「真・仮・偽」の版間の差分
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− | + | 御開山は、あらゆる宗教現象を真・仮・偽の三分類法でみておられた。[[真実]]と[[権仮方便]]と[[邪偽]]である。『教行証文類』では教・行・信・証・真仏土の五巻を真実とし、「化身土巻」の前半では仮である方便([[要門]]、[[真門]]、[[聖道門]])、後半では偽である邪義の[[宗教]]について述べておられる。 偽の[[宗教]]とは人の欲望や煩悩を増大し満足させる[[宗教]]を偽の宗教とみておられた。このような欲望を肯定し煩悩を煽るような邪偽なる[[宗教]]に対して、[[八聖道]]や[[六波羅蜜]]という苦の原点である煩悩を滅却する道として聖道門仏教を位置づけられたのであった。また、御消息では | |
+ | :「聖道といふは、すでに仏に成りたまへる人の、われらがこころをすすめんがために、仏心宗・真言宗・法華宗・華厳宗・三論宗等の大乗至極の教なり。……すなはちすでに仏に成りたまへる仏・菩薩の、かりにさまざまの形をあらはしてすすめたまふがゆゑに[[権]]といふなり」([[消息上#P--736|御消息 P.736]]) | ||
+ | と、当時の厳粛な聖道門とは、[[還相]]の[[菩薩]]が修する仏道であるとされていた。ここでの権といふなりの「権」とは「[[権化の仁]]」の意である。その意味では聖道門は単に廃捨するものではなく、邪義に迷っている者を聖道門の説く正しい生き方へ誘引するという意味がある。聖道門仏教をもって邪義なる宗教に対判しておられるのであった。([[化巻末#P--429|化巻 P.429]])<br /> | ||
+ | しかし邪義なる[[外道]]から[[聖道門]]仏教へ入ったのだが、真実なる道を求めようとすればするほど、内なる奔放する煩悩に打ちひしがれていく。観念ではなく実践の道に立った者が遭遇する陥穽であった。道綽禅師はこの難に対して、 | ||
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− | : | + | :遠劫よりこのかた多仏に値ひたてまつるべし。 なにによりてかいまに至るまで、なほみづから生死に輪廻して火宅を出でざる。 |
+ | :答へていはく、大乗の聖教によるに、まことに二種の勝法を得て、もつて[[生死]]を[[排はざる]]による。 ここをもつて[[火宅]]を出でず。 何者をか二となす。 一にはいはく聖道、二にはいはく往生浄土なり。 ([[安楽集 (七祖)#P--241|安楽集 P.241]]) | ||
}} | }} | ||
と、聖道門仏教の他に往生浄土という浄土門仏教を示された。これは直接には龍樹菩薩の『十住毘婆沙論』の、 | と、聖道門仏教の他に往生浄土という浄土門仏教を示された。これは直接には龍樹菩薩の『十住毘婆沙論』の、 | ||
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− | : | + | :仏法に無量の門あり。世間の道に難あり易あり。[[陸道の歩行]]はすなはち苦しく、[[水道の乗船]]はすなはち楽しきがごとし。菩薩の道もまたかくのごとし。あるいは勤行精進のものあり、あるいは[[信方便易行]]をもつて疾く[[阿惟越致]]に至るものあり。 ([[十住毘婆沙論 (七祖)#no3|十住毘婆沙論 P.6]]) |
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− | + | とある、勤行精進の「[[難行道]]」と信方便の「[[易行道]]」を説く文を解釈された曇鸞大師が難行の五由をあげ、 | |
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:五にはただこれ自力にして他力の持つなし。 | :五にはただこれ自力にして他力の持つなし。 | ||
:かくのごとき等の事、目に触るるにみなこれなり。たとへば陸路の歩行はすなはち苦しきがごとし。 | :かくのごとき等の事、目に触るるにみなこれなり。たとへば陸路の歩行はすなはち苦しきがごとし。 | ||
