たすけたまへとおもへば
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
たすけたまへとおもへば (後世物語 P.1366)
親鸞聖人には、たのむ(憑む)という、おまかせするとの意味の用例はあるが、「たすけたまえ」という用例はない。この「憑む」の語源の一つは、田の実(田で獲れる米)であるという。(トーク:たのむ)。
たしかに『涅槃経』には「命を説きて食とす」(真巻 P.349) という語もあり、
「たすけたまへ」は、「タスク」という動詞の連用形「タスケ」に、尊敬の意をあらわす補助動詞「たまふ」の命令形「たまへ」の形で、「おたすけくださいませ」という意味であろう。
法然聖人の、真偽未詳とされる『黒谷上人御法語』(二枚起請文)には、
- 仏の願によらずば、かゝるあさましきものゝの往生の大事をとぐべしやと思て、阿弥陀仏の悲願をあふぎ、他力をたのみて名号を憚りなく唱べき也。是を本願を
憑 とはいふなり。すべて仏たすけたまへと思て、名号をとなふるに過 たる事はなき也。(*)
と「仏たすけたまへと思て、名号をとなふる」という例がある。これは「本願を
ともあれ親鸞聖人には「たすけたまえ」の用例はない。「たすけたまえ」は衆生の側からの救済の
しかし、なんまんだぶ、と仏の側からの救済の名乗り(本願招喚の勅命)を受け容れる信順の意味でとれば、「たすけたまへ」は相手の意を受けいれる
後年、本願寺八代目蓮如上人のご教化のスタイルについて、『御一代聞書』(聞書p.1290) で、
- (188)
- 一 聖人(親鸞)の御流はたのむ一念のところ肝要なり。ゆゑに、たのむといふことをば代々あそばしおかれ候へども、くはしくなにとたのめといふことをしらざりき。しかれば、前々住上人の御代に、御文を御作り候ひて、「雑行をすてて、後生たすけたまへと一心に弥陀をたのめ」と、あきらかにしらせら れ候ふ。しかれば、御再興の上人にてましますものなり。(*)
と、浄土真宗再興の言葉が「雑行をすてて、後生たすけたまへと一心に弥陀をたのめ」の言葉だというのであった。仏の仰せに信順して、なんまんだぶ以外の雑行を捨てて、後生タスケタマヘであるから仏が先行するのである。蓮如上人も、当初は「たとへ名号をとなふるとも、仏たすけたまへとはおもふべからず」と「寛正二年(1462)お筆始めの御文 」(*)では、たすけたまへという用語には懐疑的であった。当時浄土宗の中でも盛んであった浄土宗一条浄華院流でさかんに用いられていた「たすけたまへ」という教語に否定的であったからであろう。浄華院流は、蓮如上人が吉崎に居られた当時の近江、越前で盛んであった。
もっとも、蓮如上人と浄土宗一条浄華院派との縁は深かった。継職前(本願寺八代目継職は43歳)で若い頃の貧乏寺の部屋住みであった当時の蓮如上人は、生まれた子を養う
その浄華院流の弟子であった見玉尼の往生を帖外御文で、
- かの比丘尼見玉房は、もとは禅宗の喝食なりしが、なかころは浄華院の門徒となるといえども、不思議の宿縁にひかれて、ちかごろは当流の信心のこゝろをえたり。(*)
とされているので、こうした見玉尼の浄華院での見聞を知ることを通して、蓮如上人は、たすけたまへという用語を許諾の意で用いれば、浄土真宗の救いを表現するのにふさわしい言葉であるとして使われたのであろう。文明五年(1473)八月十二日付けの御文章 一帖の七に「たすけたまへとおもふこころの一念おこるとき」から「「たすけたまへ」の語を使われはじめられた。
そのような意味では、親鸞聖人は阿弥陀仏を「法」を中心としてみるのであり、蓮如上人はその法を「人格」としてみる面があったのであろう。浄土真宗の門徒の間で、阿弥陀仏を親さまとか阿弥陀さまと人格的に呼称するのも蓮如上人の教化の影響からであろう。ともあれ蓮如上人は、タスケタマヘとタノムという教語で阿弥陀仏を人格的に表現することによって、より民衆に親しく浄土仏教の意味を説かれたのであった。また、西山派の書とされる『安心決定鈔』(*)の「機法一体」の教語 [1] や、同じく西山派の「平生業成」[2]の用語も自家薬籠の物とされて当時の民衆に親鸞聖人の開顕された「ひとへに往生極楽のみち」(歎異抄 P.832) である後生の一大事を伝え、やがて日本有数の教団である現在の浄土真宗の基盤を築かれたのであった。
- →たのむ
- →帰命
- →安心論題/タノム・タスケタマヘ
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