自力
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
じりき
阿弥陀仏の本願を疑い、自分の修めた身・口・意の
慶信が「さとり」と書いていたのを、親鸞聖人が訂正された。(消息 P.761)
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
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- 自力
- 自力といふは、わが身をたのみ、わがこころをたのむ、わが力をはげみ、わがさまざまの善根をたのむひとなり。 (一多 P.688)
- まづ自力と申すことは、行者のおのおのの縁にしたがひて余の仏号を称念し、余の善根を修行してわが身をたのみ、わがはからひのこころをもつて身・口・意のみだれごころをつくろひ、めでたうしなして浄土へ往生せんとおもふを自力と申すなり。 (御消息 P.746)
自力とは他力の反対語である。ただ浄土真宗では自からの力の反対語は他の力ではない。浄土真宗においては自力・他力とは宗教的世界観の違いをあらわす概念だからである。→他力ということ →他力
- 自力
自らの持つ力によることを自力、自己以外の仏菩薩などの力をかりることを他力という。仏教の中で自力によってさとり得ようとする教えを自力教、自力宗、自力門、他力に救われて仏になる教えを他力教、他力宗、他力門という。
- ① 一般に発心修行をするのに、自己の力によるものと他の力をかりるものとがあり、自力は能力があり性質のすぐれた者、他力は能力がなく性質の劣った者の修道方法である。また自力でさとりに至るのは難しいが、他力で至ることは易しいとする。
- ② 浄土教では、他力を本願他力(阿弥陀仏の本願により念仏して浄土に生まれる)の意とし、本願によらないものを自力とする。また道綽の安楽集巻上では、浄土に生まれることを願ってこの世で修行する間を自力といい、臨終に阿弥陀仏にむかえられるのを他力とする。
- ③ 源空は他力を他力本願の意とするが、その門下では種々に解釈する。
- (イ) 浄土宗(鎮西派)では、聖道門は自己の修行を成し遂げることに力を注いでそのために仏のたすけをかろうとするから自力であり、浄土門はまず仏の本願を信じてひたすら念仏するから他力である(良忠の選択伝弘決疑鈔巻一)とし、またこの世で念仏するのを自力、それによって仏にむかえとられるのを他力(良忠の浄土宗要集巻三)とする。
- (ロ) 浄土宗西山派では、阿弥陀仏の慈悲のはたらきが衆生を往生させるから他力である(証空の選択密要決巻二)とし、同派の深草流では、観無量寿経を解釈するのに自力・仏力・願力(自仏願の三重)という説を立て、聖道門の諸経典に説く行は自己の力でさとりに至ろうとするものであるから自力であり、観無量寿経に説く定散二善は弘願を顕すために方便として釈迦仏が示したものであるから仏力であり、念仏は阿弥陀仏の本願の力によるから願力であるとする。
- (ハ) 隆寛の著である自力他力事によれば、自分の称える念仏の力をたのみとするのを自力念仏、往生を仏にまかせて念仏するのを他力念仏とする。
- (二) 浄土真宗では、要門(定散の諸行で往生しようとする)・真門(自力の念仏)を他力中の自力とし、弘願(本願を信ずる)を他力中の他力とする。
- ④ 融通念仏宗では、一人の念仏と一切人の念仏とが互いに融通し合う所に、他力の意をみとめる。(仏教学辞典)