− | : | + | :「[[易行道]]」とは、いはく、ただ信仏の因縁をもつて浄土に生ぜんと願ずれば、仏願力に乗じて、すなはちかの清浄の土に往生を得、仏力住持して、すなはち大乗正定の聚に入る。正定はすなはちこれ阿毘跋致なり。たとへば水路に船に乗ずればすなはち楽しきがごとし。この『無量寿経優婆提舎』(浄土論)は、けだし[[上衍]]の極致、不退の風航なるものなり。 ([[浄土論註 (七祖)#no1|論註P.47]]) |
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− | + | とされた。この「五にはただこれ自力にして他力の持つなし」という他力の語に道綽禅師は深い感銘をうけられた。そして、仏教を聖道門([[難行道]]:自力自摂の法)と浄土門([[易行道]]:他力他摂の法)に二分されたのであろう。御開山が正信念仏偈で道綽禅師の釈功として、 | |
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− | : | + | :「道綽決聖道難証 唯明浄土可通入。万善自力貶勤修 円満徳号勧専称。(道綽、聖道の証しがたきことを決して、ただ浄土の通入すべきことを明かす。万善の自力、勤修を貶す。円満の徳号、専称を勧む。)」([[行巻#P--206|行巻 P.206]]) |
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− | + | と讃嘆される所以である。教学的には、あまり評価されることが少ない道綽禅師だが法然聖人は『選択集』の冒頭に、 | |
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:道綽禅師、聖道・浄土の二門を立てて、聖道を捨ててまさしく浄土に帰する文。 ([[選択本願念仏集 (七祖)#P--1183|選択本願念仏集(P.1183]]) | :道綽禅師、聖道・浄土の二門を立てて、聖道を捨ててまさしく浄土に帰する文。 ([[選択本願念仏集 (七祖)#P--1183|選択本願念仏集(P.1183]]) | ||
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− | + | と、「聖浄二門判」を引文し浄土宗の独立の根拠とされておられた。<ref>『安楽集』の聖道・浄土の文によってこの世でさとりを得る聖道門と異なる論理体系の浄土門仏教があることを初めて開顕されたのは法然聖人であった。『安楽集』はシナや日本でもよく読まれたのだが、第三大門を教判を示す語として読めなかったのであろう。法然聖人は、600年前の道綽禅師の聖道・浄土を指示する文を教判を示す文であるとして浄土宗独立の根拠とされたのであった。『選択集』二門章で「道綽禅師、聖道・浄土の二門を立てて、聖道を捨ててまさしく浄土に帰 する文」とされておられる所以である。また『浄土宗大意』で「聖道門の修行は、智慧をきわめて生死をはなれ、浄土門の修行は、愚痴にかへりて極楽にむまる」([[hwiki:西方指南抄/下本#P--219|西方指南抄/下本]])と成仏と往生との仏教綱格の違いについて述べておられた。 </ref><br /> | |
− | + | 『醍醐本法然上人伝記』には、後に天台座主になった顕真に、[[生死]]を解脱すべき道を問われて、 | |
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+ | :答う。成仏、難しといえども往生は得易きなり。 | ||
+ | :道綽・善導の意に依らば、仏の願力の仰せを強縁となす、ゆえに凡夫浄土に生まると云々。([[醍醐本法然上人伝記#no5|『醍醐本法然上人伝記』五 大原問答について]]) | ||
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+ | とされ、この土でさとりを開く「[[此土入聖]]」の法門と、浄土に往生して証を得る「[[彼土得証]]」の法門の綱格の違いについて述べられている。伝記には「その後、さらに言説なく」とあるので、顕真は即座には法然聖人の仏の願力を強縁とする往生浄土の「[[彼土得証]]」の浄土教を理解しえなかったのであろう。現代に於いても[[自覚]]という妄想に依拠して、往生浄土という成仏法を理解できない浄土真宗門内の僧俗が多い。だが仏教とは仏に成る教えである「生死出づべき道」([[恵信尼#P--811|恵信尼 P.811]])であり「ひとへに往生極楽のみち」([[歎異抄#P--832|歎異抄 P.832]])である成仏法であることを領解できないのは困ったものである。布教使の説く「救い」という語に幻惑されて、成仏を求めないなら、それはすでに仏教ではないのである。 →[[済度]]<br /> | ||
