操作

親鸞聖人の教え・問答集

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

親鸞聖人の教え・問答集

自力他力という語は、浄土真宗に於ける仏教概念語である。世俗的には、自力と他力の語を、自分の力と他人の力という同一次元での対句と捉えるのである。 しかし、浄土真宗では「他力といふは如来の本願力なり」(行巻 P.190) といい「他力」の「他」とは阿弥陀仏の済度の対象である衆生を指す語である。迷える他である衆生を済度しようとする仏の本願力からみた衆生を他というのである。仏(自)➡衆生(他)

(行巻 P.190)

【三】他力ということ

一、自力・他力の誤解

 プロ野球の、終盤戦が近づいた頃、テレビの実況放送を聞いていますと、解説者が「今日の試合に負けたら、このチームの自力優勝はなくなる。あとはライバルのチームが負けてくれるのを待つしかありません」と言いますと、放送記者が「他力をたのむばかりですね」などと相づちを打っているのを聞くことがあります。そんなとき、なにか違和感をおぼえ、自力・他力という言葉はこんな使い方をしていいのかな、と思うことがあります。とくにライバルのチームが負けたために自分のチームが有利になることを他力に救われたというのは、どう考えてもおかしいと思いますが、いかがでしょうか。

 確かにその通りですね。しかし同じような例が幾らもあります。会社の経営がうまくいかなかったり、地方自治体の赤字財政が問題になったときなどにも、「他力をたのまずに何よりも自力更生を計らねばならない」というような論評を聞くことがありますが、やはり違和感がありますね。中には「他力本願では駄目だ、何事も自力で立ち上がる努力をしなければならない」などと、「他力本願」という大切な仏教用語をこんな形で使われると、違和感を通り越して腹立ちを感じます。

 もともと自力・他力という言葉は仏教から出た言葉でしょうが、どういう意味を表していたのですか。

 それが実は仏教の中でもさまざまな使い方がされていまして、一概に言い切れない内容を持っているわけなんです。
 親鸞聖人などは自力・他力という言葉を厳しく限定し、定義して、その定義に従ってキッチリと使っていかれますから、たとえば「あなたのような自力・他力の使い方は親鸞聖人の教えではありません」と言い切ることはできます。しかしそれは親鸞聖人の教えに関してはいえますが、同じ仏教徒の中でもさまざまな使い方がされていますから、一概には言い切れません。
 たとえば聖道門の方が使う自力・他力と、浄土門の方が使われる自力・他力とは違いますし、同じ浄土門の方であっても、後に詳しく述べるように法然聖人の弟子の聖光房弁阿上人やその弟子の良忠上人が使われる自力・他力と、親鸞聖人の自力・他力とは大きな違いがありました。ですから私は誰それのような使い方をしているのだといわれれば、「そうですか」といわざるを得ないところもあります。

 こういうわけで世間の常識としての自力・他力の使い方が一概に悪いと言い切ってしまうことができないところに難しさがあるわけです。

 自力・他力というような言葉は、スッキリとわかりやすい言葉かと思っていましたが、ずいぶん難しいんですね。

 そうです。むしろわかりやすい言葉というのは、どうにでも解釈ができるからで、実は誤解されやすいということもあるわけです。その意味で蓮如上人が「心得たと思うは心得ぬなり、心得ぬと思うは心得たるなり」(*) と言われたように、とくに仏法を聞くときには早とちりをしないように気をつけねばなりません。
 自力と他力を同じ次元で並べて、自力とは自分の力ではげむことであるが、他力とは他人の力をあてにして、自分は何もしないことであると理解したとすれば、それは理解したのではなくて誤解をしたことになります。とくに浄土教で救いを表わすために使っている他力という言葉は、生と死の惑いを断ち切って、人びとに安らぎと充実感を与えていく法義を顕わす言葉ですから、もともと常識を超えた領域を指し示していました。

 わかっていると思っていたことがわからなくなってきて、頭の中が混乱してきました。少しずつ整理していきたいと思います。とにかく自力・他力という言葉には常識的な部分と常識を超えた部分とがあるようですね。

 その通りです。たとえば自力・他力を「自分の力」と「他人の力」というような対句とみるのは常識的な見方です。そして自力とは、自分の力をたのみにして修行し、さとりに向かって向上することを勧める教えであるというのは正しいわけです。これは常識的な教えですからね。
しかしその反対に「他力とは他人の力」ということで、他人のカをあてにして、自分は何もしないことであると他力を常識的に理解するのは間違いです。

 それというのも浄土教というのは、元来大人の宗教なんです。いい歳をして悪いことだと知りながら、性懲りもなく愛欲や憎悪の煩悩を起こし、人を妬んだりそねんだりして、自分で悩み苦しんでいる、そんな自分の愚かさと惨めさに気づきながら、その悪循環を断ち切れない自分に絶望したところから、浄土教は始まるのです。その意味で浄土の教えは決して「きれいごと」の宗教ではありません。
 そうした自分のぶざまな愚かさを見すえながら、そんな自分に希望と安らぎを与えてくれる阿弥陀如来の本願のはたらきを他力と仰いでいるのです。だから他力とは、私を人間の常識を超えた精神の領域へと開眼させ、導く阿弥陀仏本願力を讃える言葉だったのです

