「本願成就文」の版間の差分
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2024年3月26日 (火) 22:43時点における版
ほんがん-じょうじゅもん
阿弥陀如来の「第十八願」が林遊の上に成就していることを、釈尊が衆生に告げられる文であるから「本願成就文」と呼ぶ。[1]
阿弥陀如来の第十八願、
が成就していることを、釈尊が衆生に告げられる文であるから「本願成就文」と呼ぶ。
第十八願成就文は、第十七願成就文、
- 原文:
十方恒沙諸仏如来 、皆共讃歎 、無量寿仏威神功徳不可思議 。- 読下し:
- 十方恒沙の諸仏如来は、みなともに無量寿仏の威神功徳の不可思議なるを讃歎したまふ。(大経 P.41)
の諸仏讃嘆(名号讃嘆)を享(う)けた「あらゆる衆生、その名号を聞きて(諸有衆生 聞其名号)」に望めて、
- 原文:
諸有衆生 、聞其名号 、信心歓喜 、乃至一念 、至心回向 、願生彼国 、即得往生 、住不退転 、唯除五逆 誹謗正法 。
とあり、この成就文を通常の漢文として読めば『論註』のように、
と読むべきであろう。法然聖人はこの乃至一念 (すなわち一念に至るまで) を行の一念 (一声のなんまんだぶ) とみておられた。ところで御開山は、
- 御開山の読下し:
- あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん。至心に回向したまへり。かの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん。(信巻 P.250)
と「至心に回向したまへり」と訓じられて、衆生から仏への回向ではなく、仏から衆生への回向であると読まれた。それは本願力回向の宗義をこの経文に読みとられたからであった。 阿弥陀仏より回向された信心の智慧によって成就文の経文を読み取られたのである。
御開山は『無量寿経』の異訳である『無量寿如来会』の成就文、
の浄信の語によって一念は信の一念であるとみられたのであった。
法然聖人が示された、なんまんだぶは「たとひ別に回向を用ゐざれども自然に往生の業となる」(選択集 P.1197) という教示により、衆生の側からの不回向とは阿弥陀如来からの回向であるとされたのである。法然聖人が浄土宗の所依の三経一論として挙げられながら言及されなかった『浄土論』『浄土論註』の本願力の語の示唆によって、法然聖人の深意を展開された本願力回向の浄土真宗の法義であった。まさに善導・法然の教学を包み込む、あらゆる衆生を仏陀のさとりの世界へ趣(おもむ)かせる「誓願一仏乗」の本願力回向の仏法であったのである。そして、それが、なんまんだぶを「行」とする、あらゆる衆生をさとりに趣かせる「選択本願は浄土真宗なり、定散二善は方便仮門なり。浄土真宗は大乗のなかの至極なり」(御消息 P.735) という大乗仏教の本源であった。
- ↑ 第十八願には「欲生我国 (我が国に生ぜんとおもえ)」と我が国とあり、第十八願成就文には「願生彼国 (かの国に生れんと願ずれば)」と、かの国とある。