− | + | 御開山はこの浄土門においても三分類法で第十八願、第十九願、第二十願の生因三願を領解されていた<ref>四十八願の中で直接衆生に対して呼びかけられている願は「設我得仏 十方衆生」ではじまる第十八願、第十九願、第二十願の三願である。これを生因三願といふ。</ref>。 | |
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− | + | [[此土入聖]]の聖道門から[[彼土得証]]の浄土門に入ったのだが聖道の習い性としての[[習気]]があるので、聖道門の行体(発菩提心 修諸功徳)をもって浄土へ往生しようと願う行者の為の方便の願が[[第十九願]]であった。行為(業)は願いによってその意味を転ずるので「業は願によりて転ず」([[往生要集中巻 (七祖)#P--1031|*]])という。行動(行業)は、何を願いとするかでその意味が変わる。それが、[[此土入聖]]の聖道の行体をもって往生を願わしめる第十九願である。<br /> | |
+ | 邪義の外道から聖道門([[此土入聖]])を経て浄土門(彼土得証)へ入ったのだが、[[選択本願]]の念仏の行ではなく聖道門の行体(発菩提心 修諸功徳)をもって浄土へ往生しようとする行者のための方便の願である。此の世でさとりを得るという[[此土入聖]]の聖道の行体をもって浄土往生を願わしめるのが[[欣慕]]浄土の第十九願である。「発菩提心 修諸功徳 至心発願 欲生我国(菩提心を発し、もろもろの功徳を修して、至心発願してわが国に生ぜんと欲せん)」と願文にある。([[大経上#19gan|大経 P.18]]) | ||
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+ | 第二十願は、そのような十九願の行者が、やがて[[善本徳本|善本・徳本]]の[[名号]]の功徳性に気づいて聖道の行である菩提心 修諸功徳を捨てて専ら念仏を修する者の願である。しかし、[[万行円備の嘉号]]を自らの修する善根であると取り違えて行じているから仮という。<br /> | ||
+ | 名号は、直ちに往生成仏しうる他力真実の阿弥陀仏から回向される行法であるが、受けとる機が自力疑心をまじえるために、自力念仏という[[方便]]になるのである。「まことに教は頓にして根は漸機なり」([[化巻本#P--399|化巻 P.399]])とされる所以である。願文には「聞我名号 係念我国 植諸徳本 至心廻向 欲生我国(わが名号を聞きて、念をわが国に係け、もろもろの徳本を植ゑて、至心回向してわが国に生ぜんと欲せん)」とある。([[大経上#20gan|大経 P.18]]) →[[六三法門|願海真仮論]] | ||
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+ | ともあれ、御開山は、真・仮・偽という三つの概念を用いてあらゆる宗教現象というものを説明される。つまり仮なる聖道門によって邪偽の宗教を教戒して仏教へ引き入れ、最終的には[[誓願一仏乗]]の[[第十八願]]へ入らしめるのである。その意味では聖道門は単に廃捨するものではなく、邪義に迷っている者を聖道へ誘引するという意味があり、やがてそれをも包んでいくような雄大な教義体系が[[誓願一仏乗]]といわれる大乗の至極の浄土真宗である。 | ||
末法の時代で行証久しく廃れているにもかかわらず、行じて証しようとするから仮の法門といわれ、真実の聖道とは往生成仏の後に[[還相]]の菩薩が行じるものであるとされたのである。その意を御消息で、 | 末法の時代で行証久しく廃れているにもかかわらず、行じて証しようとするから仮の法門といわれ、真実の聖道とは往生成仏の後に[[還相]]の菩薩が行じるものであるとされたのである。その意を御消息で、 | ||
