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二種深信

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

2020年9月1日 (火) 12:08時点における林遊 (トーク | 投稿記録)による版

にしゅ-じんしん

 「機の深信」「法の深信」の、二種深信とは『観無量寿経』の、

若有衆生願生彼国者 発三種心即便往生。何等為三。一者至誠心 二者深心 三者廻向発願心。具三心者 必生彼国。(観経漢文P.134)
もし衆生ありてかの国に生ぜんと願ずるものは、三種の心を発して即便往生す。なんらをか三つとする。一つには至誠心、二つには深心、三つには回向発願心なり。三心を具するものは、かならずかの国に生ず。(観経 P.108)

の、至誠心深心回向発願心の三心中の「深心」を、救済の対象()と、それを救済する()に開いた善導大師の釈からいわれる。浄土真宗に於ける信の特長を表現する語とされている。
善導大師は『観経疏』で『観経』の深心を釈し、

深心といふはすなはちこれ深く信ずる心なり。 また二種あり。
一には決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没しつねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。
二には決定して深く、かの阿弥陀仏の、四十八願は衆生を摂受したまふこと、疑なく慮りなくかの願力に乗じてさだめて往生を得と信ず。(散善義 P.457),(信巻 P217で引文)

と、深心とは深く信ずる心として二種に開いている。ここに一にはとあるのは、自身には迷いの生死を出る手掛かりがまったくないということを深信するので「機の深信」という。二には、このような者を救うために阿弥陀仏は本願を建立され衆生を済度しつつあることを深信するので「法の深信」という。
御開山は『愚禿鈔』でこの二種深信の文を引かれて、

いまこの深信は他力至極の金剛心、一乗無上の真実信海なり。 (愚禿下 P.521)

とされておられた。
また、この深心を『往生礼讃』では、

二には深心。すなはちこれ真実の信心なり。自身はこれ煩悩を具足する凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知し、いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下十声・一声等に至るに及ぶまで、さだめて往生を得と信知して、すなはち一念に至るまで疑心あることなし。ゆゑに深心と名づく。(往生礼讃 P.654),(信巻 P228で『礼懺儀』として引文)

と、真実の信心とは、この機と法の二種を信知することであるとされ「下十声・一声等」の名号(なんまんだぶ)を称えることを勧めている。この衆生(機)のさとりへの手がかりが全くない本来の相(すがた)を信知することを「信機」といい、その曠劫より生死に流転してきたを見そなわして救済する本弘誓願(阿弥陀仏の済度のはたらき)を信知することを「信法」という。このことは自らの力でのさとりの実現が不可能であることを信知し、阿弥陀仏の本願のすくいに乗託することであるから「捨自帰他(じゃじ-きた)」(自力を捨て他力に帰す)という。浄土真宗では、この二種の深信は本願力回向による他力信心の相を示し、二種一具の関係にあって別々のものではなく、一つの信心の両面をあらわすものだとする。越前の古参の門徒は、これを井戸のつるべに譬えて「上がるつるべは落ちるつるべ、落ちるつるべは上がるつるべ」などと言っていたものである。
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信心を強調する浄土真宗では、ともすれば機の深信は自己の心の内面を凝視した上での「自覚」(自意識)としての罪悪感と混同し、そこから様々な異解が生まれてきた歴史がある。自己の罪悪感に拘泥することは、不可称不可説不可思議の阿弥陀如来の本願力の衆生済度のはたらきを、自己の思惟のレベルに貶めるいとなみでもあるのだが、現代においても己の罪の深きことを知れと、自らの自覚という意味で、法を語る坊さんに多いので困ったものである。自覚とは、自分が自分を知ること(自己認識)であるから、知る自分と知られる自分とは、区別されなければならない。同時に、自覚の主体である同一の自己でもあり続けなければならないのであるから、自分が自分を知るという無限遡及に陥るのであった。→知られる私 ──大谷派の近代教学の自覚主義とキリスト教の影響を受けた原罪との混同から派生する異端である。本願寺派の社会学から派生した現代教学の一端もその轍をふむものであろうと在野の一門徒は思ふ。──

なお、御開山には、七深信 (愚禿下 P.521)という語はあるが、二種深信という言葉は無い。『愚禿鈔』では、機法の二種深心について、

第一の深信は、「決定して自身を深信する」と、すなはちこれ自利の信心なり。
第二の深信は、「決定して乗彼願力を深信する」 (愚禿下 P.521)

と、機の深信だけでは自利の信心とされておられた。第二の法の深信と一具でない第一の機の深信は、法を見ずに、自ら罪業を嘆きおそれている心であり、これを自力の信心とされたのであろう。御開山の用例では自利とは自力の意である。

