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念仏

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

2019年11月8日 (金) 17:37時点における林遊 (トーク | 投稿記録)による版

ねんぶつ

 仏を念ずること。

真如を念ずる実相の念仏、
仏のすがたを心に思い観る観想の念仏、
仏像を観ずる観像の念仏、
仏の名号(みょうごう)をとなえる称名念仏

などがあり、聖道門では、実相念仏を最勝とし、称名念仏を最劣とみる。
しかし浄土門では、称名は阿弥陀仏本願において選び取られた決定往生の行であり、極善最上の法であるとする。→称名 (しょうみょう)。

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

四種念仏説

圭峰宗密は、『普賢行願品鈔』に、所念の仏の種類に従って、

一、称名念仏 (仏の名を口にとなえること)、
二、観像念仏 (仏の形相や相好を心に思い浮かべて念じること)、
三、観相念仏 (西方浄土のさまを心に思いつつ念じること)、
四、実相念仏 (仏の法身を観じて念じること)

の四種念仏を説き、次第に浅深があるとして「最後為妙」と断じている。すなわち称名は最も浅劣な念仏であり、実相念仏は最も深妙であるというのである。このような理観を中心とし、称名を浅劣な方便加行とみるのは聖道門の念仏観に共通していた。『法然教学の研究』梯實圓著和上著p.40

浄土門においては、念仏の語は観念称念の両義があったが、善導大師法然聖人は、念仏とは、仏の名を口にとなえる称名念仏であるとされた。それは阿弥陀仏本願選択摂取された往生浄土の正定業が「第十八願」の乃至十念の称名であったからである。→法然聖人における回心の構造
法然聖人は、阿弥陀仏が称名念仏(なんまんだぶ)を往生の行として選択された理由を『選択本願念仏集』「本願章」で勝劣義(選択集 P.1207) と難易義(選択集 P.1208) として示された。智慧の法然房と呼ばれ、円頓戒の戒師であり天台教学はおろか、あまねく余乗をも研鑽されたのが法然聖人であった。しかし、その修学も法然聖人の救いにはならなかった。その法然聖人にとって究極的な仏法の済度を見出されたのが『観経疏』の「順彼仏願故」の文であった。その(ただ)なんまんだぶを称えるのみで浄土へ往生し仏陀のさとりを得ることを信受する教法は、まさにあらゆる衆生を生死の迷いから度脱せしめる真の仏教であり大乗仏教一切皆成の根源的な精神の発見であった。選択本願念仏の仏道を、信ずるか疑うかによって迷悟を決する信疑決判」の仏教思想の大転換であった。

御開山は、この法然聖人の示された可聞可称の選択本願の念仏を、本願力回向の、教(おしえ)・行(おこない)・証(あかし)の大行として『教行証文類』の「行文類」を著述されたのであった。→三法立題

法然聖人の示された「選択本願念仏」の仏の選択とは、浄土門の行ではない雑行と、正しく往生の行(おこない)とされた正行の対判である。

第四に不回向回向対といふは、正助二行を修するものは、たとひ別に回向を用ゐざれども自然に往生の業となる。(選択集(P.1197)

この「たとひ別に回向を用ゐざれども自然に往生の業となる」の不回向とは、『浄土論』、『論註』で示される阿弥陀仏の本願力回向の意であったと御開山は領解された。わたくしが〔なんまんだぶ〕と称えるから往生の行業になるのではなく、阿弥陀仏が本願に選択された行であるから大行であり「大行とはすなはち無碍光如来の名(みな)を称するなり」 (行巻 P.141) と、仏教で説かれる回向の意味を逆転されたのである。既存の聖道門仏教では救われないとされていた「悪人」へ、大乗仏教の根底にある「一切衆生、悉有仏性」という、一切皆成の思想を発見されたのであった。御開山が本来は聖道門の経である『涅槃経』を引かれて「如来常住」「悉有仏性」を広説されたのも、「浄土真宗は大乗のなかの至極なり」(御消息 P.737) の意をあらわさんとする意であった。

なお、浄土真宗では、仏の名〔なんまんだぶ〕を口にとなえることを唱ではなく、称名といい、称を、となえる、かなう、はかる、たたえると訓じて、それぞれの言葉の意味を窺い考察する。

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