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「真実報土」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

 
 
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 [[阿弥陀仏]]の[[浄土]]。阿弥陀仏は[[因位]]真実の[[誓願]]と修行に報われて仏と成られた[[報身仏]]であるから、その浄土は[[報土]]である。
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 [[阿弥陀仏]]の[[浄土]]。阿弥陀仏は[[因位]]真実の[[誓願]]と修行に<kana>報(むく)</kana>われて仏と成られた[[報身]]仏であるから、その浄土は[[報土]]である。<br />
 
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これに[[真実報土]]と[[仮土|方便仮土]]の別があり、他力の信心を得た者のみが往生する報土を真実報土という。→[[仮土]]、[[浄土]]、[[補註2]]。
これに真実報土と[[方便仮土]]の別があり、他力の信心を得た者のみが往生する報土を真実報土という。→[[仮土]] (けど)、[[浄土]] (じょうど)、[[補註2]]。
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報土には、[[真実報土]]と報土中の[[方便化土]](仮の仏土)の別がある。これは二つの浄土があるのではなく、化土は報土中の化土といふ特殊な浄土であった。いわゆる、報・応・化の土ではなく「報中の化土」であり、自力の機感に応じて化現しているものだから実体はない。<br />
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「真巻」末尾に、
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:仮の仏土とは、下にありて知るべし。すでにもつて{{DotUL|真仮みなこれ大悲の願海に[[酬報]]せり}}。ゆゑに知んぬ、報仏土なりといふことを。まことに仮の仏土の業因千差なれば、土もまた千差なるべし。これを方便化身・化土と名づく。真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す。([[WD:Sinb#P--372|真巻 p.371]])
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と、「下にありて知るべし」と「化巻」で方便化身・化土をあかしていかれるのであった。<br />
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そして、真実報土には[[第十八願]]の他力念仏の行者のみが往生すると『一多文意』には
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:「[[正定聚]]」の人のみ[[真実報土]]に生るればなり。 ([[一多#P--686|一多 P.686]])
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と、[[真実報土]]と、報土に真実の語を付して[[真実報土]]といふ表現をされておられた。→[[報化二土]]、[[真仏土]]
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2024年8月30日 (金) 15:42時点における最新版

しんじつほうど

 阿弥陀仏浄土。阿弥陀仏は因位真実の誓願と修行に(むく)われて仏と成られた報身仏であるから、その浄土は報土である。
これに真実報土方便仮土の別があり、他力の信心を得た者のみが往生する報土を真実報土という。→仮土浄土補註2

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

報土には、真実報土と報土中の方便化土(仮の仏土)の別がある。これは二つの浄土があるのではなく、化土は報土中の化土といふ特殊な浄土であった。いわゆる、報・応・化の土ではなく「報中の化土」であり、自力の機感に応じて化現しているものだから実体はない。
「真巻」末尾に、

仮の仏土とは、下にありて知るべし。すでにもつて真仮みなこれ大悲の願海に酬報せり。ゆゑに知んぬ、報仏土なりといふことを。まことに仮の仏土の業因千差なれば、土もまた千差なるべし。これを方便化身・化土と名づく。真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す。(真巻 p.371)

と、「下にありて知るべし」と「化巻」で方便化身・化土をあかしていかれるのであった。
そして、真実報土には第十八願の他力念仏の行者のみが往生すると『一多文意』には

正定聚」の人のみ真実報土に生るればなり。 (一多 P.686)

と、真実報土と、報土に真実の語を付して真実報土といふ表現をされておられた。→報化二土真仏土


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補  註

阿弥陀仏
往生・真実証・浄土
機・衆生
具縛の凡愚・屠沽の下類
業・宿業
正定聚
信の一念・聞
真実教
旃陀羅
大行・真実行
大信・真実信
他力・本願力回向
同朋・同行
女人・根欠・五障三従
方便・隠顕
菩薩
本願
→七祖 補註へ

2 往生・真実証・浄土

 往生とは、阿弥陀仏の浄土に往き生れることである。阿弥陀仏の浄土は完全に煩悩寂滅(じゃくめつ)した無為涅槃(むいねはん)界であるから、生れるとただちに仏となる。これを「往生即成仏」という。

「信巻」(末 264)に、「念仏の衆生は(中略)臨終一念の(ゆうべ)大般(だいはつ)涅槃を超証す」とあるように、現生(げんしょう)の命を終えるとすぐ、阿弥陀仏の浄土に往生し、ただちに仏となるのである。これを難思議(なんじぎ)往生という。

親鸞聖人は「行巻」に、「往生はすなはち難思議往生なり」(202) と示され、また「証巻」の冒頭に「必至滅度(ひっしめつど)の願、難思議往生」(306) とかかげられている。

 必至滅度の願とは第十一願であり、その願文には、「たとひわれ仏を得たらんに、国中の人天(にんでん)定聚(じょうじゅ)に住し、かならず滅度に至らずは、正覚(しょうがく)を取らじ」とある。滅度とは、梵語ニルヴァーナ(nirvāņa)の漢訳で煩悩の寂滅した「さとり」のことであるから、「証巻」は衆生のさとりを明かした巻である。大行(だいぎょう)大信(だいしん)の因によって得る果であるから、これを真実の証という。

「証巻」に、「つつしんで真実の証を顕さば、すなはちこれ利他円満の妙位、無上涅槃の極果(ごくか)なり」(307) とある。真実の証とは自身の迷いを完全に脱却するとともに、衆生済度(さいど)が自由自在に可能となることである。このように阿弥陀仏の浄土に往生したのち衆生救済の活動に出ることを還相(げんそう)といい、親鸞聖人は「証巻」の約三分の二にわたって還相の釈をなされている。

 衆生が往生するところの阿弥陀仏の浄土については、「真仏土巻(しんぶつどかん)」においてあきらかにされる。すなわち第十二願第十三願に報いて完成された浄土であるから、光明無量、寿命無量の徳の実現している真実報土である。それゆえ親鸞聖人は、「土はまたこれ無量光明土なり」(337) と、浄土を光明の世界としてあらわされている。光明とは、智慧のはたらきをあらわしているが、智慧が人々を導き救うすがたが大悲方便であるから、浄土とは大悲の顕現した阿弥陀仏のさとりの世界であることはあきらかである。

前に述べたように真実の証果はこの浄土において完成するのであるが、浄土は往相還相の二回向があらわれでてくる衆生救済の淵源(えんげん)でもある。


出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。