩薩と名づく」(十住論)といえり。(*)
と示されています。「前念命終」「後念即生」というのは『往生礼讃』(*)(真聖全二―七五引用)(*)の語を用いられたので、今は時間的な前後があるのではなく、一念同時であります。そこで、本願を信受することが、「命終」であって正定聚に入ること、即得往生が「即生」であって必定(正定聚)に入ることというご解釈ですから、本願を信受したときが正定聚に入るときであるという信益同時の語が明らかになります。『唯信鈔文意』には(真聖全二―六二五)、
- 「即得往生」は信心をうればすなわち往生すという。すなわち往生すというは不退転に住するをいう、不退転に住すというはすなわち正定聚の位に定まるなり。成等正覚ともいえり。これを「即得往生」とはいうなり。「即」はすなわちという、すなわちというは、ときをへず、ひをへだてぬをいうなり。(*)
と仰せられ、『一念多念文意』(真聖全二―六〇五)にも同様に「即得往生というは……とき日をもへだてず正定聚のくらいにつきさだまるを往生をうとはのたまえるなり」(*)]と仰せられています。ただし、この『一念多念文意』の「正定聚」という語の左仮名に「おうじょうすべきみとさだまるなり」と示されていますが、その場合の「おうじょう」はやはり命終時の報土往生を意味していることは留意すべきでありましょう。そのほか覚如上人の『最要鈔』には(真聖全三―五二)、
- 往生の心行を獲得すれば、終焉にさきだちて即得往生の義あるべし。……善悪の生処をさだむることは心命のつくるときなり。身命のときにあらず。(*)
と述べられています。これは信一念に往因決定することを「心命終」、命終時の報土往生を「身命終」とされるいい方であります。同じく覚如上人の『口伝鈔』の「体失・不体失往生の事」(*)(真聖全三―二二)には、親鸞聖人は不体失往生、善恵房は体失往生を主張せられましたが、法然上人は、念仏往生は肉体の死を待つことなく、信心獲得の平生に報土往生の業因が決定するから、「不体失往生」であり、諸行往生は命終時に往生の得否が定まるから「体失往生」であると仰せられた旨が示されています。存覚師の『真要鈔』にも(真聖全三―一二八)、
- いまいうところの「往生」というは、あながちに命終のときにあらず。……涅槃畢竟の真因はじめてきざすところをさすなり。すなわちこれを「即得往生住不退転」とときあらわさるるなり。(*)
等と述べられています。これらの文はいずれも、「即得往生」の四字でもって往因決定、入正定聚の現益を示すものとされる解釈であります。
以上、本願成就文の即得往生について、「往生」は当来の報土往生とし、「即得」で平生の因決定を示す釈と、「即得往生」の四字で因決定・入正定聚の現益とされる釈との二種が見られますけれども、いずれにしても現生で得るのは因決定であって、果として報土に往生したということではありません。報土往生の果を得べき因は平生聞信の一念に決定する。平生に因が決定しているから命終時にはまちがいなく往生の果が得られるということであります。
四
経文の「即得往生住不退転」は、命終わって浄土に往生し、そこで不退転の位に入ることと解釈するのが文の当分であり、七祖もそのように見られるにもかかわらず、宗祖は何を根拠としてこれを現生に得る益として解釈されるのでありましょうか。これについて理証(道理の上から)と文証(文の証拠)とが考えられます。
まず理証としては、法義そのものが当然そうあらねばならない意味があるから、宗祖はそれを開顕せられたのであると考えられます。如来の名号願力というものは、単に浄土に往生させるだけの業因であって、浄土で不退転位の菩薩となり、そこで私どもが自利利他の菩薩行を積むことによって遂に仏果に到るというような法ではありません。名号には如来のすべての功徳が摂まっていて、往生即成仏の果を得しめる業因であり、これをいただいた信心は「証大涅槃の真因」(*)(真聖全二―四八)であります。ですから命終わって真実報土に往生するということは仏果を得しめられるということであります。とすれば、仏果に到るにまちがいない身、すなわち正定聚不退ということは、現生にあって名号を信受した時点でいわざるを得ないのであります。
文証としては、『観経』には「念仏衆生摂取不捨」(*)(真聖全一―五七)と説かれています。この摂取不捨の益を得るのは現生であって、命終時のことではありません。そのほか『大経』の流通分には(真聖全一―四六)、
- もし衆生ありて、この経を聞かん者は無上道においてついに退転せず。(*)
とあり、同様の意味をあらわす文が『観経』(真聖全一―六五)や『小経』(真聖全一―七一)にも見られます。また『易行品』にも(真聖全一―二六〇)、
- 人よくこの仏の 無量力功徳を念ずれば 即の時に必定に入る
とあります。
五
思うに、聖道自力の法はいくら修行を積んで悟ったといっても、所詮は人間としての苦悩からは脱却できないのではないでしょうか。また死後に浄土に往生するといっても、臨終を待ち、来迎をたのまねばならないのでは、生涯不安を離れることはできません。苦悩の人間が苦悩の人間でありながら如来の慈悲に摂め取られて、まちがいなく往生成仏の果を得べき身に、今日只今ならせていただくというところに、真実の救いがあるといわねばなりません。そのことを明らかにしてくだされたのが、宗祖聖人の「即得往生」のご解釈であります。
『やさしい 安心論題の話』(灘本愛慈著)p250~
脚注