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体失不体失の往生の事

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

2019年11月29日 (金) 20:22時点における林遊 (トーク | 投稿記録)による版

たいしつ ふたいしつ おうじょう のこと

 体失往生、つまり、身体が滅びて初めて往生する(臨終業成(りんじゅうごうじよう))のか、不体失往生、つまり、身体が滅ばなくても信心獲得(ぎゃくとく)のとき浄土に生まれることが確定する(平生(へいぜい)業成)のか、という問題についての論議。(口伝鈔 P.896

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

◆ 参照読み込み (transclusion) トーク:体失不体失の往生の事

『口伝鈔』で、

「小坂の善恵房[証空]は、「体失してこそ往生はとぐれ」と[云々]。この相論なり。」(口伝鈔 P.897

と、証空は体失往生を主張したとある。
しかし、 善恵房証空上人は、即便往生(そくべん-おうじょう)当得往生(とうとく-おうじょう)の二種往生を説かれた。これは『観経』の三心についての、

もし衆生ありてかの国に生ぜんと願ずるものは、三種の心を発して即便往生す。なんらをか三つとする。一つには至誠心、二つには深心、三つには回向発願心なり。三心を具するものは、かならずかの国に生ず。
また三種の衆生ありて、まさに往生を得べし(当得往生)。なんらをか三つとする。一つには慈心にして殺さず、もろもろの戒行を具す。二つには大乗の方等経典を読誦す。三つには六念を修行す。回向発願してかの国に生ぜんと願ず。この功徳を具すること、一日乃至七日してすなはち往生を得。 (観経 P.108)

という経文によって、平生に他力の三心を発起したときに、ひそかに即生無生身の利益を得るとして現生の即便往生を明かされた。当得往生とは、同じく『観経』の「まさに往生を得べし(当得往生)」の経文から、臨終に来迎を受けて浄土に往生すると言われていた。→Jds:即便往生・当得往生
『口伝鈔』では、体失往生を諸行往生とし、不体失往生を業事成弁念仏往生の正義として法然聖人に語らしめているが、『選択本願念仏集』撰述の勘文の役を務めてたほどの証空上人が諸行往生義などをとなえる筈がない。そもそも不体失往生とは語義矛盾であろう。もっとも『大無量寿経』を真実の教とする御開山と、主に『観経』に依って宗義を立てる証空上人との綱格の違いをあらわそうとされたのかも知れないとはいえる。
『口伝鈔』の解説(*) にもあるように、覚如上人は

「法然上人門下の浄土異流の中心である鎮西西山派に対し、その派祖の弁長証空を本書のなかで批判し、親鸞聖人の一流が正しく法然上人を伝統するものであることを示」

そうとされ、「体失往生と不体失往生」のような一段を記されたのであろう。覚如上人は、御開山の現生正定聚説を強調するために、体失往生と不体失往生という名目を使われて、異流の証空上人を批判されたのであろうが、この『口伝鈔』の「体失不体失の往生の事」(口伝鈔 P.896)という諍論の存在の信憑性についてはいささか疑念の残るところである。

証空上人の『観経定善義他筆鈔』には、『観経疏』の「此世後生随心解脱也」の文を注釈して、

此世 後生 随心解脱云事。
「此世・後生、心に随ひて解脱す」(定善義 P.395)と云うことは、
此世者 云即便往生、後生者 云当得往生也。
此世とは即便往生を云ひ、後生とは当得往生を云ふなり。

と、あるので証空上人は、此世と後生の現当二種の往生をみておられた。覚如上人は、証空上人系統の西山義の安養寺の阿日房彰空に学んだことがあり[1]、この『他筆鈔』での即便往生当得往生の語を浄土真宗の教義に合わせて、体失往生、不体失往生と言い換えられたのかも知れない。後の『最要鈔』には「善悪の生処をさだむることは心命つくるときなり、身命のときにあらず」とされて往生という語は使われていない。→『最要鈔

なお、即も便もすなわちという意であるが、『観経』では経文の字数を合わせるために即便としたのであろう。
ちなみに御開山は『観経』に隠顕をみられるので、

また二種の往生あり。二種の三心とは、一つには定の三心、二つには散の三心なり。定散の心はすなはち自利各別の心なり。二種の往生とは、一つには即往生、二つには便往生なり。便往生とはすなはちこれ胎生辺地、双樹林下の往生なり。即往生とはすなはちこれ報土化生なり。(化巻 P.393)(愚禿下 P.541)

と、『観経』の即便往生の語を、即と便に分けて『観経』には即往生の報土往生と、便往生の化土往生の二種の往生が説かれているとされた。

正定聚
信行両座

  1. 『最須敬重絵詞』第十九段には「一流の奥区を伝えて、自身の出要をあきらめ給ううえは、広学多聞も、さのみはなににかはせんなれども、諸家の所談もゆかしく、練磨は学者のあかぬ事なればとて、便宜の聞法をばなをすてられず、他門の先達にも少々謁し給いけり。これによりて安養寺の阿日房上人彰空に遇うて、西山の法門をば聴受し給う、五部の講敷にもたびたびあい、そのほか大経註論念仏鏡などの談もありけり。又、慈光寺の勝縁上人に対して、一念の流をも習学ありけり。これも『凡頓一乗』『略観経義』『略料簡』『措心偈』『持玄抄』などいう幸西上人の製作ゆるされによりて、かきとり給いけり。」とある。