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:聖道といふは、すでに仏に成りたまへる人の、われらがこころをすすめんがために、仏心宗・真 言宗・法華宗・華厳宗・三論宗等の大乗至極の教なり。([[消息上#P--736|御消息 P.736]]) | :聖道といふは、すでに仏に成りたまへる人の、われらがこころをすすめんがために、仏心宗・真 言宗・法華宗・華厳宗・三論宗等の大乗至極の教なり。([[消息上#P--736|御消息 P.736]]) | ||
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− | とされておられた。 | + | とされておられた。<br /> |
− | + | ちなみにアインシュタインは、無宗教の立場から宗教現象を「盲目の宗教」「正義の宗教」「宇宙の宗教」と分類し、神学者の岸本英夫氏は、「請願態」「希求態」「諦住態」と、三分類で宗教現象を語ったそうである。このアインシュタインのいう正義の宗教とは邪義に対する教戒であり、いわゆるキリスト教の真理論に基づく正義を説く宗教を意味する。岸本氏の希求態も同じく理想を求める自己を磨き、そしてより高次な理想を目指す宗教を意味するのであろう。 | |
− | :883 或る人々が「真理である、真実である」と言うところのその(見解)をば、他の人々が「虚偽である、虚妄である」と言う。このようにかれらは異なった執見をいだいて論争する。何故に諸々の<道の人>は同一の事をを語らないのであろうか? | + | :883 或る人々が「真理である、真実である」と言うところのその(見解)をば、他の人々が「虚偽である、虚妄である」と言う。このようにかれらは異なった執見をいだいて論争する。何故に諸々の<道の人>は同一の事をを語らないのであろうか? → [[トーク:真・仮・偽|「ブッダのことば」スッタニパータ]] |
という自是他非の正義の立場であろう。洋の東西を問わず正義を主張することは他を非正義とする偏狭な立場なのであり、宗教的対立の原点である。それに対して、 | という自是他非の正義の立場であろう。洋の東西を問わず正義を主張することは他を非正義とする偏狭な立場なのであり、宗教的対立の原点である。それに対して、 | ||
:884 真実は一つであって、第二のものは存在しない。その(真理)を知った人は、争うことがない。かれらはめいめい異なった真理をほめたたえている。それ故に諸々の<道の人>は同一の事を語らないのである。 | :884 真実は一つであって、第二のものは存在しない。その(真理)を知った人は、争うことがない。かれらはめいめい異なった真理をほめたたえている。それ故に諸々の<道の人>は同一の事を語らないのである。 | ||
という真実の界(さかい)から示現される受動的の宗教の立場が、「宇宙の宗教」であり「諦住態」の宗教という意味であろう。自らの構築した正義や真理を放擲する立場である。 | という真実の界(さかい)から示現される受動的の宗教の立場が、「宇宙の宗教」であり「諦住態」の宗教という意味であろう。自らの構築した正義や真理を放擲する立場である。 | ||
− | + | 御開山は自らには真実はないということを真実とされてあらゆる宗教現象を「真・仮・偽」論の三分類法によって領解しておられたのであった。巷間いわれる「社会参画仏教」とやらもこのような御開山の仏教思想の上で語られるべきであろうと思ふ。 | |
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2024年10月8日 (火) 14:25時点における最新版
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真・仮・偽
御開山は、あらゆる宗教現象を真・仮・偽の三分類法でみておられた。真実と権仮方便と邪偽である。『教行証文類』では教・行・信・証・真仏土の五巻を真実とし、「化身土巻」の前半では仮である方便(要門、真門、聖道門)、後半では偽である邪義の宗教について述べておられる。 偽の宗教とは人の欲望や煩悩を増大し満足させる宗教を偽の宗教とみておられた。このような欲望を肯定し煩悩を煽るような邪偽なる宗教に対して、八聖道や六波羅蜜という苦の原点である煩悩を滅却する道として聖道門仏教を位置づけられたのであった。また、御消息では