法然聖人の『選択本願念仏集』には、

次に「深心」とは、いはく深信の心なり。まさに知るべし、生死の家にはをもつて所止となし、涅槃の城にはをもつて能入となす。ゆゑにいま二種の信心を建立して、九品の往生を決定するものなり。(選択集 P.1248)

と、「信疑決判」を示す文中に二種の信心という語はある。法然聖人は『往生大要抄』で、この二種を釈して

まことに此弥陀の本願に、十声・一声にいたるまで往生すといふ事は、おぼろげの人にてはあらじ。妄念をもおこさず、つみをもつくらぬ人の、甚深のさとりをおこし、強盛の心をもちて申したる念仏にてぞあるらん。われらごときのえせものどもの、一念・十声にてはよもあらじとこそおぼえんもにくからぬ事也。
これは善導和尚は、未来の衆生のこのうたがひをおこさん事をかへりみて、この二種の信心をあげて、われらがごとき煩悩をも断ぜす、罪悪をもつくれる凡夫なりとも、ふかく弥陀の本願を信じて念仏すれば、十声・一声にいたるまで决定して往生するむねをば釈し給へる也。
かくだに釈し給はざらましかば、われらが往生は不定にぞおぼえまし。(『和語灯録』往生大要抄p.578)

と、念仏は、甚深のさとりをおこした勝れた人のみが称える念仏の法門であると誤解するおそれがあるゆえ、善導和尚は機の深心を釈されたとされていた。法の深信のみでは、自身の器量を怯弱して、罪をもつくらぬ人の勝れた人のみが称える念仏の法門であると誤解するおそれがあるゆえ、善導大師は煩悩を断ずることの出来ない凡夫こそが本願の目当てであることを示すために機の深心を釈されたとするのである。この意味で自覚(自己反省)としての罪悪感に沈潜する機の深信と違う論理であった。また法然聖人は『西方指南鈔』所収の「十七条御法語」では、

又云、導和尚、深心を釈せむがために、余の二心を釈したまふ也。経の文の三心をみるに、一切行なし、深心の釈にいたりて、はじめて念仏行をあかすところ也。 (十七条御法語)

とされて、『観経』の至誠心深心回向発願心の三心は、善導大師の深信釈に、凡夫往生の行として正定業〔なんまんだぶ〕が説かれているので深心(深信)一心に納まると見られていた。『礼讃』の深心釈にも

二には深心。すなはちこれ真実の信心なり。自身はこれ煩悩を具足する凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知し、いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下十声・一声等に至るに及ぶまで、さだめて往生を得と信知して、すなはち一念に至るまで疑心あることなし。ゆゑに深心と名づく。(往生礼讃 P.654)

と称名が出されてある。深信とは、念仏(なんまんだぶ)が、正しく衆生の往生が決定する業因であると信受することであった。

御開山の「三心一心釈」(信巻 P.231)「誓願一仏乗」(行巻 P.195)の釈の意や「四不十四非」(信巻 P.245)の釈から窺えば、御開山は忠実に法然聖人を承けておられるのであった。なお、浄土真宗において、二種深信という用語の初出は、存覚上人であろう。

浅原才市さんのうた
自覚
安心論題/二種深信

参照WEB版浄土宗大辞典の「信機・信法」の項目


参考:『竹林鈔』第十一、二種信心事

第十一。二種信心の事

いかなる人が決定往生すべきと尋ぬるに、宗家(善導)の釈し給ふ所の機法二種の信心の立たるこの人なり。二種信心とは、すなわち帰命の心なり。 帰命せずして往生せんと思うは、目無くして物を見、耳なくして声を聞かんと思ふがごとし。唱へながら往生せざるの有様はを知らざるの思議せざるの人なり。

ある人の云く、本願を信ずれども、我が身の悪を疑うなり。名利を捨てず、三業ととのわず妄念静かならず、貪心止(や)まず、念仏申せども、凡夫は暫くもかない難し。

ある人の云く、念仏は僅かに六字なれば功徳も少かるべし。持戒・修善して悪を起こさざる者、無上の念仏にて往生の業と成べしと。

前の人はを疑い、後の人はを疑う。機を疑う人の為には、第一の信心を勧め、法を疑う人の為には第二の信心を勧む。機のありさまを思い知らず、妄念を止(とど)め、貪嗔をも留むべき様に思いて、兎角し煩ふなり。妄愛の迷い深き鈍根無智の我等は、妄念を止どめんとすれども留まらず。散乱を静めんと思へとも静かならず。つらつら機の姿を思ひとくに、更に出離の期あるべからず。 ➡(竹林鈔)