「称名報恩」の版間の差分
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− | : | + | :「称」は御なをとなふるとなり、また称ははかりといふこころなり、はかりといふはもののほどを定むることなり。名号を称すること、<kana>十声(とこえ)</kana>・<kana>一声(ひとこえ)</kana> きくひと、疑ふこころ一念もなければ、[[実報土]]へ生ると申すこころなり。 ([[一多#P--694|一多 P.694]]) |
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信因称報説は、覚如上人が強調したのだが当時優勢であった多念の称名を強調する鎮西浄土宗に対抗する為の信を強調する論理であった。この意を正確に把握しないと御開山が示された[[行信]]不離というご法義を誤解することになる。たしかに信心正因は御開山のお示しであるが、何を信ずるかといえば、なんまんだぶの名号法である。法然聖人は、 | 信因称報説は、覚如上人が強調したのだが当時優勢であった多念の称名を強調する鎮西浄土宗に対抗する為の信を強調する論理であった。この意を正確に把握しないと御開山が示された[[行信]]不離というご法義を誤解することになる。たしかに信心正因は御開山のお示しであるが、何を信ずるかといえば、なんまんだぶの名号法である。法然聖人は、 |
2018年1月22日 (月) 11:25時点における版
しょうみょう-ほうおん
『大経』第十八願には、信心と称名念仏とが誓われているが、信心こそが往生成仏の正因であるから、称名念仏は行者の心持ちからいえば阿弥陀仏に摂取された感謝の思いの中で名号が声となってあらわれ出たものであるということ。 『正信偈』に、
- ただよくつねに如来の号を称して、大悲弘誓の恩を報ずべしといへり。(行巻 P.205)
『化身土文類』には、
- ここに久しく願海に入りて、深く仏恩を知れり。至徳を報謝せんがために、真宗の簡要を摭うて、恒常に不可思議の徳海を称念す。(化巻 P.413)
等とある。また、称名正因などの異安心に対して、安心論題に「称名報恩」が設けられている。 →信心正因(浄土真宗辞典)
「称名報恩」説は、信心正因説と組み合った時に称名は二次的に思われることもある。
御開山は『尊号真像銘文』で、智栄の善導大師の徳をほめる讃を引かれ、
- 「称仏六字」といふは、南無阿弥陀仏の六字をとなふるとなり。「即嘆仏」といふは、すなはち南無阿弥陀仏をとなふるは仏をほめたてまつるになるとなり。また「即懺悔」といふは、南無阿弥陀仏をとなふるは、すなはち無始よりこのかたの罪業を懺悔するになると申すなり。(尊号 P.655)
ということを教えて下さった。なんまんだぶを称えることは、阿弥陀仏を讃嘆することになり無始已来の罪業を懺悔することになるとされるのである。阿弥陀如来の仏徳は窺うすべもないはかりしれない徳である。しかし「名号をとなふるはすなはち浄土を荘厳するになるとしるべしとなりと」ともされておられた。その真実信心の称名を『一念多念証文』では、
とされておられた。称えて聞く〔なんまんだぶ〕は、まるで天秤ばかりのように仏徳に等しい「如実修行相応」の讃嘆行なのであった。
信因称報説は、覚如上人が強調したのだが当時優勢であった多念の称名を強調する鎮西浄土宗に対抗する為の信を強調する論理であった。この意を正確に把握しないと御開山が示された行信不離というご法義を誤解することになる。たしかに信心正因は御開山のお示しであるが、何を信ずるかといえば、なんまんだぶの名号法である。法然聖人は、
- 又云、一念・十念にて往生すといへばとて、念仏を疎相に申せば、信が行をさまたぐる也。念念不捨といへばとて、一念・十念を不定におもへば、行が信をさまたぐる也。かるがゆへに信をは一念にむまるととりて、行をは一形にはげむべし。
- 又云、一念を不定におもふものは、念念の念仏ごとに不信の念仏になる也。そのゆへは、阿弥陀仏は、一念に一度の往生をあてをき給へる願なれば、念念ごとに往生の業となる也。(禅勝房にしめす御詞)
といわれていた。
その意味において「信心正因 称名報恩」の術語は「信が行をさまたぐる」のであり、御開山の正確な意では「信心正因 称名業因」というべきである。ともあれ、「信心正因 称名報恩」の語に拘泥して、ありもしない称名抜きの信心を門徒に説かざるをえない真宗の坊さんは可哀想ではある。
という訳で、信因称報説を強調する為とはいえ、これはアカンやろと思ふこともある。→鏡御影の讃
本願の名号は正定の業(本願の名号は、正しく往生の決定する行業である)である。これを受け容れたことを信心正因というのであった。信心の対象は、なんまんだぶという耳に聞こえる阿弥陀仏の招喚なのであった。→信心正因