- 「聖道といふは、すでに仏に成りたまへる人の、われらがこころをすすめんがために、仏心宗・真言宗・法華宗・華厳宗・三論宗等の大乗至極の教なり。……すなはちすでに仏に成りたまへる仏・菩薩の、かりにさまざまの形をあらはしてすすめたまふがゆゑに権といふなり」(御消息 P.736)
と、当時の厳粛な聖道門とは、還相の菩薩が修する仏道であるとされていた。ここでの権といふなりの「権」とは「権化の仁」の意である。その意味では聖道門は単に廃捨するものではなく、邪義に迷っている者を聖道門の説く正しい生き方へ誘引するという意味がある。聖道門仏教をもって邪義なる宗教に対判しておられるのであった。(化巻 P.429)
しかし邪義なる外道から聖道門仏教へ入ったのだが、真実なる道を求めようとすればするほど、内なる奔放する煩悩に打ちひしがれていく。観念ではなく実践の道に立った者が遭遇する陥穽であった。道綽禅師はこの難に対して、
と、聖道門仏教の他に往生浄土という浄土門仏教を示された。これは直接には龍樹菩薩の『十住毘婆沙論』の、
- 仏法に無量の門あり。世間の道に難あり易あり。陸道の歩行はすなはち苦しく、水道の乗船はすなはち楽しきがごとし。菩薩の道もまたかくのごとし。あるいは勤行精進のものあり、あるいは信方便易行をもつて疾く阿惟越致に至るものあり。 (十住毘婆沙論 P.6)
とある、勤行精進の「難行道」と信方便の「易行道」を説く文を解釈された曇鸞大師が難行の五由をあげ、
とされた。この「五にはただこれ自力にして他力の持つなし」という他力の語に道綽禅師は深い感銘をうけられた。そして、仏教を聖道門(難行道:自力自摂の法)と浄土門(易行道:他力他摂の法)に二分されたのであろう。御開山が正信念仏偈で道綽禅師の釈功として、
- 「道綽決聖道難証 唯明浄土可通入。万善自力貶勤修 円満徳号勧専称。(道綽、聖道の証しがたきことを決して、ただ浄土の通入すべきことを明かす。万善の自力、勤修を貶す。円満の徳号、専称を勧む。)」(行巻 P.206)
と讃嘆される所以である。教学的には、あまり評価されることが少ない道綽禅師だが法然聖人は『選択集』の冒頭に、
- 道綽禅師、聖道・浄土の二門を立てて、聖道を捨ててまさしく浄土に帰する文。 (選択本願念仏集(P.1183)
と、「聖浄二門判」を引文し浄土宗の独立の根拠とされておられた。[1]
『醍醐本法然上人伝記』には、後に天台座主になった顕真に、生死を解脱すべき道を問われて、
- 答う。成仏、難しといえども往生は得易きなり。
- 道綽・善導の意に依らば、仏の願力の仰せを強縁となす、ゆえに凡夫浄土に生まると云々。(『醍醐本法然上人伝記』五 大原問答について)
とされ、この土でさとりを開く「此土入聖」の法門と、浄土に往生して証を得る「彼土得証」の法門の綱格の違いについて述べられている。伝記には「その後、さらに言説なく」とあるので、顕真は即座には法然聖人の仏の願力を強縁とする往生浄土の「彼土得証」の浄土教を理解しえなかったのであろう。現代に於いても自覚という妄想に依拠して、往生浄土という成仏法を理解できない浄土真宗門内の僧俗が多い。だが仏教とは仏に成る教えである「生死出づべき道」(恵信尼 P.811)であり「ひとへに往生極楽のみち」(歎異抄 P.832)である成仏法であることを領解できないのは困ったものである。布教使の説く「救い」という語に幻惑されて、成仏を求めないなら、それはすでに仏教ではないのである。 →済度
御開山はこの浄土門においても三分類法で第十八願、第十九願、第二十願の生因三願を領解されていた[2]。
此土入聖の聖道門から彼土得証の浄土門に入ったのだが聖道の習い性としての習気があるので、聖道門の行体(発菩提心 修諸功徳)をもって浄土へ往生しようと願う行者の為の方便の願が第十九願であった。行為(業)は願いによってその意味を転ずるので「業は願によりて転ず」(*)という。行動(行業)は、何を願いとするかでその意味が変わる。それが、此土入聖の聖道の行体をもって往生を願わしめる第十九願である。
邪義の外道から聖道門(此土入聖)を経て浄土門(彼土得証)へ入ったのだが、選択本願の念仏の行ではなく聖道門の行体(発菩提心 修諸功徳)をもって浄土へ往生しようとする行者のための方便の願である。此の世でさとりを得るという此土入聖の聖道の行体をもって浄土往生を願わしめるのが欣慕浄土の第十九願である。「発菩提心 修諸功徳 至心発願 欲生我国(菩提心を発し、もろもろの功徳を修して、至心発願してわが国に生ぜんと欲せん)」と願文にある。(大経 P.18)