二、他力不思議

 それでは親鸞聖人の場合、自力と他力というのは、単純な対句ではなかったのですね。

 その通りです。通俗的には自分の力と他人の力という同一の次元での対句だったわけです。しかし人間の知性と実践で解決のできる思議(思いはからい)の領域を表している自力に対して、人間の思慮分別を超えた本願のはたらきが、人間を導いていく如来の不可思議な大悲智慧のはたらきを表す言葉が他力であるといったときには、人間の思議の領域と仏陀の不思議な智慧の領域を表していました。そういう意味で人間中心の考え方と仏中心の考え方の違いをあらわす対句とみることもできます。少なくとも親鸞聖人は後者のような意味で自力・他力という言葉を使われていたのです。

 すると親鸞聖人は、自力と他力とを、人間の知識のはたらきと、阿弥陀仏の智恵のはたらきとに分けられたということですか。

 そうです。ですから親鸞聖人は、自力の教えは人間に理解可能な常識的な領域を知らせる教えですが、他力は常識を超えた不可思議な阿弥陀如来の本願力のはたらきを示す言葉であると見られていたのです。

 聖人が『教行証文類』の「行文類」や『愚禿鈔』の中で自力の諸行と他力の行(念仏)を比較される中に、思不思議対という対目(ついもく)をあげられていました[1]。 自力の修行は人間の努力の延長線上の出来事ですから思議の領域であり、他力は人間の思いはからいを超えた不思議な仏智のはからいを表しているといわれるのがそれです。『正像末和讃』にも、

聖道門のひとはみな 自力の心をむねとして
他力不思議にいりぬれば 義なきを義とすと信知せり

といわれているのも同じ心を讃詠されたものです。なおこの和讃は「顕智本」では、「聖道門のひとはみな 自力の心をむねとせり」となっています。いずれにせよ自力を思議とし、他力を不思議と見られていたことがわかります。

 自力とは人間の思議をはたらかせる教えであり、他力とは、人間の思議をさしおいて、阿弥陀仏の智慧に導かれていく教えということになるわけですか。

 それを自力を捨てて他力に帰すというのです。自力の教えというのは、私どもは平等に仏になれる素質をもっていて、教えの通りに修行をすれば必ず成仏できると信じ、全力をあげて布施(ほどこし)・自戒(戒律を守る)・忍辱(苦難に堪える)・精進(努力)・禅定(精神統一)・智慧といったさまざまな行を実践して身心を浄化し、自利と利他を完成していく仏道でした。

 それに引き替え他力の教えは、厳しい修行によって自身の煩悩を浄化する力もなく、そればかりか罪業を造り続ける愚悪な凡夫の悲しみを、ご自身の痛みとして共感し、自らのこととして救い取ろうと誓願された阿弥陀仏の大悲智慧のはたらきを他力(利他力)と呼ばれているのです。
 阿弥陀仏の本願力は、本願の目当てであった私どもに届いて常にはたらき続け、本願を信じる能力のない私を育てて、本願を疑いなく受け容れる者にしあげ、念仏する気もなかった私を、細々ではあるが念仏を申す行者に育ててくださいました。そしてこの世の名利しか求めていなかった私に、浄土こそ「まこと」の世界であると知らせて、涅槃浄土へ導いてくださることを本願他力の救いと呼ばれたのでした。
 いいかえれば、他力は、私が本願を信じ、念仏しているところに顕現している如来のはたらきなのです。私どもは如来の他力に包まれ導かれながら浄土の旅を続けているのです。

 しかし、教えを聞くことも、信じることも、念仏を称え続けていることも、実際は私が聞いているのであり、私が信じているのであり、私が称えているのではないですか。

 確かに自分が努力して聞法し念仏しているのですから私の行いであって、自力の営みであると思われるのはもっともなことです。しかし、そのように常識的に理解することを自力というのです
 念仏は私の行いであると言うときに、その人に見えているのは、「私は念仏した」という自分の功績だけでしょう。幾ら念仏していても、自分に逢うだけで如来さまには決して遇(あ)えません。
実は如来さまに遇えないのではなくて、如来さまの前に自分が立ちはだかって隠してしまっているのです。もしそんな状態で如来が見えたとすれば、それは自分の心の影であって、まことの如来ではありません。念仏させてくださっている如来さまの大悲願力を覆い隠すものこそ自己をたのむ自力心だったのです。
 教えを聞く気のなかった私が、教えを聞いて喜ぶようになっているのは、私が偉かったのではなくて、どうぞ一声でも真実のみ教えに遇(あ)ってくれよと願われた阿弥陀仏の本願力のはたらきの賜物であったと気づいたとき、その場で私を聞法させてくださっている本願の如来さまに遇わせていただくことができます。
 ただ自力をたのむ心が幅をきかせている限り、本願他力に遇うことはできません。ただ一声でも念仏が口をついて出たとき、これが「本願をまことと受け容れ、お念仏の申せる人生を生きてくれよ」と願われた本願力が、いま私の上にとどいて躍動している姿であると気づいたことを「他力不思議」と信知するといわれたのです。

 ずいぶん難しい話になりましたが、しかし何か如来さまを身近に感じるような気がいたします。

 それが一番大切なことです。他力とか、本願力といっても、私どもの生活の場を離れてどこかで空転しているようなものではないからです。

親鸞聖人の他力観

脚註:

  1. 「行文類」p.199。「しかるに教について念仏諸善比挍対論するに」、として教法について47(48)対を挙げておられる中の一。