「不回向」の版間の差分
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+ | :「第四に不回向回向対といふは、[[正助二行]]を修するものは、たとひ別に回向を用ゐざれども[[自然に往生の業となる]]」([[選択本願念仏集 (七祖)#不回向回向対|七祖 1197]]) | ||
+ | と述べている。親鸞は、この説をうけて、[[回向]]の主体を行者ではなく阿弥陀仏とする他力回向 ([[本願力回向]]) の教説を確立した。「行巻」 には | ||
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+ | とあり、「国宝本」[[左訓]]には 「行者の回向にあらずとしるべしとなり」 とある。→[[大行]]、[[五番の相対]]。(浄土真宗辞典) | ||
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+ | : あきらかに知んぬ、これ[[凡聖]]自力の行にあらず。ゆゑに[[不回向]]の行と名づくるなり。[[大小の聖人]]・重軽の悪人、みな同じく斉しく選択の大宝海に帰して'''[[念仏成仏]]'''すべし。([[行巻#no69|行巻 P.186]]) | ||
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+ | 回向不回向対: [[選択本願念仏集_(七祖)#P--1196]] [[回不回向対]]: [[顕浄土真実行文類#no98]] | ||
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+ | [[Category:追記]]<p id="page-top">[[#|▲]]</p> |
2024年7月3日 (水) 00:00時点における最新版
ふえこう
念仏以外の行は、浄土往生の因となるように願いをこめてふりむけねば往生行とならないが、本願の念仏は阿弥陀仏が往生行として選定されたものであるから、行者が回向する必要がないことをいう。親鸞聖人はその意をうけて、それは如来回向の行だからだとされた。
【左訓】「行者の回向にあらずとしるべしとなり」(異本)(正像 P.607)
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
ふえこう 不回向
本来は、浄土往生の行ではない雑行 (念仏以外の行) は、回向しなければ往生行とならないが、称名念仏 (選択本願の念仏) は阿弥陀仏が往生行として選定した行であるから、回向する必要がないということ。法然は『選択集』に
- 「第四に不回向回向対といふは、正助二行を修するものは、たとひ別に回向を用ゐざれども自然に往生の業となる」(七祖 1197)
と述べている。親鸞は、この説をうけて、回向の主体を行者ではなく阿弥陀仏とする他力回向 (本願力回向) の教説を確立した。「行巻」 には
- 「これ凡聖自力の行にあらず。ゆゑに不回向の行と名づくるなり」(註 186)
とある。『正像末和讃』には
- 「真実信心の称名は 弥陀回向の法なれば 不回向となづけてぞ 自力の称念きらはるる」(註 607)
法然聖人は『選択本願念仏集』で、
- 不回向回向対といふは、正助二行を修するものは、たとひ別に回向を用ゐざれども自然に往生の業となる。(選択集(P.1197)
とされておられた。それは法然聖人の回心の原点となった『観経疏』「散善義」に説かれていた、
一心専念弥陀名号 行住坐臥 不問時節久近 念念不捨者 是名正定之業 順彼仏願故 。- 一心にもつぱら弥陀の名号を念じて、行住坐臥時節の久近を問はず念々に捨てざるもの、これを正定の業と名づく。かの仏の願に順ずるがゆゑに。(信巻で引文 P.221)
の、順彼仏願故(かの仏の願に順ずるがゆゑに)という仏の願に順ずるが故であった。念仏は私の選びではなく、阿弥陀仏が本願(第十八願)に選択された行業であるから不回向なのであった。「故」の一字をよく味わうべきであろう。 →法然聖人の回心
御開山が「後序」で、法然聖人の許(もと)へ入られたことを、
と、「雑行を棄てて本願に帰す」とされ、雑行を棄てて正行に帰す、ではなく本願に帰すとされた所以である。その本願に選択された行であるから「大行」なのであった。その大行を「行文類」で、
と、不回向の「念仏成仏」の法といわれたのであった。
回向不回向対: 選択本願念仏集_(七祖)#P--1196 回不回向対: 顕浄土真実行文類#no98