第二十願は、そのような十九願の行者が、やがて善本・徳本の名号の功徳性に気づいて聖道の行である菩提心 修諸功徳を捨てて専ら念仏を修する者の願である。しかし、万行円備の嘉号を自らの修する善根であると取り違えて行じているから仮という。
名号は、直ちに往生成仏しうる他力真実の阿弥陀仏から回向される行法であるが、受けとる機が自力疑心をまじえるために、自力念仏という方便になるのである。「まことに教は頓にして根は漸機なり」(化巻 P.399)とされる所以である。願文には「聞我名号 係念我国 植諸徳本 至心廻向 欲生我国(わが名号を聞きて、念をわが国に係け、もろもろの徳本を植ゑて、至心回向してわが国に生ぜんと欲せん)」とある。(大経 P.18) →願海真仮論
ともあれ、御開山は、真・仮・偽という三つの概念を用いてあらゆる宗教現象というものを説明される。つまり仮なる聖道門によって邪偽の宗教を教戒して仏教へ引き入れ、最終的には誓願一仏乗の第十八願へ入らしめるのである。その意味では聖道門は単に廃捨するものではなく、邪義に迷っている者を聖道へ誘引するという意味があり、やがてそれをも包んでいくような雄大な教義体系が誓願一仏乗といわれる大乗の至極の浄土真宗である。
末法の時代で行証久しく廃れているにもかかわらず、行じて証しようとするから仮の法門といわれ、真実の聖道とは往生成仏の後に還相の菩薩が行じるものであるとされたのである。その意を御消息で、
- 聖道といふは、すでに仏に成りたまへる人の、われらがこころをすすめんがために、仏心宗・真 言宗・法華宗・華厳宗・三論宗等の大乗至極の教なり。(御消息 P.736)
とされておられた。
ちなみにアインシュタインは、無宗教の立場から宗教現象を「盲目の宗教」「正義の宗教」「宇宙の宗教」と分類し、神学者の岸本英夫氏は、「請願態」「希求態」「諦住態」と、三分類で宗教現象を語ったそうである。このアインシュタインのいう正義の宗教とは邪義に対する教戒であり、いわゆるキリスト教の真理論に基づく正義を説く宗教を意味する。岸本氏の希求態も同じく理想を求める自己を磨き、そしてより高次な理想を目指す宗教を意味するのであろう。
- 883 或る人々が「真理である、真実である」と言うところのその(見解)をば、他の人々が「虚偽である、虚妄である」と言う。このようにかれらは異なった執見をいだいて論争する。何故に諸々の<道の人>は同一の事をを語らないのであろうか? → 「ブッダのことば」スッタニパータ
という自是他非の正義の立場であろう。洋の東西を問わず正義を主張することは他を非正義とする偏狭な立場なのであり、宗教的対立の原点である。それに対して、
- 884 真実は一つであって、第二のものは存在しない。その(真理)を知った人は、争うことがない。かれらはめいめい異なった真理をほめたたえている。それ故に諸々の<道の人>は同一の事を語らないのである。
という真実の界(さかい)から示現される受動的の宗教の立場が、「宇宙の宗教」であり「諦住態」の宗教という意味であろう。自らの構築した正義や真理を放擲する立場である。
御開山は自らには真実はないということを真実とされてあらゆる宗教現象を「真・仮・偽」論の三分類法によって領解しておられたのであった。巷間いわれる「社会参画仏教」とやらもこのような御開山の仏教思想の上で語られるべきであろうと思ふ。
- ↑ 『安楽集』の聖道・浄土の文によってこの世でさとりを得る聖道門と異なる論理体系の浄土門仏教があることを初めて開顕されたのは法然聖人であった。『安楽集』はシナや日本でもよく読まれたのだが、第三大門を教判を示す語として読めなかったのであろう。法然聖人は、600年前の道綽禅師の聖道・浄土を指示する文を教判を示す文であるとして浄土宗独立の根拠とされたのであった。『選択集』二門章で「道綽禅師、聖道・浄土の二門を立てて、聖道を捨ててまさしく浄土に帰 する文」とされておられる所以である。また『浄土宗大意』で「聖道門の修行は、智慧をきわめて生死をはなれ、浄土門の修行は、愚痴にかへりて極楽にむまる」(西方指南抄/下本)と成仏と往生との仏教綱格の違いについて述べておられた。
- ↑ 四十八願の中で直接衆生に対して呼びかけられている願は「設我得仏 十方衆生」ではじまる第十八願、第十九願、第二十願の三願である。これを生因三願といふ。